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「異人伝ーはぐれ者の系譜」第4回 前田速夫

その四 近藤富蔵 流刑の地、八丈島で大著『八丈実記』を著した、近藤重蔵の長男

 一八〇五年(文化三)―一八八七年(明治二十)。北方探検で知られる旗本、近藤重蔵の長男。地所の境界争いから、隣家の七人を殺害し、八丈島に流される。流人生活のあいだに、同島の歴史・民俗等を詳細に調査し、同島の百科全書ともいうべき『八丈実記』六十九巻を著した。

不遇だった近藤重蔵の晩年と、父子の確執
 前回は、蝦夷地における抜け荷(密貿易)の実態やアイヌの動向を偵察した天明の狂歌師、平秩東作のことを書いたが、蝦夷地ではその後、松前藩から特許を得た商人とアイヌとのあいだの紛争が相継ぎ、伊勢国の漂流民大黒屋光太夫をロシア皇帝エカテリナ二世に引き合わせたキリル・ラクスマンの息子アダム・ラクスマンが、光太夫を送還がてら日本との国交を求めて来朝する(寛政四年・一七九二)などのこともあった。
 本篇の主人公近藤富蔵守信の父親は、北方探検で知られる近藤重蔵守重。富蔵のことを述べる前に、重蔵について触れるのは、父子の対立と葛藤とが富蔵の流刑と大いに関係するからだ。
 父重蔵は、徳川将軍家の御家人。富蔵の著した系譜によれば二代将軍秀忠に仕えて以来、御先手鉄砲組与力として七代を重ねてきている。幼時から学問好きで、十七歳にして私塾の「白山義学」を設立、幕府の学制改革について意見書を提出している。
 重蔵が出世の機縁を摑んだのは、寛政の改革の一貫として幕府が創設した湯島聖堂学問所(のちの昌平坂学問所)の第二回「学問吟味」(寛政六年)に応じて、丙科及第という合格判定を得たことによる(甲科及第者五人のうちに、大田南畝と、のち重蔵の上役として蝦夷地調査にあたった遠山景普かげみちがいた)。
 翌年、長崎奉行手付出役を命じられて長崎に赴任するが、これがその後の重蔵の人生を大きく変えた。在勤時、彼は海外の事情を調査して『甲寅漂民始末』『安南紀略藁』等を著し、三年後江戸に帰任すると、林述斎を通じて、幕府直轄による蝦夷地防備を説いた海防策を公儀へ建白する。
 重蔵が蝦夷地へ派遣されたのは、寛政七年(一七九八)から文化四年(一八〇七)にかけての前後合わせて五度。世上もっともよく知られるエトロフ島タンネモイ近傍リコップへの「大日本恵登呂府エトロフ」の建標は第一次踏査の一七九八年七月二十七日のことであった。第二次~第四次の踏査期間は、幕領蝦夷地への派遣で、エトロフ島掛として経営に尽力した。一方、第五次の派遣は、直接には長崎におけるレザノフとの交渉決裂後、その部下がエトロフ・クシュコタン(サハリン島)・リシイリ(利尻島)を襲撃した文化露寇事件を契機とした踏査であった。第五次踏査帰任直後の十二月、将軍家斉に謁見、その成果を報告、翌文化五年二月には、御書物奉行に転役して、以後蝦夷地での政策に直接関与することはなくなった。
 蝦夷地派遣後、御家人から将軍へのお目見えが可能な旗本へと身分は上昇するが、代官など勘定方系統での出世を望んでいた重蔵にしてみれば、閑職である御書物奉行就任時の落胆と焦燥はひとしおだった。政道に口出しをする重蔵を快く思っていなかった、保守派の水野忠成ただあきらが老中首座に就任すると文政二年(一八一九)、大坂御弓奉行を申し渡され、元服(十五歳)を済ませた富蔵を連れて大坂へ移った。大坂東町奉行の組与力だった陽明学者大塩平八郎(天保八年〈一八三七〉、飢饉に際して救民を掲げて決起するが、鎮圧される)らとの交友のほかは、一ヵ月にわずか三日御櫓見廻り御武器数取調べをするだけ、一説には大坂城郭内の土を売却したり、無断で城下を離れ、有馬温泉に外泊したことが咎められたという。罷免は文政四年四月。重蔵は江戸に召喚されて、差控さしひかえを命ぜられ、永々小普請入(非役)とされた。
 のみならず、この頃、重蔵は長男の富蔵とのあいだに確執をかかえていた。富蔵の回顧するところによると、重蔵に従い大坂に赴いたのちもこうした確執は継続していたとのこと、富蔵は文政三年五月の末に出奔、捉えられて六月一日から十月十七日まで大坂での近藤家菩薩所である東本願寺末本教寺に預けられている(以上、『八丈実記』四)。このとき見初めたのが、富蔵生涯の想い女そえ(富蔵十七歳、そえ十四歳)であった。
 重蔵の罷免召喚にともない、富蔵も一端江戸にもどったが、父はそえとの婚姻を許さず、富蔵は「世を憂き事」と悲観し、今度は越後高田に出奔(浄土真宗仏光寺派の周円法師に師事)したが、重蔵はこれを追わずに勘当した。 

