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他者の意見を「雑音」と切って捨てられる時

“雑音”は厄介である。それは人の意志や行動を邪魔する1つであり、何かを為そうとする時にやる気を削ごうとする数多の声である。
 雑音は、多くは自分とは違う立場の意見である。だから雑音は、「私」とは異なる利益を目指してそのやる気を削ごうとする。「私」にそれを行われては困るからこそ、わざわざ止めにかかるのである。
 雑音は敵だ。それゆえに聞く必要はない。しかしそれゆえに、私達は1つ重要なことを考えなければならない。

 即ち雑音とは、他人のものばかりではないということである。それは異なる意見を持つ声だ。異なる利益を求める声である。そして、それが雑音として排除されるためには当然、その声は「間違っていなければならない」。
 だから雑音は厄介なのである。
 雑音とはこの世にある様々な意見のうち、往々にして「私」にとって邪魔なものをそう認定しているにすぎない。その主観が雑音を作る。言うなれば。正義にとって悪の意見は雑音であり、悪にとって正義の意見は雑音である。

 なので、絶対的な雑音などない。それは単に、「私」が気に入らないというだけで認定できる脆いものだ。その上で自分自身が、それを聞く必要はないと思うのなら確かにそれは雑音になる。
 だがもし、「私」が他の多くの雑音にとって「悪」と唱えられるのならば、その声は単なる敵ではない可能性がある。その時、「私」は聞かねばならない。雑音ではなく自らの心の声を。正義か否か。正しいかどうか。倫理や道徳に向き合って事をなせているか、その意志。
 そうでないのなら少なくとも、「私」の行いは雑音の1つでしかない。雑音を受ける側ではない。数多の雑音と同じ、1つの意見。淘汰され得る、儚い立場。正議を騙る悲しき蜃気楼。

 雑音は敵だ。そして異なる意見である。しかし必ずしも、自分以外の何かというわけではない。「私」は常に倫理と正義に照らし合わせて進まねばならない。その意志こそ、自分以外を雑音だと切って捨てられる正当性を備えている。
 そうでない時、「私」は雑音の1つとなる。
 そこに正しさはなく、なんの崇高さもない矮小な存在としての「私」が正体として現れる。その時、邪魔されて当然の悪は「私」の方だ。

 他の意見を雑音としたいのなら、自分自身に「正しさ」は確かに必要である。

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