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あなたは今、何を神聖視するのか②ーその裏にある暗い価値観

 神聖視は特別なことではない。
 何かを神聖視することは、ともすれば心酔することと捉えられ、下手すれば狂信者、間違った方向に進んでしまうことであり、肯定されることは珍しいと思われがちである。
 しかし、神聖視は人である以上当たり前の情動で、それはある種、現代の象徴でもある。なぜなら人にとっての聖なる価値とは「その人だけのもの」だからで、個人主義の極まったこの現代にこそ相応しいからだ。

https://note.com/kawausowright/n/n4d7eb31fe82f


  社会が同調性ではなく特別性を重視し、一体感ではなく個別感を認めねばならぬと降参した現代。その瞬間に、私たちは、私たちだけの「聖」を信奉するのにはばかられなくなった。
 つまり信心とは、信仰とは、浄とは、いよいよもって現代において満開を迎えたのである。呪術や儀式と接続された未開の価値観ではなく、文明が高度発展したからこそ、経済がここまで成長したからこそ成し遂げられたものなのだ。
 私たちは社会を作ったが、それは神によってであり、おかげで個人は息苦しくなっていき、社会を個人と接続するのはやめようと思うようになった。
 つまり個人と神とは切り離されるはずだったのだ。
 しかし社会から放り出された我々は、むしろその心中に抱いた神的価値観を、捨てるどころか一層強めた。なぜなら、社会という枷がなくなり、他人の目を気にしなくなったからだ。ルールが破壊され、神とは最初から、人それぞれの中にいたのだと気づかされたのである。


 神聖は私たちに宿っており、社会によってある一方向へと整えられていたにすぎない。今、そこから解放された私たちは、まさに自由に、聖なる価値を抱いて生きることが当然となった。
 だが、重要なのは神聖視だけではない。何かを神聖に思うということは、その先に私達は、聖ならぬものとしての「不浄」を見るということだからである。
 不浄。
 たとえば個人的信仰に口を出すのは無粋であり、不浄である。これにより私達は、神聖視と同じように結束を手に入れられる。同じものを信仰し、価値観を確かめ合い、不浄なものを排斥することを共にする。不浄を信じることで特定の神聖社会が築かれる。
 即ち、私達は社会から抜け出てなお、新たな社会へと所属していくのだ。自らが浄と認めたものを頂点とし、不浄と認めたものを最底辺として、その2つの間において神聖的価値観が支配する社会を作り上げる。

 そのどちらもがなければ神聖視は成り立たない。
 崇める一方で貶すこと。手を取り合う他方で排斥すること。どうしたって、私達はこのきらびやかなものに憧れながら、そうではないものを見ずにはいられない。

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