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エッセイ 「サワガニは寒すぎる」 木津直人
京都の東の際、比叡山と大文字山との間に、ささやかな花崗岩地帯がある。京都盆地への白砂の供給源の一つであり、風化のすすんだ低い山地である。二つの谷川が流れており、音羽川は暴れ谷で、白川は穏やかに流下する。いっぽう稜線の東側の河谷は、琵琶湖の白い岸辺を作るのに役立っている。
一九七三年、白川沿いの小さな山襞に分け入っていく数人の少年たちがいた。
皆綿のズボンを履き、手に手になにかを持っている。ある者は虫籠(冬なので、虫なんかいない)。ある者はビニール袋と割り箸(獣の糞を採取し、食性を調べる)。
別の一人は厚手のゴム手袋をはめ、谷間の石を掘りかえしている。すると冬眠している大ぶりなサワガニが何十と顔を出す。それを料亭に売りこもうという才覚は彼らにはまだない。蟹たちはおとなしく攫われていく。
健脚らしい一人は、クリノメーター(地層測定器)を持ち、白い花崗岩の中に貫入した緑色の岩脈にその計器を押し当てている。当て方といったらまだ子供っぽい。だがそれが隣りの谷で予測していた場所と、ぴったり合っていた事に喜んでいる。そんなこんなで、このグループの荷物置場には、植物図鑑、昆虫図鑑、地質図などが散乱。
結局のところ、彼らはカコウガンを楽しんでいる。
源流である小さな白い窪地は、すでに水音もかぼそく、サラサラ、コウコウ、赤子の呼吸のような音しかたてていない。「伏流」というコトバを彼らは覚えたばかりだ。とりわけ寒いこの日は、川原と樹林の境目に一メートルものつららが垂れ落ちている。嘘じゃない。
寒さも風化をすすめる。それなりに巨大なこの花崗岩体は、すでに相当に標高を落としている。いずれは彼らの好きな白い川原も消えてしまうだろう。
もう冬の日が落ちかけている。幼い調査も終わった。話し始めねばならない。この世界について。
いったいどうして、数万年前にぎりぎりと貫入したこの熱い花崗岩体が、こんなにも冷えきって、こんなにも明るく学校帰りの体をなぐさめてくれるのか。
蟹たちはいつからそこに巣食ったのか。
そこにやってきた少年たちのやわらかな肌が、どんな経緯で衣服で覆われたのか。
彼らは荷物を片付ける。足を京都盆地の方に向け、山道を戻りはじめる。星が光りだす。すると数万光年のかなたから、彼らの細胞のひとつひとつまでの長い旅を、彼らは語らねばならなかった。「なんでなんやろう」
一人だけジーンズを履いて、やさしい眉をした少年がこう呟く。「この道がいつまでも続くとええねえ」空はすでに縹(はなだ)色から濃紺へ。
彼らは尾根に這い上がる。眼下には京都街区が見える。それは碁盤目状にきらきらと瞬いている。
「あれはなぜ星ではなく、街なのか」
こういう禅問答も彼らは好きである。さしあたって彼らにとって大事な未来とは、身近な異性と、その愛が永続すること。彼らはその甘い香りを嗅いだり捨てたりしている。道が下りになると市電の通過音やクラクションが聴こえてくる。
「たこ焼き、食べていこけ」
いずれは彼らも、自然に抱かれようなどとは思わなくなる。そのことも、彼らは興味深いテーマだと思いながら、歩いている。空の星が数を増す。
(環境庁が発足して間もない頃。平凡社の自然雑誌「アニマ」が創刊され、中高生たちもそれを手にしていた頃の、私の日記を元にした幻想である)
【執筆者プロフィール】
木津直人(きづ・なおひと)
1956年生まれ。神奈川県在住。大学時代は山岳部所属。建築職人などをした後、校正・校閲業。季刊「山の本」(白山書房)の校正を2010年から休刊までの13年間担当する。現在俳誌「ににん」編集役。詩集1冊。
*上記イラストは著者の作品
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