「鎌倉できるだけ無銭暮らし」(3)和賀正樹
福岡市賛江
ひさかたぶりに福岡に行ってきた。
かつて、「中洲で泣かす」を合言葉に友人たちと夜の街にちりじりに出撃したが、全員が博多女に泣かされて帰ってきた。
福岡の赴任者は、3回泣くという。まず、着任して人情の厚さに泣き、離任するとき、別れの切なさに泣き、新しい任地で福岡を思い出して泣く。
――博多にいくときゃひとりできたが、帰りゃ人形とふたり連れ
俗謡のひと節だ。人形を思い出と置き換えてもいい。
メーカー勤務の知人によると、中国駐在員の送別会は通夜のようになり、タイや欧米の場合は、なごんだ陽気な見送りになるらしい。
九州、こと福岡のひとは、初対面から胸襟を開いている。さあ、遠慮は無用。どんとぶつかってこい! 男も女もそんな気概をもっているように感じる。
かつて週刊文春が山崎拓元自民党幹事長(当時)の愛人スキャンダルを報じた。福岡2区選出の大物政治家だ。ことの委細は省くが、10年間愛人であった当事者の女性(地元のクラブホステス)に危害や圧力が加わる心配があったので、女性の希望を受けて発売前から女性宅に編集部員(女性)が1週間泊まり込み、電話や来客に対応。発売後は都内のホテルでは人目にふれるので、複数の編集者が付き添い海外に滞在。以前は軽井沢や熱海の社の保養所にネタ元を匿ったりしたが、いまは売却してない。
ちなみに、他の週刊誌もそうだろうが、週刊文春はネタを買わない。一銭の対価も払わない。ゼニにつられて質の悪いネタが集まる。ガセネタをつかないためにも、ビタ一文も出さない。
ただひたすら、気もちが那辺にあるかを見極める。問題を放置すると大きな禍根を残す。私の人生を棒に振っても世の中に訴えたい。そういう良心のあり方で判断する。純粋な義侠心、社会正義に裏付けされた行動か、どうかを見定める。くだんの女性には、「仕方なく中絶を2回。母とは・・・。こんな人が首相になるかもしれない。怖ろしい」という動機があった。
報酬は払わないが、報道するとなったら、ネタ元を守り、金銭、労力を惜しまず取材する。――ターゲットの人物が羽田にむかった。ヤサはどこだ。追跡開始! 搭乗便のプレミアシートの周囲を記者で固めることもある。
ヤマタフ、もとい山拓さんは肝が据わっていた。愛人スキャンダルもあってか衆院選に落選。31年間守ってきた議席を失い、自民党副総裁を辞した。しばらくたって、「手打ちをしたい」と編集長に会食を申し込んできた。胸中を清らかにしたかったのだろう。すべてのことは過去のこと。もう忘れたい。なかったことにしたい。そんな人が大半のなかで、異例のことだ。
愛人発覚のまえ、赤坂の居酒屋で山拓さんら複数の自民党議員と会ったが、「のぼせもん」でも「ひょうげもん」でもない。話をよく聞き、どっしりとしていて、どこか茫洋。玄洋社にいたであろう大陸浪人の匂いがした。
なぜ博多の女性は美しいか
名古屋もそうときくが、芸どころ博多のひとはおしゃれだ。近所に出かけるときも粋な装い。確たる反ルッキズムの立場にいないが、所作が美しい。だから、みなさん、きれいに映るのだ。
一例をあげる。夜、ひとりで上川端商店街のラーメン屋「長浜屋」に入った。客の入りは半分ほど。カウンターに20代後半の会社員風の女性がひとり。ひとつあけて座る。女性は、当方に軽く黙礼をする(ように見えた)。ラーメンがはこばれた。女性は箸をとり、丼に両手を合わせた。
――このあいだ、東急東横線で、ミニスカートの女子高生の隣に座ろうとしたら、座席をふさいでいたカバンを膝に置き直し、「チッ」と舌打ちされた。
