親ガチャと、それをネタにする人々の心の中は
それが真実かどうかに限らず、「ガチャ」というのは私達の人生を確かに上手く言い表しているものだと思える。しかも、それは引き直せないガチャであり、だからこそこのガチャは、人生を「糞ゲー」にたとえる風潮と、諦めの心を生み出す要因にもなっている。
とはいえ、人生のそういった側面は、有史以来ずっと変わらずにあったのだから、この現代において、いまさら盛り上がりを見せるものでもなかったはずだ。しかし、「ガチャ」という集金装置の発明によって、そしてそれが野放しとなり、私達がなすすべもなくそれを経験し続ける中で、気づかされてしまったのだ。
この生が、やり直しの利かないガチャであることに。そのように思えてしまうことに。そしてそう考えてしまう私達の思考に、やはり、なすすべもなく気づかされてしまったのである。
そういうわけで、「子ガチャ」(もともとは、この言葉が先だったそうである)とか「親ガチャ」とか、その他様々な「~ガチャ」が、私達の1つの価値観となった。しかも、それから逃れるすべはない。なんなら、人生において取り返しのつかない影響を及ぼす瞬間こそ、ガチャ的に進んでいくことばかりである。人間関係、受験、就職、退職、結婚、事故、事件、経済、世界情勢……。
一個人として、対応できないことばかりでこの世は構成されている気がしてくる。そしてその根源に、そもそもそんな人生を歩まされている理由である「親」がいるのだ。しかもこれは選べない親だ。
さらに考えれば、親ガチャとはガチャですらない。なぜなら親は生まれてくる前から決まっているから、子供にとって、それを「引くかどうか」ということすら選べないのだ。強制的ですらない。むしろ、自分が生まれた後から、「実はガチャだったのだ」と不意打ちで知らされるようなものである。逃れるとか逃れないとかの選択肢すらない。
そのために、「親ガチャ」は、「子ガチャ」よりもはるかに大流行したのだ。ガチャと言いながらそうではないから。その怒りにも似た諦めと自嘲が、嵐のような共感性をうんだのである。
そして、さらに悪いことに、この自嘲は親達にも伝播した。要するに、「親ガチャと批判される親自身」という立場を、この言葉は親達に与えてしまったのである。本当はこの言葉は、子供達のものであるはずだった。しかし今や、親ガチャは、親自身がそれを自覚してすらいるものである。ある意味で1つの称号である。悪い意味であることは関係がない。なぜなら全ての親が、その子供にとってガチャであるからだ。
自分達が悪いのではない。自然の摂理だ。親達はそのように開き直って(無論、当人達にもどうしようもないのだから、ガチャであることへの責任はない)、むしろ親ガチャであることを誇示し、承認欲求を満たすためにすら用いることも珍しくなくなっている。
不毛だ。これらは全て、自嘲である。そもそもが人生というどうしようもないガチャに等しく泣かされている人々の、もはやネタにするしかない、確かな現実なのである。
だから親ガチャは、改善すべき社会問題などではない。それは、私達が一様に考え続ける、人生の1つの側面である。私達にはそれを、見つめ続け、茶化さず、真摯に受け止める勇気が必要である。
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