「そうだ」なんて、誰かの強い言葉に従って
「そうだ」と言われればそうだと思ってしまう私たちにとって、この世界は何より不安定に感じられる。「そうだ」とは他人の言葉であり、意見であり、ものの見方であり、偏見と決めつけと、1つの真実である。
それは大抵は誇張されており、一面的で、推測の域を出ないのに、頭ごなしに否定できない偏見だ。「そうだ」と言う気持ちが私たちには分かってしまうものだから、どうしたってそれに影響を受けざるを得ない。それどころか、信じてしまう。
それにもし、「そうだ」を信じないと頑なならば、私たちは人を信用しない天邪鬼になるしかないし、天邪鬼は大抵、多くの人が盛り上がっているのに否定意見を発表する、水差し野郎でもある。
嫌われて、爪弾きにされることだろう。
なので結局のところ、私たちは他者の意見に流されるまま生きる。「そうだ」は「そうなんだ」になり、血肉として蓄積されて、その思考となり、生き方を定義する。
それをおいそれと引き剥がすことなんて、できやしない。でもそれが、他人の個人的なもので固められていることにも気づいている。私たちはそんな自分でない「そうだ」にぎゅうぎゅうに押し固められながら生きていて、その形になったまま、簡単には元には戻れない。
戻る気もないかもしれない。別に「そうだ」まみれでも生きていけるから。むしろそのほうが、安全に過ごすにはぴったりかもしれない。
いろんな「そうだ」がある中で、私たちはそれをどうしても受け入れて生きざるをえない。そのことに気づいてもそうでなくとも、「私」の思考回路は「そうだ」に満たされた生の中心で、それと一体化して動いてしまう。
一抹の不安をそこに感じながら。
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