鎗ケ崎事件と、生涯の想い女そえ
 東急東横線代官山駅に程近い、駒沢通りの交差点に「槍ヶ崎」の地名が残されている。重蔵は大坂赴任の前年、この地を隣家の百姓半之助から抱屋敷として購入し、富士塚を築いた。高さは約五十尺(十五メートル)、頂上に登ると、眼下に江戸の海が広がり、東に安房房総、南に富士山から伊豆相模の海岸線が、西には甲斐信濃の山脈が見渡せて、「江戸の新富士」と呼ばれて、たちまち評判になった。抜目のない半之助は、境の生け垣を取り払って庭園を借景として茶屋を開き、手打ち蕎麦を出して繁盛する。しかし、重蔵の帰府後、年貢の負担や利益の配分など地境をめぐってトラブルが生じ、訴訟の過程で重蔵は武士の一分を言い立てて、引くに引けない状況に陥った。
 富蔵が越後高田から四年ぶりに鎗ケ崎の近藤家に帰ったのは、そんなトラブルが継続していた文政九年(一八二六)春のことだった。重蔵は勘気を解いて、彼を近藤家の若殿として、抱え屋敷の管理にあたらせる。これが、事件の引き金になるのである。
 半之助は元庄屋の息子だったが、百姓仕事に愛想をつかして、やくざ一家に草鞋を脱いだ前歴があった。隣家は博徒が出入りしており、深夜まで壺を振る音が聞えていた。
 同年五月十八日、富蔵と家来の高井庄五郎、中間の助十郎は、半之助並びにその子林太郎、忠兵衛と口論になり、この三人と半之助妻並びに林太郎妻の五人を惨殺、二人に傷を負わせて、父重蔵の恨みを晴らした。この殺傷事件の詳細は、富蔵自身が『八丈実記』所収の「鎗北実録」(八丈島に送られる前、小伝馬町の牢屋にいた一年足らずのあいだに書いた)に出ている。

 主従二人死級ヲ一々改ムルニ、初ニ討シハ半之助カ女房四方百会ヨリ左右ノ耳エカラダケワリ内庭ノ竈ノモトニ打臥タリ。二番目ハ林太郎カ娵ノタキ閨房ノ畳ニ乳房突レテ倒レタリ、終ニ討シ土足ノ男ハ母衣蚊幮オヽヒテ誰共知レス、人チガヒニヤト見テアレハ小兒一人血マミレニナリスガリツキテ泣キサケブ。守信(富蔵)小兒ヲトリノケ蚊帳ヒキハラヘハ眉間の疵ニ躰巻シ、息の音カスカニ譹メクハマガフカタナキ林太郎、苦痛サスルニ及バシト討込太刀ニ息絶タリ……

 七人を成敗に及んだのは、武家としての矜持もあったろうが、父重蔵の無念を晴らすことができれば、そえとの婚姻を許してくれるかもしれないという望みが勝っていたというあたり(後述参照)が独特である。巻末の「鎗北実録跋」は、そのそえへの尋常ではない想いが綿々と綴られていて、唖然とさせられる。

  よしあし草のむつことに序
 いかなる人もをんなこそほだしなれ、男なにはづにおもむきて父のつかいに称法山にゆきしとき、はしめて女をかゐまみてより天井の美人もかくやらんとそゝろこゝろまよいて忘るゝひまはなかれ共、流石に人目をしのびむなしくすきしに、水無月の初のひと日不思議のゆへよしありて指月堂に至りける。其時おとこは十六をんなは十四にてなんありし。これよりいとゝ愛欲の波おだやかならねといゝよることもはづかしく思いのほむらのみもゑて、神無月のとふあまりなゝ日といふに玉造の岡に居を移せしかば、こゝろのうちのみだれ髪いゝとくこともあらなくにあぢきなくいはて心をつくすかなつゝむ人目も人のためかはつゝみかくすも時によるとこらゑかねたるひとことにおんなの母のゆるしを得、ひそかにいもせとなりぬれとあるにもあらぬ恋しさにさよふけて関を破り、あるはあやふき塀を飛、ものすごき野原をたとり長柄の里にかよゑども女をば姿だに見るはまれなり……

