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ゾミア紀行(2) 「タワン僧院とモンパ」

インド北東部、雲南省、タイ北部、カンボジア、ヴェトナム中部高原など、ゾミアと呼ばれる山岳地帯をめぐる旅。山地民の民俗を探求するノンフィクション。
第2回では、チベット仏教のタワン僧院と、もとはボン教を信奉したモンパの人びとの信仰や習俗を深堀りします。(文と写真= 金子遊)


モンパの人びと

 翌朝、タワンの街外れにある崖上の宿で眠っているとき、空を切り裂くような轟音で目がさめた。それは聞きおぼえのあるブンブンブンという断続的な騒音で、カーテンを開けると、ミリタリーカラーのヘリコプターが谷間を下りていくところだった。天空の町に滞在しているわけだが、そこは昔の作家が書いたようなシャングリラではなく、大国同士が国境線を争う山岳地帯なのであった。
 北にチベット自治区、西にブータン、東にはミャンマーと国境を接するアルナーチャル・プラデーシュ州には、民族や部族の定義やその数え方によるだろうが、30ほどの少数民族が暮らすとも、110もの部族社会があるともいわれ、いわゆる「インド」のイメージからは程遠い北東部の最果ての地である。村が変われば言語や民族が異なるとすらいわれる、カフカース山脈やインドシナ半島の山岳地帯と比肩できる、世界的に見ても有数の多民族が共存するエリアになっている。
 宿のロビーで待っていると、天井近くに設置されたテレビで、男たちが欧州のサッカー・リーグの試合を見ていた。着実にグローバル化の波は、東ヒマラヤの山中までやってきている。今日は伝統的な臙脂色のカンジャールを羽織っているサンゲさんと合流し、タワンの街中を散策することになった。
 朝と夜の気温はかなり冷えこみ、厚手のダウンジャケットでちょうど良かった。タワンでは、伝統的な衣装を着ている人は、仏教の臙脂色の僧服か、モンパの民族衣装かのどちらかだった。寺院の前に小学生から中学生くらいの3人組の僧がいたので、どんな僧衣を着ているのか詳しく見せてもらった。朝の気温は10度に届かないくらいだが、斜めに巻いた袈裟と反対側の腕は、袖なしで肩から裸の腕がでていた。
「この服装で寒くないの?」とぼくは訊いた。
「ううん、慣れてるから全然大丈夫」と少年たちは口々に答えた。
 そういわれてみれば、自分にも、どんなに寒くても小学校の6年間を半袖で通した思い出があった。さすがに登下校時にはジャンパーを羽織ってはいたけれど。どうしてそんなことをしたのか動機が思いだせない。子どもなりの意地や強がりがあったのか。少年たちは同じモンゴロイドなので、ラマ服さえ着ていなければ、見かけは日本の子どもと大差がない。少年たちと一緒に記念写真を撮り、「トチチャイ(ありがとう)」といって別れた。

 町を歩いていると、男性には洋装が多いが、年配の女性は民族衣装を着ていることが多い。サンゲさんによれば、寺院を訪れるときの正装として着用する習慣があるとのことだ。道ばたでひとりの女性にお願いして、服装をよく見せてもらった。遠目に見て驚くのは、黒いヤクの毛でつくった帽子をかぶる男性や女性が目立つことだ。パーマのようにちりちりに絡まった毛がフェルト状になって、頭上で5本の房がとんがっている。知らないと独特のヘアスタイルだと思えてしまう。雨のときはそれらの房を伝って雨水が落ちるというのだから便利であるにちがいない。モンパの女性が正装するときは、ゴチェン・ジャムと呼ばれる円筒形の布製の帽子を頭にかぶることもある。
「この温かそうなシンカは、一体どうやって着るんですかね」とぼくは訊いた。
「ちょっと上着を脱いで見せてあげましょうね」と女性は親切に答えた。
 女性が着ている上着はトトゥンと呼ばれる。生地はシルクや化学繊維で、紫がかった鮮やかな赤色が特徴的だが、それはカイガラムシの染料で染めたものだという。「花、星、ウマ、ゾウなどの動物、その上に乗る人物、矢絣、マンジ(万字、卍)などをモチーフにした幾何学模様がカラフルな糸で織り込まれている」ところが特徴である。【*1】
 女性はトトゥンの下に、モンパの特徴的な貫頭衣であるシンカを着ていた。こちらもカイガラムシの染料による臙脂色の生地が独特で、青や白の縦縞が入っている。この女性のシンカは鮮やかな赤色に近かったが、別の老女が着ていたものは年季が入っているようで、色褪せて渋い赤褐色に近くなっていた。シンカは二枚の布を縫いあわせたワンピースのような衣服であり、頭がすっぽり入るように大きな穴が開けてある。日本の着物や浴衣とちがって両脇が大きく開いていて、腰当て布で帯のようにしめている。そのほかに、モンパ女性には背中にかける肩掛けのレンバという伝統衣装もある。厚手のウールでできているので、傍目にも温かそうで防寒着の役割を果たすのだそうだ。

