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東北考(1) 「陸続きの海峡—東北アイヌ語地名考」
東北、サハリン、満州、シベリア、イサーン…。アジア各地に霊魂が宿る場としての「東北」がある。文学、芸術、民俗を論じ、霊性を幻視する間-東北論! 評論家・民俗研究者の金子遊による新連載です。
はじめに
どうして人は「東北」に魅せられるのか。むろん、日本列島に居住している者が東北という言葉を耳したとき、それは青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島といった地理的な場所を思い浮かべるのがふつうであろう。言語に関心のある人であれば、多様な話し言葉としての方言が使われる地域だと連想するかもしれないし、民俗学に興味がある人であれば、『遠野物語』に採集されたような民話や伝説、神楽のような伝統芸能、イタコやおしらさまなどの民間信仰が色濃く残る特権的なトポスだと考えるかもしれない。そしてまた東日本大震災のあとの時代では、津波や原発事故の被災地というイメージがついてまわる。そのいずれもが的外れではなく、日本列島の東北部の特徴をあらわしている。
しかしながら、実のところ「東北は、国家やときの権力によって人為的につくられた場所である」といったら人は面食らうだろうか。京都や鎌倉や江戸というその時代に中心となり行政府をもった都市がある一方で、周縁や辺縁にある地域として一段低い地位を割り当てられた領域があった。たとえば、大和朝廷が蝦夷の征伐にでかけた時代から、東北地方は辺境として見られつづけていることに変わりはない。東北という呼称には、どこから見てその場所が東北にあたるのかという視線の権力構造が端的にあらわれている。
ブラジルにおけるノルデスチ、ロシアの北東部にあるシベリア、中国の北東部にある旧満州、日本列島の東北地方、タイのイサーン、カンボジアの北東部、インドの北東部である東ヒマラヤのセブン・シスターズ。さまざまな国々にどういわけか「東北」があり、そこは中心部と離れていて、気候や自然条件などのさまざまな理由によって経済的に貧しい地域であることが多く、文化的または民族的に辺縁におかれた少数者が居住することがしばしばであるような地域である、という東北地方の共通点が見えてくる。それでいて、政治や経済の中心地から遠くはなれているがゆえに、独特のフォークロアや言語や民族構成の状況をもつことも多い。世界のどこの地域であっても、そうした東北の土地性にふれた者は、文化人類学、民俗学、口承文芸、文学、美術、映像などそれぞれの分野において、独特の仕事を残してきた。
ひとことでいうならば、それは東北の土地に宿る霊性との接触である。どのような国家や地域にもかならず東北部があるように、世界中のどこの誰であっても内なる「東北」をもっている、といったら大げさだろうか。それは、ただ単に中央からながめられたときの地理的な周縁や辺境を意味するだけではない。その場所でわたしたちは目に見えない存在に対する感性をみがき、想像力をはぐぐみ、さまざまに霊的な接触をおこなう。東北は単に実在する土地というよりも、時代時代の権力関係によって辺縁に追いやられたことにより、どこか現世的なものが希薄で、想像の世界と類縁的であり、ひとりひとりの人間が魂の所業をつかさどる場としてその都度に立ちあがってくるのだ。いうなれば、東北というものは、わたしたち一人ひとりの存在をこえた種や類がやってきた郷里の現世における顕現であり、死したのちに還っていく場の謂いであるといえるかもしれない。
樺太と東北のシレトコ
真夏の暑いさかりに、札幌から電車にのって稚内までいった。国際フェリーターミナルから、サハリン島のコルサコフという港町まで船がでている。約五時間半の船旅である。船が出港して外海にでたあたりから、船体が大きく揺れるようになった。
宗谷海峡を進んでいくと、西側に長くて大きいクリリオンスキー半島が横たわっているのが見えてきた。コルサコフにたどり着くまでずっと、この半島を見ながらアニワ湾をいくのだ。船のデッキにでて見ると、反対の東側にうすい靄にかかるようにして、また別の長大な半島が少しずつ姿をあらわしてきた。大きな湾の東岸にも半島があって、アニワ岬と呼ばれているそうだ。空から見おろせば、南サハリンの土地はふたつの半島が二またにわかれた矢じりの先のようになっており、わたしの乗った船はそのあいだに挟まれた海を入り江の奥へとむかっていた。
