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「自分以外」がいったい何人いるのか想像する

 自分が特別なのだと思うことは自信に繋がるが、一方で傲慢に繋がる。「傲慢さ」はあなたを、この世界での立ち位置のわからない不遜な人間にさせてしまう。

 自分以外の人間が何十億倍もいるこの世の中で、他人を完全に見ないで生きていくことは不可能である。なぜ不可能なのかと言えば、それだけ多くの「自分以外」がいるということは、この世のほとんどはその「自分以外」のために形作られ、動き、語られているからである。
 即ち「この世の中は」と言う時、その対象はほぼ全てが他人のためになる。割合として、他人よりも自分が勝っているということは数的にありえない。それでもなお、私達が自分を優先したくなるのは、そこに「付加価値」を見出しているからだ。

 算出される人数という絶対現実よりも、私達は心情的に「自分」の方が価値があると思ってしまう。それは即ち、自分の方が生きるべきだと思う本能であり、そのために様々な理由を探す中で、主観的な付加価値を見出してしまうということである。むろん、たしかに人数という絶対現実と同じように、たとえば財産の額とか、子孫の数とか、経済効果とか、社会貢献度とか、認知度とか、とういった価値は、私達ひとりひとりにあるかもしれない。
 しかし、事実として人数は、いち個人よりもその他多勢のほうが多いのであり、そこに発生する需要もまた、個人に比べて無視できない。だから私達は、個人の事情や価値よりも、社会の事情や価値を優先されるという、現実に直面する。
 この世の多くの物事は、個人向けではなくその他大勢に向けて存在する。つまりパーソナライズされた何かというのは稀なのであり、私達は往々にして、「一般的な」何かを手にし、見聞きし、感じ取ってすごしている。しかし、私達はこの世界をほとんど主観でしか判断することができないから、それがあたかもパーソナライズ化された、つまり自分に対してのみ向けられた何かなのだと、そしてそうである自分は特別なのだと考えてしまう。
 もちろん、それは事実ではない。

 あらゆる事象が個人ではなく集団のためにある。個人の付加価値は、集団のものに勝ることは少ない。そう思うことによってあなたは、この世の中での立ち位置をいくらか冷静に見ることができる。
 概して人間は、個人主義に陥りがちな思考回路を持っている。それはこのような「傲慢さ」のみならず、反対の「卑屈さ」でも同じだ。過度に自分が優れているとか、劣っているとか思ってしまうのは、どちらもこの世の中が、個人よりも集団を優先していることを判断できていない証である。
 その他大勢よりも優先される価値を、個人でなかなか持ちえないこと。そしてこの世の基本的な摂理は、個人よりも集団に心地よいようにできていること。そういったことを踏まえて、あなたは、過大でも過少でもなく、あなた自身の価値を常に評価し続ける必要がある

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