人と人が対面することの意義
デジタルな技術が浸透したことによって、私達は誰とも会わなくとも生活を続けることができるようになった。少なくともそうして良いのだという風潮が生まれた。いつしか、何か技術が介在することによって、実際に会わなくとも会うことと同等の効力が得られるものだと信じられるようになったのである。
けれども、こういった「会わない」ことへの拒否感は未だに根強い。そのわけは様々あるが、往々にしてそれは、これまで私達は実際に誰かと会うことを前提として活動してきたから、というものだ。
つまり古来よりそのような生活様式で、私達は上手くいっていた、だから新しいものはまた正しいかどうか分からない、という姿勢である。
この主張が正しいかどうかはおいておくとしても、考えようによっては、この「実際に会う」というのを神格化する感覚は間違っていない。なぜならある1つの基準に照らし合わせた時、この「会う」と「会わない」は明確に異なる点があるからだ。
つまり、当たり前の話だが、どう頑張っても「会う」ことは、「会わない」ままでは代替できない部分があるということである。
特徴的な1つの話として、言語は読むよりも書く、そして更に喋ることによってしっかりと憶えられるというものがある。つまり記憶力は、身体的な活動によって活性化されるのだ。
あるいはもう1つ、あれこれアイデアをひねって考える時、座ったままでは中々出てこない。いっそ散歩でもして気分を変えると、そこにふといいアイデアが浮かぶというものがある。つまり、創造力とは足の裏への刺激によって活性化されるのだ。
こういったことをふまえて考えると、私達が「実際に会う」のと「会わない」のでは、有意に運動量が違うから、それぞれでの記憶力も創造力もまったく異なるということが導き出される。
即ち、「会わない」ことで私達のポテンシャルは、「会う」ことよりも落ちているのだ。あるいは、会うことで私達の能力は向上するとも言える。
それは言いようによってはストレスかもしれない。誰かと会うというのは、様々な負担もかかるし、労力もいるだろう。だがその経験が、むしろ私達に忘れようのない記憶を刻む。
実際に会うのと、会わないままでのやり取りが同じ情報量だったとしても、その間には絶対的な運動量とストレスの差が存在する。そしてその差分だけ、私達の能力(特に、記憶力や創造力)は向上するのである。これが、会うことでは代替できない、会うことの利点だ。
私達は、実際に会うことで体を動かす。しかし会わなければ、体の動作は最小限となってしまう。この、同じ情報量に対して体の動作量が違うことによる影響は、無視できない。
たとえ私達が誰とも会わなくとも生活できるようになったとはいえ、いずれにせよ私達の本能はまだ、「実際に会う」ことを手放せるほど、私達自身の能力を過信してはいない。
それが、会うことへの神格化に繋がっている。
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