我々が「犯人」をいつも欲するのは
皆、犯人が好きだ。好感を覚えているというのではない(そういう人もいるかもしれないが)。そうではなく、犯人が「いること」自体を、ともあれ私達は歓迎している。
つまりこの世には犯人と呼ばれる人達がいて、色々な悪事とか、不平等とか、裏工作とか、不幸、不和、あらゆる愚行の原因となっていることを、誰も否定しないし当然だと思っていて、そしてそうでなければ困るのだ。
なぜなら、犯人がいるとするのならば、そしてそれを「あの人だ」と断定したり、場合によっては探したりするのならば、必然的に私達は犯人ではないことになるからである。
犯人がいるという状態。それはいいことではない。でも自分以外の誰かが犯人である状況は、自分が悪ではないことの安心に繋がる。ならばできるだけ、その状態を続けていきたいと、私達は考えるのだ。だからむしろ、「犯人」はいた方がいい。
このような心理がエスカレートすれば、当然にいないのに犯人を作り出す捏造も起こる。それは実際の人に罪がなすりつけられれば冤罪と言われるが、架空の誰かに罪を着せることもある。もしくは人ではなく、風土とか雰囲気とか社会構造とか、そういう概念にも罪は求められる。
なんにせよ、私達は安心したいのだ。犯人を見て。犯人が悪いものだと確認して。そしてそれが、自分以外の何かであることに。だから、「犯人」を肯定する。それがどのようなものであるにせよ、とにかく、犯人そのものに、それがいるということを欲している。
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