 このように女性の伝統的な服装を見るだけでも、モンパの人たちが平地のアッサム人とも、隣接するチベット系人とも、同じ州内のニシ、アディ、アパタニ、ガロ、メンバといった民族とも異なる独自性を持っていることがわかる。長年この地に通い続けてモンパの文化を研究し、労作の民族誌『モンパ インド・ブータン国境の民』を書きあげた文化人類学者の脇田道子さんに現地で会うことができた。
 その著書によれば、かつてのモンパはチベットからヒマラヤの南側にかけての「モン」と呼ばれる地に住む、さまざまな部族を含む人たちの総称であった。チベット語で「無知や暗黒」を意味するムン、非仏教徒を意味する「モン」が語源だという説があり、チベットから見た「野蛮な未開の民」という含意を持った他称だと考えられている。【*2】
 中国では門巴族、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州ではモンパやメンバと呼ばれ、ブータンにも少数派として暮らすなど、モンパは国境をこえて異なった土地に暮らしている。脇田さんの指摘でおもしろいのは、モンパというのは総称であって、そのなかに言語や来歴の異なるグループが内包されているという点だ。もとはチベットの南方に暮らしている、雑多な未開の民たちを指す総称だったのではないかという。そのモンパが話す言葉は、言語上はモンパ語やダクパ語など、11の言語にわけられるというのだから、なるほどと頷ける。そうなると言語や宗教や慣習など、モンパの人たちは何をアイデンティティにしてきたのだろうか。平地において国家の行政や経済システムに整然と管理され、国民国家や民族ごとに言語的に統一された世界観とは異なるあり方がここにはあるだろう。
 そのような意味からも、モンパは政治人類学者のジェームズ・C・スコットが有名にしたゾミアという言葉で呼ばれる山岳地帯の民というにふさわしい。「この「ゾミア」という名は、インド、バングラデシュ、ビルマの国境地帯で話されているいくつかのチベット・ビルマ系言語に共通する語で、「高地民」を意味している。より正確には、「ゾ」は「奥地」を意味する語であり、「山地での暮らし」という意味を含んでいる。「ミア」は「人々」という意味である。」【*3】
 たとえば、インドの北東部には、アッサム州と隣接する丘陵地帯にミゾの人たちが住むミゾラム州がある。百科事典を調べると、ミゾ語ではミゾが「先住民のミゾ族」で、ラムが「土地」を指すから、ミゾラムは「ミゾ族の土地」を意味する。さらに細かく分解すると、「ミ」が民族、「ゾ」が高地、ラムが「土地」であり、「高地民族の土地」だという説もあるようだ。いずれにしても、言葉の成り立ちがミゾラムと「ゾミア」では似ていておもしろい。当然のことながら、ゾミアの地域にはインド北東部が含まれている。

 東南アジア大陸部の国々、中国、インド、バングラデシュの国境地帯にまたがるこの大きな山岳地帯は、およそ25万平方キロ(ヨーロッパの面積にほぼ匹敵する)にわたって広がっている。ジャン・ミショーは山地とそこに暮らす人々をひとつの独立した研究対象として認識した先駆的研究者の一人であるが、その範囲を「北から南へ、まず四川の南部と西部、そして貴州と雲南のすべて、広西の西部と北部、広東の西部、ビルマ北部のほとんどすべて、そしてそれに隣接するインド極東[北]の一部、タイの北部と西部、メコン川の谷を除くラオスのほぼすべて、アンナン(長山)山脈沿いのベトナム北部と中部、そしてカンボジア北部と東部の末端地帯を含む」と規定している。【*4】

