「面白ければ良い」を考える
クリエイティブな事象には、ときに不可思議なルールが適応される。
無から有を生み出す作業、彩りや創造性に溢れた作業、答えのない中で最適を探す作業。これらには、もちろん、作業と呼べるからには最低限のルールがある。しかし時として、これらの作業はクリエイティブであるがゆえに、それらが従うべきルールすら作り出してしまうことがある。
自身が従うべきルールを自身が作り出すとは不可思議なことであるが、クリエイティブな作業は自身が最大限自由に動けることが、実際のところ目指されている。コストやコンプライアンス、納期、時勢の流れなど様々な制約がある中でもそれは普遍的だ。そういった「常識的なもの」「当然、そうされているもの」の枠を飛び越えて、クリエイティブがルールを作り出すとき、そこには1つの基準がある。
それは「面白さ」である。
面白いかそうでないか。これはとても重要であり、言ってみれば何にもかえがたい。なぜなら、面白いものとは唯一、他の何によっても作ることができないからだ。それは工場で生産されるものでも、水を与えれば生えてくるものでも、ある場所から別の場所へ運べば完了するというものでもない。
面白さとは、ありふれた存在に思えて、その実異質の存在である。だからこそ、それはクリエイティブと密接な関係にある。無から有を生み出し、彩りや創造性に溢れ、答えのない中で最適を探す。そういった作業にとって、面白さとは生み出すべき対象であり、他の様々な堅苦しいルール、従うべき不条理なルールの中で、唯一と言っていいくらい尊敬できる基準である。
だから、創造的な作業というのは、整合性や定常性、規律性などよりも、「面白さ」を優先することがある。それは、他のルールや、それらルールを信奉している人々にとってはあり得ないことだ。
「面白さなどという不確かなものを基準にするなんて!」と、そう思う。けれど、クリエイティブな作業というのは、その面白さをこそ求めているし、求めていなければならない。だからときとして、その他の一般的なルールを踏み越えたり、場合によっては蔑ろにしたりすらする。しかもそうして完了した作業に対して、称賛すら浴びせられることもまた、起こりうる。
それは、クリエイティブが作り出すことのできる、「面白さ」の力であると同時に、私たち人間の「面白さ」への渇望でもある。
この世は何もかも、ある一定のルールや、冷静な判断力でできているのではない。単に「面白い」かそうでないか、そういった基準もまた、存在していることは事実である。
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