  そして、これでも足らぬと言わんばかりに、末尾には歌が二首新たに添えられている。

 天保十亥年(一八三九)十一月廿四日女ノ夢見テ
  八丈風ニ
思いますそよおもわれますぞ寝ても覚てもぬしのこと
明くれに思います穂の枯尾花空敷過て逢ふよしもなし 

八丈島の近藤富蔵
 筆者が近藤富蔵のことを知ったのは、柳田國男の『島の人生』中の『八丈島流人帳』と『青ヶ島還住記』が最初だったように思う。前後して、井伏鱒二の小説『青ヶ島大概記』も読んで、そのネタ本が『八丈実記』であることも知った。
 天明五年(一七八五)、八丈島の南に位置する青ヶ島は、前後四回にわたる大噴火で、全島焦土と化し、百三十名が死亡、残った二百名は八丈島に逃れて、五十年後、悲願の還住を果たした。柳田の『青ヶ島還住記』は、このとき還住を指揮した名主佐々木次郎太夫に焦点を当てて、彼を「青ヶ島のモーゼ」と讃えた。井伏の『大概記』はそのことも含め、青ヶ島の風土や歴史を、語り手が役所に報告するという形式でまとめている。
 編集者時代、私はこの青ヶ島と八丈島を高田宏氏が小説『島焼け』を執筆する際、同行取材している。同著は、八丈島に避難してからの青ヶ島島民の暮らしぶりが主で、私は氏からその構想のあることを聞いてすぐ、両島の視察を提案した。このときのことは、拙著『異界歴程』(晶文社、のち河出書房新社)の第三話に書いたので、ここでは繰り返さない。それより、八丈島に流された近藤富蔵のことが本章での主題である。
 鎗ケ崎事件はただちに評定所の吟味を受け、主犯の富蔵は遠島、連座した重蔵は改易後江州高島郡大溝藩の城主へのお預け、家来の高井庄五郎は江戸追放となった。「百姓、町民は斬り捨て御免」と言われた時代である。武家に対して狼藉を働いたのがそもそもの原因だから、それにしては重過ぎる判決なのは、奉行にとりたてられたのにその職を全うせずに、贅沢三昧の生活の中で女色に耽溺し、あてつけがましく遊び暮らしていた重蔵への反感が強かったせいだろう。藩では獄舎を設けて重蔵を幽閉した。常の居室は獄舎中央の四畳半。そこに起居すること二年半余り、文政十二年(一八二九)六月に没した。享年五十九。学問に秀で、北方探検で手柄を立てた著名人にして、余りに侘しい晩年であった。
 それより二年前、文政十年秋に、富蔵は八丈島に流され、その身柄を島内の三根村に預けられた。赦免は明治十三年(一八八〇)だから、半世紀に及ぶ流人としての境涯の始まりである。島民の三パーセントに当たる配流者の構成は、無宿や破戒僧が大半で、残りは町民と農民、富蔵のような士分はごくわずかだった。当然の事に、加賀藩からの扶持のあった宇喜多秀家の末裔は別として、八丈流人は江戸から携えた財産を費消しつくしたあとは、基本的に自活の途を探らなくてはならない。
 配流の翌年、島の娘いつ(宇喜多一族の浅沼家長女)を水汲み女として迎えて同居、一男二女を儲けるが、生来器用な彼は旧家の系図、為朝の凧絵、仏像、神像、位牌入れ、扁額の制作、石垣の設計施工、石碑彫刻、経師や畳屋の仕事、ならびに素読の教授などによって、生計を成り立たせた(私たちは青ヶ島の村役場の村長室で、富蔵の描いた佐々木次郎太夫の額入り肖像画を観ている)。
 島では大賀郷に住んだ。身の丈六尺余りの大男で、容貌魁偉、一日三升五合の飯を食い、カツオの刺身など一度に五本を平らげるほどだったというが、内地での殺生を悔いて、ノミ、シラミさえ殺さず、捕まえてはいちいち畑に放した。
 富蔵が大著『八丈実記』の筆を執りはじめたのは、四十三歳頃。息子が江戸へ出て、帰路大島で亡くなった翌年というから、そのことも動機になったのであろう。十四年後に、全六十九巻の草稿が完成した。その内容は余りに厖大で、古文書筆写、年代記、島々様子大概、旧家系図、動植物、黄八丈、流人、神仏、風俗方言、教育、漂着、遺文、名所旧跡、反別、戸籍、潮汐等々と、それこそ八丈島に関するすべてを網羅した記録で、ここにお隣の青ヶ島のことも出てくる。
 特筆すべきは、著者の独断、推量、私見を入れることなく、きわめて客観的な記述をしていることで、例外的に私見を入れる場合は、かならず「守信按」と断っている。富蔵自身、さほど系統だった学問らしい学問はしていないのに、島の歴史や民俗を調査し、これほどまでに文筆に打ち込んだのは、父重蔵の血にもよったのであろうか。
   もふ言わじ 書かじと思ひ 思へども またあやなくも 湿す水茎
 何かに取り憑かれたごとく、調べに調べ、書きに書いた富蔵の心境は、この一首がよく示している。
 なかで、私は富蔵が青ヶ島で起きた前代未聞の殺傷事件を記録するのに、犯人の浅之助についてただ一言、「乱心」としか書いていないのに、目が留まった。前掲拙著で言及しているが、再度触れないではいられない。
 『実記』は、事件のあらましを、以下のように記している。

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