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余裕なく、甘えを廃して行き着く先は
甘えが許されないのは余裕がないせいなのに、甘えた当人が悪いとされるのは悲しい話である。本来は、多くの人が少しずつ甘えられるだけでも理想なのに、甘えを受け止める人々に余裕がないために、結局「ほんの少し」ですら許されなくなってしまっている。
そもそも人間は、一人ではできることに限りがある。というよりもどんな物事も、「何か1つ」で成り立っていることは基本的になくて、様々な集合体、役割の分担、全体としての向上、利益の再配分といった仕組みが当然あるものだ。
それは言ってみれば「甘えの構造」であり、たった1つの強固な何かよりも、脆弱な部分はあるが複数の協力のほうが物事が上手くいくという自然の摂理なのである。
しかし、それなのに人間社会において「甘え」は許されない。許されるとしてもごく限られた間柄においてはであって、往々にして「甘え」とはネガティブな印象が持たれている。それを良い意味で用いることは少なく、甘えは基本的にないほうが良いとすらされてしまっているほどに。
なぜなら、余裕がないからだ。
甘えを受け止めるための。
確かに「甘え」が存在するからには「甘えられ」ももちろん存在して、そのためには受け止めるだけの許容量が必要である。わざわざ他人のために、自らの時間やお金やその他諸々を使わなければならない。
そう考えるともちろん、余裕がなければ不可能だろうと思う。
目まぐるしい現代においては「余裕」というものは私達個々人からは消失しつつあり、いかにして個人的な最大幸福を達成すべきかと思っているところ、自らを他人のために使っている暇などない。
少なくとも、私達はそのような考えに支配され、元々良いイメージのない「甘え」など、許すはずも許されるはずもないと考えている。
そうして余裕のない社会が当たり前であるからか、甘えの責任は個人に向いている。本来、甘えとは集団という有利を活かすための仕組みであるのに、私達は個人に分断されているからなのか、もはや、そのメリットは考えられないのだ。
そうやって心の余裕をも失っていく人間に、やはり「甘え」など許されるはずがない。本当はそうやって余裕のない時にこそ、「甘え」、「甘えられる」ということは良いことであるはずなのに。
甘えなど許されるはずはない。それは怠惰であり、個人の責任であり、甘えるくらいならば自分だけでなんとかしなければならないのである。
そういう余裕のない「甘え」への受け止めが、ますます、私達の心から余裕と度量と、本当は手に入れられるはずだった他者との協力による利益を、奪い去っていく。
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