デッキの上から島影のように浮かぶアニワ岬をぼんやり眺めていると、つよい既視感[デジャヴ]におそわれた。サハリンは初めてくる土地だったが、以前にそうして海からその岬をながめていたことがあるような気がしたのだ。船に同乗している人と話していたら、アニワ岬は日本が領有していた樺太時代に「中知床岬」と呼ばれていたのだという。なるほど、オホーツク海へと細長く突きだす姿は、北海道の知床岬に似ている。日本時代に安易に名づけられたのかもしれないが、シレトコはいわずと知れたアイヌ語の地名で「先のとがった土地」の意味である。はたして樺太アイヌの人たちが、この半島のことをかつては「シレトコ」と呼んでいたのかどうか。
ちなみにアニワ岬の北にはテルペニア湾(旧多来加湾)があり、そこから突きでた細長い半島はも、かつては北知床岬(現在のテルペニア岬)と呼ばれていた。北知床岬のつけ根にあるのは、ポロナイスク(旧敷香)という町だ。その名前はアイヌ語の「ポロナイ(大きい川)」から来ており、北海道や東北にも幌内という地名が数多くある。港町のコルサコフは、樺太時代には大泊[おおどまり]という町名だった。「泊」はアイヌ語でまさに「港」を意味する。樺太や北海道のアイヌ語の地名を追っていて何がおもしろいかというと、その場所の地形や環境に対して忠実なところだ。アイヌ語研究の第一人者であった金田一京助は「知床」についてこんなふうに解説している。
知床[シレトコ]は、 shir-etokoで、必らず陸地の突出した巌の鼻へ附いている地名で、etok, etokoは、「前」「先」「先端」という語であり、shir(或はshiriともなる)は、アイヌでは尤も広く用いる語で、色々に訳される語であるが、「地」「山」などの意、殊に海辺にシリという時は、高い崖で、船などを寄せて上陸することの出来ない断崖[きりはし]のことである。そういう岸をアイヌはウェンシリ(wen shir)という。ウェンは「悪」「荒」の意である。ウェン・シリを単にシリと言っていることがある。そういう岩の切り岸の先端がシレトコなので、北見の東端のシレトコ、樺太のシレトコ、みな大きな岬角である。[1]
昔日に漁労に勤しんでいたアイヌの人たちの視線が、自分のなかに入ってきて折り重なってくるようだ。彼らが小舟にのって岸に近づいていき、その断崖を海側から見上げたときに、それを「先っぽの土地[シレトコ]」と呼んだのだろう。そうであるとすれば、わたしのおぼえた既視感は、北海道の知床半島を海からながめたときのものであったのか。いや、そんな経験をしたことはない。ならば、どこかまったく別の土地でシレトコと呼ばれるのにふさわしい地形にでも出くわしたのか。そういえば、礼文島の南端の岬も「知床」と呼ばれている。しかし、その解釈もうまく当てはまらない気がする。なぜなら、日本とロシアの国境でわかたれているのにもかかわらず、宗谷岬とサハリンのふたつの半島はたがいに入り組むようになっており、そのあいだの海峡を内海のような親密さにしている。船がその海に抱かれている感覚が既視感としてあったのだ。
そこまで考えて、ハッと気がついた。青函フェリーにのって青森から北海道の函館にむけて、湾をでていくときの心持ちにそれはどことこなく近いのだ。その後、サハリンへの旅行を終えて家に帰ってから、久しぶりに金田一京助の「北奥地名考」をめくってみた。そのときに「青森湾に突出した蛸田の側の岬角が昔はやはりシレトコと言った」という記述を見つけて、ひどく驚いた。わたしは何度も青函フェリーで往復したことがある。西にまっすぐ伸びる津軽半島と、鎌首のように曲った下北半島の西南端がもっとも近づくところは平舘海峡と呼ばれている。青森からのれば、そのせまい海峡をぬけて函館へと北上していくわけだが、船がとおりすぎる下北半島の先にある岬が、やはりアイヌの人たちが「シレトコ」と呼んだ場所だったというのだ。
青森と函館のあいだを何度も往復したフェリーの船上から、わたしが何気なくながめていた風景のなかに「シレトコ」があったというのだから、ふしぎな話である。こういったできごとは、青函トンネルを新幹線や車で行き来していては起きないものだ。下北半島にあるシレトコに関しては、金田一京助からアイヌ語を学び、北海道と東北のアイヌ語地名を、それらの土地を丹念に歩くことで調査研究した山田秀三も書いている。山田によれば、下北半島の最南端にある九艘泊[くそうどまり](このトマリにも港がある)の近くに、北海岬と貝崎のふたつの岬がある。そのどちらかが昔「シレトコ」と呼ばれていた。アイヌ語でシレトコとは地面の先が伸びていき、海に突き出ている岬角のことをいう。山田が昔の地図や文献を調べたところ、どうやら貝崎のほうが「シレトコ」だったことが判明した。
