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<見やすさ>と「わかりやすさ」と
表現において、見やすいこと。そしてわかりやすいこと。それぞれは、それぞれを押しのけ合う性質を持つ概念である。即ち、見やすいこととわかりやすいことは、究極的には両立しない。もちろんそれらを同時に保持する表現は可能だが、よくよく考えてみると、必ずどちらかがどちらかを犠牲にしている。
しかし、見やすいことはわかりやすいことと同義ではないか? そういうふうに最初は思う。素朴な直感だ。誰だってそうだろう。遠くからでもそれがなにかわかること、考えずともぱっと目に入っただけで何か理解できること。それらは当然のことながら「わかりやすさ」だ。<見やすさ>がそれを連れてきている。
無論、その感覚は間違っているはずもなく、見やすければわかりやすい。わかりやすいということは見やすい……そう、思えてくる。だが、まやかしだ。
<見やすさ>を求めて「わかりやすさ」を狙ったり、「わかりやすさ」のために<見やすさ>を追求するのは、実はちぐはぐな行動だ。それらは、互いを侵犯し合う。なぜなら、見やすいというのは表面の話で、わかりやすいというのは内面の話だからだ。
何かが見やすいとき、それは表層にある色や形や温度や動きや表情や、その他諸々、外面的に現れる要素がよく見えるという意味である。
何かがわかりやすいとき、それは内側にある思念や理由や感情や、その他諸々、内面的に生じる要素がよくわかるという意味である。
即ち、見やすいというのは表面上のなにがしかがちゃんと現れるように整えられた、ということなのだ。その一方でわかりやすいとは、内面下のなにがしかがちゃんと理解できるように整えられたということだ。
簡単な例として、ある思想家の戦争への想いを、
NO WAR
と表すことと、
私の祖父は、まだ私がこの思想家の道を志そうと心に決めた、大学を留年し両親に勘当されながらも、一人暮らしの祖母の家へ転がり込み、親戚のつてで仕事をしながら学業に励んだ、あの23という年齢よりもずっと若年だったにもかかわらず、近所の人々はおろか友人、恋人、両親、最愛の妹にすら万歳三唱で片田舎から地獄の戦場へと送り出されたことに、齢98歳で大往生を遂げるまで愚痴の一つすら、当時の政府にさえもこぼさなかった、誤解を恐れずに言えば日本男児であった。
そのことに平和な時代に生きる甘えた自分は尊敬よりも恐怖を感じ、同時に不思議な興味を持ったのも事実であり、後に祖父の、戦争への恨みつらみを綴った秘密の日記を、解体されゆく祖母の家から見つけた時に、戦争が国同士の政治的なものではなく、まさに私事として腑に落ちたのだった。
日記がなければ、私は戦争に関して当事者ではなく、ずっと遠いままであったのだと思うにつけ、自分のような立場、感想、実感を、多くの現代日本人が持っているだろうことに納得がいったーー
のように表すこととの間には、ものすごい違いがある。前者は見やすさであり、後者はわかりやすさだ。ぱっとみて主張が見えることと、その理由や動機やその他の雰囲気がわかることは、全然意味が違う。
くれぐれも、<見やすさ>のための「わかりやすさ」、そして「わかりやすさ」のための<見やすさ>を目指さぬよう。
これらは別種のものだ。それを理解した上で、それぞれを有効に扱う、ときとしてバランスを考えて扱うことが、表現者には肝要である。
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