 スコットの説明によれば、中国の王朝国家など平地における帝国的な支配から押しだされるようにして、徴税や徴兵や強制労働をのがれ、あるいは、戦争や紛争からの避難民として森や山地に逃げこんだ人たちがいた。彼らや彼女たちは、飢饉や伝染病の不安がつきまとう定住型の農耕をはなれて、平地とは異なる耕作形式を営みながら、周縁で国家の力がおよびにくい山岳地帯に無政府的なグループをつくっていった。ぼくの関心の持ち方としては、無政府主義であるとか国家への抵抗であるとか、大げさなことをいわなくても、ゾミアに暮らす少数民族の人たちの慣習や信仰やフォークロアのなかに、おのずと「平地人を戦慄せしめる」ような、現代人が忘れかけている生活の原型や、異界に対する想像力が十分に感じられるのではないかと思う。
 たとえば、モンパ女性の民族衣装を見るだけでも、そこにチベット文化との差異を感じる。トトゥンやシンカを見せてくれた女性と話していたら、モンパの埋葬の仕方には独特の風習があるのだと教えてくれた。モンパでは人が亡くなると、遺体を山中にある埋葬地の川まで運び、遺体の肉を切り落とし、バラバラにして川に流すというのだ。モンパはチベット仏教徒であるが、ここには仏教以前からのボン教やアニミズムの死生観も見え隠れする。帰国してから文献にあたったところ、村に住む僧がシャーマニズム的な実践をおこない、遺体を山の洞窟に置く風葬にするか、地面に埋める土葬にするか、火葬にするか、川に流される水葬にする決めるということだ。その背景には、人間の身体が地、水、火、風の4つの要素からできているからだという仏教的な「地水火風」の考えがある。これは後年になって入ったものだろう。それより古い形が、肉塊を川に流す水葬にあるのではないか。

川に流す場合、最初に僧がお経をあげ、川に許可をもらい、悪霊を取り除く。その後、2人の主として若者がお酒を飲んで全裸になり、まず死体の首を切り、頭を他の場所に置く。次に体を半分に切り、2人がそれぞれ上半身と下半身を担当して細かく切り、そのつど数を数えながら川に流していく。最後に頭を縦に切って、さらに細かく切っていき、全部で108つに切って川に流す。終了すると2人は川に入って全身に浴びた血を洗い流し、自宅に帰ったときも、きれいな水で全身を洗い流してからでないと家に入れない。【*5】

 モンパ女性の話によれば、この水葬をおこなう埋葬地の川岸はコミュニティごとに決められていて、ふだんは滅多に近寄らないということだった。文献によれば、それはドゥーテェとか、ドルサとか、リキリと呼ばれる場所である。遺体の肉を細かく刻むのは、魚が食べやすくするためだとのことだが、このあたりはチベットの鳥葬との近接性をうかがわせる。魂が抜けた肉体を自然に還流しようという考えであるのか、背後にどのような死生観があるのか、もっとモンパの人たちが仏教以前から保つ伝統的な思考に触れたいと思った。