しかし、稚内からコルサコフへむかう途上でわたしがおぼえた既視感は、ただ単にサハリンの「シレトコ」であるアニワ岬と、下北半島の「シレトコ」である貝崎のかたちやたたずまいが類似しているということではなかったはずだ。むしろ船からその岬を見あげたとき、宗谷海峡や津軽海峡の海がもっているたがいの対岸を親密に結びつける感覚こそが近いのだと思う。現時点では、うまく言語化することができないようだ。そのあたりをもっと詰めていくことはできないか。
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東北のアイヌ語地名
かつては蝦夷地と呼ばれた北海道の地名の多くが、アイヌ語に由来することはよく知られている。ところが、それが本州にも見られるということについてはどうか。それを早い時期から指摘したのは、アイヌでも和人(いわゆる大和民族)でもなく、イギリスから函館に伝道のためにやってきた宣教師のジョン・バチェラーだった。バチェラーは北海道と同様に、本州の地名の骨子をなすものもアイヌ語であると信じた。「それで地名を表示している漢字という着物を脱去って、音韻的にし、中に含める語源及び命名心理を開明し解釈の方針を立て」ることで、いにしえの人たちがつけたアイヌ語地名が明らかになると考えたのである。[2]
だがしかし、本州の地名をアイヌ語から研究するというバチェラーの企ては、音韻の類似性から現在の地名を強引にアイヌ語に結びつけるようなことをしたので、しばしば誤謬をおかすことになった。たしかに東北地方にある多くの地名が、純粋に日本語に見えるような場合であっても、実はアイヌ語地名に由来するということがある。アイヌ語が東北弁など土地の言葉によって訛り、日本式に変化していることがあるからだ。それらを原形のアイヌ語へと復元していく作業は、日本語地名が表面上アイヌ語に似ているというだけではできないことだ。その土地における方言や訛りを理解し、語形変化をたどる必要があり、それはバチェラーのような優秀な学者にとっても、なかなか難しいことであった。東北のアイヌ語地名の研究が前に進むためには、盛岡の出身である金田一京助の登場を待たなくてはならなかった。
純粋な音韻変化では、母音ではアイヌ語のウがよくオになってしまう。アイヌをアイノと言い、イナウ(削りかけ)をイナオと言ったように。故にヤクシ(yakushi「陸を通る」)を矢越、エンルム(enrum「岬」)をエドモ(絵鞆)、クンルー(危路)を久遠[クドウ]など言うのである。
ウがオになる反対方向に、オがまたウになる。オタ(砂)が宇多・歌になっている如きはそれであり、その他、マトマイが松前に、宇曾利がウスリに、ウソリケシがウスリケシ、ウシリキシなどになって行った。イとウの間の交替、イとエの間の交替も、東北人の常習であったから、東北人の影響下に地名の上へどしどし起こっているのが目立つ。例えば、ハリウシが張碓[ハリウス]、クマウシが熊碓[クマウス]など、またピラエツが平糸に、エンルム(岬)がイズミ(幌泉の泉)などの類である。[3]
アイヌ語地名の東北弁による変化は、例を挙げていけばきりがない。金田一京助は若いころにアイヌ語を研究する決意をかためて、一九〇六年(明治三九年)に初めて北海道にわたりアイヌ語の採集をした。東北にはアイヌ語の地名がそのままのかたちで残ってはいないが、当時の北海道には幸いにして、物知りのアイヌの古老[エカシ]たちがまだ生きていた。彼らのアイヌ語における知恵を渉猟した上で、その光を東北の地名の上に照射すれば、古来からの地名の姿が浮かびあがってくるのかもしれなかった。
ところが、明治の後半における学者たちの大方は、歴史書に登場する蝦夷[エミシ]をアイヌではないと考えていた。蝦夷はさまざまなかたちで中央の朝廷や幕府に抵抗し、なかなか屈すことのなかった和人だという説を支持していた。そんななかで金田一京助は次第に、蝦夷とはすなわちアイヌだったのではないかと主張するようになる。それを実証するものが、東北におけるアイヌ語地名だった。蝦夷とアイヌの近縁性を比較しようというときに、たとえば戦前であれば人種学的に骨格を調べていく方法がとられたが、現在ではそのような方法やイデオロギーは否定されている。現代であれば、それはDNAによって種族の混淆や移動経路をたどる研究や、あるいは文化人類学的に人びとの生活習慣や民俗を研究していく方法になることだろう。若き言語学者だった金田一にとってそれは言語であり、アイヌ語地名を掘り下げることで、少なくとも東北地方にアイヌが暮らしていたということができるのだった。
