キャラクターの間違いを愛すということ
キャラクターは間違うものであり、「最適解を導け」という圧力に屈してはならない存在である。即ちキャラクターとは大抵の場合フィクショナルな存在であるわけだが、その行動する舞台において彼らは単なる、作者に動かされる駒ではないというわけだ。むしろ間違うこともあるし、遠回りすることもある。未来が分かってはおらず、迷い、苦しみ、時には負ける。
そこにはなんら現実の人間と違いはない。もし1つフィクショナルなところを探すとすれば、そうして間違ったあとにほとんど必ず「救済」があることくらいである。
なぜならばそれこそ、作者がいるからだ。そうやって救済されたキャラクターは「成長」し、そして次のストーリーを動かしていく。
しかし一方で、そのような失敗‐救済‐成長は批判されることもある。というよりもキャラクターが迷い、間違い、あまつさえ失敗することに対する拒否反応は免れられないものなのだ。それが「最適解を導け」というキャラクターや作品への圧力であり、「作者」という神に対する否定的意見の根幹である。
即ち「作り物なのになぜ無駄な要素があるのか?」。いわばキャラクターが間違うことは、ある種の不必要な部分、いらない要素、手抜き、くだらないこだわり、そういったものだという認識がある。
汚れである。とある作品についた傷、割れ、美しくない形。「間違い」とは確かに現実では不必要なものだ。もし可能なら一度の間違いも犯さなかったら…誰もが考えたことがあるだろう。間違いのない人生などz存在しない。私達はそれをしてしまう。だからこそ、キャラクターにはしてほしくない。
フィクショナルな、作られた存在。創造主がいるのなら、「なぜそれを回避させてやらないのか?」、そういう感情になるのは自然である。
でも、残念なことに、「間違わないキャラクター」は魅力的ではない。
そのことは「創造主」ならば誰しも肝に銘じているはずだ。キャラクターたちはそれぞれの特性や性格や歩んできた過去、進むべき未来があって、その上で、「今を間違う」のである。
それはキャラクターにとってはもちろんわざとではなく、やむにやまれず間違い、失敗し、傷つき、失い…だが、救済される。そうして成長する。それがまさに魅力なのだ。
なのにそのはじまりである間違いがないのなら、キャラクターの魅力を見せる機会はぐんと減ってしまう。それはあまりにももったいないと言えるだろう。
これは「間違い」の理由のほんの1例である。その他様々な理由がある。だがなんにせよ、キャラクターは間違うものなのだ。もしそうではないと思っているのなら、あまりにももったいない。そう考えているうちは、キャラクターの間違いが生み出す真の魅力、フィクショナルな存在が故の美しさに、触れられていないということなのだから。
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