貫頭衣シンカを着たモンパ女性

タワン僧院のチャム

 標高約3000メートルの地点にあるタワンの町の高台には、丘陵の裾野に小さな家々を従えるようにして、タワン僧院が天空にむけてそびえ立っている。僧院やまわりの宿坊の屋根が黄色で統一されているので、遠くから見るとカラフルな天空の城という趣だった。町の建造物に関しても、ダルチョのような赤や黄色や白の原色をつかう、にぎやかな色彩感覚が感じられた。レンガ造りの壁を白や茶色に塗った家々が宿坊として使われ、迷宮のように複雑な小路を織りなしている。
 その日は、外部から訪れている高僧がタワン僧院で法要をおこなうので、チベット暦の正月におこなわれるトルギャ祭やドンギュル祭と同じ、チャムと呼ばれる仮面舞踊の舞いが披露されるとのことだった。そこで、午後からサンゲさんと連れ立って、この地域のモンパの人たちの精神的な拠りどころとなっているタワン僧院へ参拝にでかけた。僧院の中庭へとあがる坂道は、貫頭衣シンカを着た臙脂色の服装をしたモンパ女性や、カンジャールという上着を着たりウールのチュバをまとったりしているモンパの男性陣が押し寄せていた。そして誰よりも、頭を剃って臙脂色の袈裟を巻いた子どもの僧侶が群となって殺到しており、人ごみに押されながら歩み進める具合になった。
 日本の小学校のグラウンドほどの広さの敷地に石畳の中庭があり、その四方を3階建ての建物が囲んでいる。17世紀に建立されたタワン僧院は、町で随一の歴史的な建造物であり、数百人の僧侶が所属しているという。僧院の建物の各階にあるテラスからは、黄色やピンク色や青色のシンボルを描いた垂れ幕が下がっている。中庭のあちこちに、僧服の子どもたちや伝統衣装を着たモンパの人たちがたむろい、互いにあいさつやおしゃべりに余念がない。モンパの人たちにとって、いかに法要が心をわき立たせる非日常的なイベントであるかが伝わってくる。ここはマクマホン・ラインにほど近い中印の国境の町ということで、インド軍兵士の姿もちらほらと見える。
 サンゲさんに案内されて、特別に僧院の建造物のなかに入れてもらうと、そこは屋外とはまったくの別世界であった。中央に設えられた巨大な金色の釈迦牟尼像は、僧侶たちよりもひと際明るいオレンジ色の袈裟をまとっている。天井や柱や壁は臙脂色に塗られていて、伽藍堂の全体は赤一色の極彩色という印象であり、現世とは思えない豪奢な空間だった。壁一面にタンカと呼ばれるさまざまな仏画が飾られていた。だだっ広い伽藍の木床に、年老いた僧侶から子どもの僧侶たち数百人が規則正しくならんで座っていた。
「子どもたちが多いですね」と、ぼくはサンゲさんに言った。
「男の子が3人以上いる家庭では、次男を僧侶にするために7歳くらいから寺院に預けます。そうすれば口減らしにもなりますし、僧院の学校で勉強をして、将来は高い社会的地位を得るといった未来への可能性も開けます」と教えてくれる。
「僧侶になるための特別な勉強をするんですか?」
「いえ、そうとも限らないです。もちろん、宗教儀礼のために舞や楽器も習いますが、英語やチベット語などの語学から、ふつうの小学校で習う社会科や算数など、ひと通りを学ぶことができるんですよ」
 大きな釈迦牟尼像の前から伽藍堂の出口にいたるまで、一列あたり数十人の僧侶がならんでいるのだが、そのひとりひとりに一枚ずつお札をお布施しながら、ひとりのモンパの男性が駆け抜けていく。人数が多いので、お布施をするほうも体力勝負であり、大変そうだった。裏手にまわると、少年たちがチャムを舞うためにあでやかな衣装を身につけ、仮面をかぶって準備をしていた。そこは精霊に扮する舞手たちのための楽屋になっていた。
 そうこうするうちに、僧院長による法要と説法がはじまった。説法が終わると、それまで伽藍の外で遠慮がちにたたずんだり、伽藍堂の内側で床に座っていたモンパの老若男女が、ぞろぞろと釈迦牟尼像の前にいる高僧のもとに押し寄せた。一段高いところに高僧が座しているのだが、モンパの老女や中年女性がその前に列をなした。自分の順番がくれば、高僧の前で手を合わせて恭しくあいさつをし、高僧は低頭する人びとの頭に水瓶で触れるのだった。ときには何か言葉を交わして、予祝を与えることもある。これが潅頂であり、チャムよりも何よりもこれを目的にタワンの町からだけでなく、はるか遠い土地からわざわざが人びとが集まる理由であるという。
 突然、ブオーッ、ブオーッと、全身を震わせるような大きな音が、伽藍堂の内と外で鳴りひびいた。ラグドゥンと呼ばれる2、3メートルはありそうな長い長い管楽器を、伽藍堂から中庭にむけて2本ならべて、若い僧侶がそれを口で吹いている。先端の部分はかなり重くなるため、それを固定するために専用の台を使う。天地をゆるがすほど、というと大げさだが、僧院の建造物を震わせるほどの大きな音は、これからチャムという仮面舞踊をはじめる合図だった。ほかにも、西洋でいえばシンバルにあたるティンシャ、トゥンカルと呼ばれるほら貝、トランペットくらいの大きさのギリンと呼ばれる木管楽器を、袈裟姿の僧侶たちが演奏する。チャムは、本来はタワン僧院におけるトルギャ祭やドンギュル祭の法要において、僧侶たちが仮面をつけて舞う悪魔祓いの儀礼の一環である。