一九〇四年に日露戦争が勃発し、戦勝国となった日本が翌年九月に樺太島の北緯五〇度以南をロシアから割譲された時代であった。一九〇六年に柳田國男は新領土になった樺太島の視察に出かけ、東京に帰着したあとで「樺太紀行」を書いている。さまざまな文人や学者たちが樺太に旅をするなかで、北海道への旅の翌年一九〇七年七月に、金田一京助は樺太アイヌの言葉を調査するべく四十日間の採訪の旅にでている。その旅行について書いた随筆「片言をいうまで」によれば、小樽を船で出港して宗谷海峡をわたり、亜庭湾(アニワ湾)を航行して最初に大泊(コルサコフ)の港町に寄港した。この時代から、やはりコルサコフが南樺太にとっては海の玄関口だったのだ。金田一はその港町で乗りかえのために船を待ち、最終的には東海岸の落帆村(オチョッポッカ村)のアイヌ集落[コタン]にたどり着いている。この集落は、まさにサハリン南部の「シレトコ」であるアニワ岬のつけ根部分に位置していた。
現代の地名でいうと、サハリンのトゥナイチャ湖(旧富内[トンナイ]湖)と呼ばれる、砂州によってオホーツク海と隔てられた海跡湖の北面あたりである。ユジノサハリンスクから南東の方位に四〇キロほどいった、オホーツコエ村の付近だと考えればいいか。金田一京助は、そのアイヌ集落で酋長ピシタクの家に滞在して食事の世話になった。ところが、彼の洋服姿がアイヌの人たちに警戒心をおぼえさせたらしく、質問をしようとしても誰もが背をむけて散ってしまうのだった。そうして三日が経った。東京を出発してから一か月、何の収穫もなく帰らなくてはならないのかと金田一が煩悶していたとき、屋外で無心に遊んでいる子どもたちの集団に出くわした。
ふと、その一人の腰に下っている小刀にさわって、北海道アイヌ語で「タンベ・ネップ・ネ・ルエ・へ・アン?(それは何なの?)」と尋ねてみた。子供らは一斉に私の顔を見た。と思ったら、一度にわっとはやし立てて、くもの子を散らすように逃げ散った。
「通じないかな」と一人つぶやきながら途方にくれていると、また三々五々集まっては何か大声にわめきながら遊ぶのである。また寄って行った。今度はことばを換えて、一人の子の耳に下げた輪を指して、「マカナク・アイェプ・ネ・ルエ?(何というものか?)」と問うて見た。またふりかえって全部の子供が私を仰いだが、「なあにいってやがる」といった調子に、「わあ!」とわめいて逃げ出した。[4]
この描写から、当時の金田一京助の使うことができた北海道のアイヌ語が、多少とはいえども、話し言葉において樺太アイヌの子どもたちに通じている様子がわかる。ようやく言語調査を開始する手ごたえを得た金田一は、次に子どもたちの気を引くため、単語を採集するはずだった手帳にひとりの子どもの姿を写生しはじめた。案の定、子どもたちは遊ぶのをやめて、しゃがんで描いている金田一の近くに寄ってきて絵をのぞきこんだ。なかには遠慮なく指でさして「ここが頭で、ここが足だ」と樺太アイヌの言葉で説明するのだが、彼にはうまく聞きとることができなかった。
その時だった。ふと思いついて、一枚新しい所をめくって、誰にもすぐわかるように、大きく子供の顔をかいてみた。目を二つ並べてかくと、年かさのが一番先に「シシ」「シシ」といった。ほかの子も「シシ」、ほかのも「シシ」、とうとうさしのぞいていた子の口がみな「シシ!」「シシ!」「シシ!」。騒がしいったらない。そのさまはちょうど、「目だよ。目なんだよ」「うん。目だ」「目だ! 目だ!」とでもいうように聞けたのである。
そうだ、北海道アイヌは「目」をば「シク(shik)」という。樺太ではそれを「シシ(shishi)」というのかも知れない。ということが頭へひらめいたから、急いで絵の目から線を横へ引っぱって、手帳のすみの所へshishiと記入し、それから悠々と鼻をかいていった。
年かさの女の子が鋭い声で「エトゥ・プイ! エトゥ・プイ!」と叫ぶ。[5]
