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「物分りがいい」のは誰のため?

 きっと、波風を立てることは面倒だから、わざわざ何かに反対したりとか、逆らってみたりとか、本当の気持ちを言ったりとか、違う角度から発言してみたりとか、決まったことをひっくり返してみたりとか、そういうことは、しにくいのだと思う。

 世の中はきれいに回っているわけではなく、ただ、それは生きる人々のそれぞれの考えのもとで動いていく。ルールも規則も決まりも何も、誰かが決めたもので誰かのためにあって、必ずしも自分自身のためにはない。毎日起こる色々な出来事もまた、その原因も結果も自分とは関係のないところにあることがほとんどだ。だからそんな物事にいちいち自分を挟もうとしても、無駄なことだとよく分かっている。

 それは「物分りが良い」と言われる。大人で、理解があって、思いやりすらそこにはうかがえる。そういう人はきっと優しくて強い。だから、それをぜひとも目指すのだと、私達は誰にとも無く教えられている。美徳であると言われることだってある。
 でも、それでも、物分りがいいことは別にあなたのためではない。それは、誰も波風を立てないことを喜ぶ人々のためのものでしかない。

 それが誰であるかを想像するのは不毛だ。けれど、物分りの良さがいつも身にならないことは事実である。もしそれがデメリットを生むのなら、それをかぶるのは物分りのいい人なのである。この気持ちは利用される。物分りが良いという人々は、いつもではないけれど、被害者だ。
 なぜならこの話題性が先行する時代において、騒がなければ何にもならないからだ。私達が声を上げなければ、戦わなければ、目立たなければ、それは賛同したも同然だからだ。
 物分りがいいということは、本当は賛同していないにもかかわらず、頷いていることに他ならない。だがその自重はもう、意味を持たない。そんなこと、誰も配慮してくれない。

 物分りがいいことは、誰のためなのか。それは波風を立てないから、全体のためにはなるかもしれない。でも少なくとも、それをする人のためにはまったくならない。

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