トルギャとは供物であるトルマ〈gtor ma〉を火の中に投げ入れる悪霊祓いの儀礼のことで、チベット語ではトルギャク〈gtor rgyag〉と発音される。三日間、早朝から日暮れまで、さまざまな仮面舞踏チャム〈'cham〉が繰り広げられる。(…)このトルギャは、三年に一度ドンギュル〈Dongyur〉と名を変える。チベット語で一億を意味するトンチュル〈dung phyur〉に由来し、一億の真言(マニ)を唱えるという意味がある。タワンの人びとの多くは、その意味を知ずにドンギュルと呼んでいる。トルギャが悪霊祓いにより地域の人びとに幸福と繁栄をもたらすことに主眼が置かれているのに加えて、ドンギュルの場合は、一ヶ月前から僧侶による真言を唱える読経が始まり、併せて、僧侶によって特別に加持された丸薬マニ・リブ〈ma ni ril bu〉が手作りされる。【*6】

 建造物の外へでたとき、タワン僧院の中庭はすごい熱気に包まれていた。タワン僧院の2階や3階のテラスに袈裟がけの子どもの僧侶たちが数珠つなぎになって座り、階段にはモンパの民族衣装をきた男性や女性が、身動きがとれなくて立ち尽くしている。中庭にも入れ切れないほどの観衆がチャムをひと目見ようと群れとなって自然と輪をなしている。ぼくが最初に見ることができたのは、トルギャ祭で舞われるペンデン・ラモの舞だった。「ペンデン・ラモは、タワン僧院の守護尊として重要な女性の護法尊である(…)タワン僧院とすべての生き物の繁栄を祈る重要な儀式である」と、実際にトルギャ祭を視察した脇田道子さんの説明にある。【*7】
 数人の若い僧侶たちが横幅の広い顔をし、口を大きく開けて、立派な歯をむきだす忿怒の仮面をかぶっている。その頭には、緑、黄色、青、赤、紫の5色の布を垂らし、それが舞うたびに髪の毛のように風になびく。とても豪華な織物による着物を身にまとい、肩には渦巻き模様をあしらった赤や青の派手な肩かけをして、きらびやかな前かけで正装していることからも、重要な精霊であることがわかる。もはやチベット仏教なのかボン教なのか、はてまたそれらの習合であるのか判別がつかない。最初のうちは、太鼓とラグドゥンからなる2拍子のシンプルなリズムにあわせて、右手に布と道具を振りながら、円形に移動するだけだった。太鼓がドンドンと鳴らす音を合図にして、ベンテン・ラモたちは両手を大きく中空でまわすようになった。その勢いで右に左に飛び跳ねてから、演奏にあわせて、くるりと軽やかに回転して地面に着地するチャムだった。
「次の舞はもっとにぎやかなですよ」と、となりでサンゲさんがいう。
 舞手が入れ替わって、今度はゴ・ニン・チャムがはじまった。若い僧侶たちが頭に髪飾りをつけて、白い顔をした女神ラモの仮面をかぶっている。体は明らかにがたいの良い男性のものである。数人の女神は右手に振り大鼓をもち、それをカタカタと鳴らしながら舞う。左手には金剛鈴を持っており、それを小刻みに鳴らし、体を身軽に回転させるので、太鼓の音にあわせて体全体で演奏しながら舞うようなものだ。それでもペンデン・ラモのように飛び跳ねるばかりでなく、仕草や振る舞いには女性の身体的な動きの模倣が取り入れられている。前述の文献によれば、ゴ・ニンには「古い頭」という意味があって、19世紀初頭に本堂の釈迦牟尼像の頭部を修復したときに滞納したチャムといわれている。女神ラモたちはそれぞれ異なる村からタワン僧院にやってきて、長寿と幸福をもたらしてくれる、とてもありがたい存在なのだという。
 チャムが終わったあと、会場となったタワン僧院は喧騒に包まれた。あちこちで互いに挨拶するモンパの人たちがいて、家族で集まっては一緒に家路についていった。貫頭衣のシンカを着て、その上にトトゥンという上着を羽織り、頭にはヤクの毛でつくった帽子をかぶった、ひとりのモンパのおばあさんに僧院の中庭で出会った。少しお話をきかせてもらうと、「体が元気で、生きている限り、この僧院に通いつづけるわ。それは死ぬまでつづく。他に選択肢はないのよ」と話してくれた。その老婆の言葉を聞くと、モンパの人たちにおける単なるチベット仏教への帰依というだけでなく、それと習合して古来から祖先によって伝えられてきたアニミズムの要素も含めて、それらがタワン僧院という場で深い信仰として結びついていることが実感できた。

女神ラモの舞い

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