こうして、たちまち十数個の樺太アイヌの言葉を子どもたちから収集した金田一京助は、おぼえたばかりの単語をもっていき、集落の大人たちに話しかけた。自分たちの言葉で声をかけられた大人たちは、それまでとまったくちがう反応を見せた。「むずかしい顔ばかりしていたひげづらが、もじゃもじゃのひげの間から白い歯をあらわした。これまでそむけそむけしていた婦女子の顔にも、まっさおな入れ墨の中から白い歯が見えた。明らかにみな笑ったのである。中にはむこうから、網を持っている手を振って見せて「ヤー(網)」といったり、砂地を指して「オタ(砂)」といったりしたものもある」[6]。金田一はこうして大人たちからも単語を集めていき、一週間後には彼らと片言で会話ができるようになった。このオチョポッカ村に四十日間滞在するうちに、四〇〇〇の語彙を収集し、のちに「北蝦夷古謡遺篇」に収録されることになった三〇〇〇行におよぶ英雄ポノタシュヅ[ツに半濁音の。]ンクの叙事詩を採録することに成功したのである。
このときに金田一京助が収集した「オタ」という語彙は、実は北海道のアイヌにも共通するものである。そしてまた、よく地名につけられる言葉であるらしく、樺太から北海道、そして東北にいたるまでアイヌ語の「オタ」から来たと考えられる地名が広く分布している。金田一の道程を一一〇年後になぞるようにして、北海道から宗谷海峡をわたって、サハリンのコルサコフ(旧大泊)に着いたわたしのその後の旅程から「オタ」について考えてみよう。わたしはコルサコフからユジノサハリンスク(旧豊原)に移動し、九時間ほど夜行列車にのって北上し、オホーツク海に面するテニペルヤ湾の町ポロナイスク(旧敷香)に到着した。
この町の周辺には、ウィルタやニヴフなどの少数民族が多く暮らし、戦後にこの島に取り残された朝鮮系の住民も少なくない。そこはポロナイ川の河口にある町で、その名はアイヌ語で「大きい川」を意味する。幌内やホロナイという地名が北海道や東北に数多くあることは前述のとおりである。町からポロナイ川をはさんで三角になった砂地がオタスotasutと呼ばれており、日本統治時代にあった「オタスの杜」には、トナカイ遊牧などをしていたウィルタやニヴフ、エヴェンキなどの少数民族が集められて、日本から次々と見物人がやってくる「土人部落」がつくられた場所である。
ポロナイスクから車でオタスの跡地に行ってみてわかったのは、オタスは町から見てポロナイ川の少し上流にあるということだ。三角州のような地形になったオタスの砂浜は決して広くない。むしろ河口にある「サチ」のほうがよっぽど砂地という印象だった。日本が敗戦して樺太がロシアに再占領されたとき、少数民族の人たちはオタスの杜に良い記憶がなかったので、その場所を引き払って河口のサチと呼ばれる地に移住した。そのため、オタスとサチを混同している人が割といる。そのサチで聞きとり調査をしてみて驚いたのは、ポロナイ川をはさんで渡し舟で行き来できるこの砂地に、現在でもさまざまな少数民族が肩を寄せあって暮らしていることだった。少し話をきいてみただけでも、戦後もこの地に残った日系二世、ウィルタの少年、ツングースと朝鮮人のハーフの女性、エヴェンキとロシア人のハーフの少女といった具合であった。
アイヌ語のオタotaは、「砂」や「砂浜」の意であるが、スsutまたはshutが何を指すのか、さまざまな研究者の頭を悩ました。古くは一九世紀なかばにこの地を探検した松浦武四郎が「ヲタス」に宿泊している。バチェラーや知里真志保や山田秀三らの考えを総合すれば、スsutは「麓」や「裾」を意味するので、だいたい「丘の砂のある麓」や「砂浜の根もと」という意味であるようだ。樺太では「小田州」、択捉島では「宇多須」の漢字があてられた。[7]北海道にオタスと呼ばれる地名が少なくとも数カ所あったことが確認されているが、松浦武四郎の時代からあったのは積丹半島の北岸にある歌棄[オタシユツ]という地名である。北海道の南部には砂浜[オタ]から訛ったと見られる「ウタ」のつく地名が多くあり、さらに下北半島の大湊や津軽半島の外が浜にも「宇田[ウタ]」がある。樺太と北海道と東北をつらぬいて、シレトコやオタの地名が分布するところに、古来から「アイヌ語族」の人たちが海上を往来してきた姿を想像するのは、わたしの勇み足であるだろうか。
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樺太アイヌの古謡
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