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「あり得ない」に支配され、人が理性を手放す前に

 あり得ないと思っていたことが起こるのは、あり得ないという考えが間違っているからだ。つまりそもそも、この世のあらゆる出来事は「あり得る」のであって、「あり得ない」と言ってしまえるほどの知識…つまり、まるで私達が知らないことなどないなどという観念こそ、あり得ないと言える。

 なぜか人はまだ起こっていないことを勝手に予想してあれこれと語り、あまつさえ信じ込んでしまうものだが、それは単に想像に過ぎないのであって、もっともらしく起こりそうとか、起こらなさそうとか言ってしまえるのは、本当に人間だけの傲慢である。
 特に「あり得ない」についてはそれが顕著だ。あらゆる可能性の中で勝手に自らが判断材料とできるものを前提として、出現することを否定する。それはつまるところ、自らを脅かすものへの拒絶であって、この世界は自分が思ったとおりのものしか存在してはならないという縄張り意識である。
 人は理性を発達させて今の地位を築いたと言われるが、結局のところ根底にあるのは原初的な生への執着なのだ。すなわち自らを脅かす可能性のあるもの――予想外のもの、従って対処できないもの――をどうにかして取り除きたい。そういう潜在意識の上に、「あり得ない」という感覚は生まれている。

 恐らく、人がそれを受け入れることは、本当の意味でないだろう。だがこの恐怖心をいくらかコントロールすることは可能だ。なぜならやはり、人は理性的な生き物だからである。
 唯一と言って良いくらいに特殊な理知を獲得した私達が、なおも原初の感覚を疑いもせずに振るっているのはどうにもおかしい。
 あり得ないと思っていたことが起こるのではない。起こったことに対して私達が勝手に、あり得ないと思うのである。ならばこの世界を生きるために理知を用いる人間がやるべきは、外側にばかりそれを向けるのではなく、この感覚を生じさせる内側の自分を十分に理解することではないか。

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