――会社員風の女性は、食べ終わったときも、両手を合わせ、「ごちそうさま」と小声でいった。
どこかに投網はないか。瞬間凝固剤があったら、ふりかけて関東に連れて帰りたかった。
宿泊先の薬院のビジネスホテル(1泊4200円)も、このラーメン屋にもアジア系の若者がはたらいていたが、東京のかれらより表情は明るく感じた。博多の開かれた気風がそうさせているのかもしれない。
野田知佑賛江
話を戻します。今回、目的は3つあった。
まずは、カヌーイスト野田知佑さんの墓参り。久留米市大城の専称寺へ。拙著『ダムで沈む村を歩く――中国山地の民俗誌』の帯に、一文を寄せてくれた恩義がある。徳島の日和佐町に「移住せんかとも言われた。会社を辞めろ。転職してはどうか。ここまで無責任に干渉してくれたのは野田さんだけだ。
ご存じのように、野田さんは国土交通省による不要不急のダム建設に終始、抵抗。長良川の河口堰建設では、野田さんの呼びかけでカヌー愛好家が長良川の工事現場に集まった。「こちらも勉強せんといかん」とダム不要論を理論補強して、役所御用の河川工学の専門家たちと対峙した。クルマの運転はできない。だから、単身で運べる折り畳み式のカヌーを愛用。以前、千葉の亀山湖畔に住んでいたときは、一万円札を家の壁にピンで止めていた。必要に応じて、はがしていく・・・。
上京時の宿は、西武系の新宿プリンスホテル。「野田さん、おかしくありませんか。西武資本は、日本の国土をめちゃめちゃにした張本人ですよ。野田さんらしくないです」。あるとき、そう文句をつけたら、「ほかのひとにもそう言われた。・・・おれ、東京では、ここしか知らないんだよ」とすまなそうだった。
西武商法で壊された里山、里海
60年から70年代に、鎌倉の山と海は大きく変わった。
主役は西武資本だ。西武グループは国土計画(当時)を中核に、ゴルフ場、スキー場、リゾートホテル、遊園地・・・と全国各地で「開発を進めてきた。
鎌倉から横浜の金沢八景にぬける金沢街道。朝比奈峠を越えるとき、はじめてのひとは北の斜面の異観に仰天するだろう。視界いっぱいに広がる無機質な墓石群。
鎌倉霊園だ。55万平米。甲子園球場の14倍の広さに4万区画(合葬墓ふくむ)。1965年の開業。いまも墓所を販売中(「普通霊域」3.0平米、640万円より。事業主体:一般財団法人康信会。指定石材店:西武建設)。
この地は、もともと和泉ヶ谷とよばれる谷戸だった。朝比奈の切通し(国指定史跡)から霊園の朝比奈口まで直線距離で300メートル。富士山を望む古代、中世から変わらぬ山並みを削り、谷を埋め、丘陵にならし、ひな壇を造成した。十二所から天園・太平山につづく東尾根のハイキングコースは、あとかたもなく消えた。ミズ(ウワバミソウ)やイワカガミの渓は、コンクリートの排水溝になった。かろうじて、西側の馬場ヶ谷が残った。
合法かもしれないが、現代の尺度では、エシカル(倫理的)とはいえない行為だ。
鎌倉霊園開業の1年後、1966年に乱開発に歯止めをかける古都保存法が制定され、歴史的風土保存区域に朝比奈地区など695ヘクタールが指定された。
同法の施行により、鶴岡八幡宮の裏山、八幡宮供僧二十五坊の遺跡が点在する御谷は、宅地開発から免れた。若宮大路の一の鳥居から、段葛、八幡宮まで、一直線に見渡せる景観美。寸でのところで、延長線上に個人住宅が立ち並ぶところだった。
もう数年、制定がはやければなあ。和泉ヶ谷もすべて埋められることはなかったかもしれない。
高度経済成長の時代、「昭和の鎌倉攻め」と呼ばれる開発ブームがあった。時計まわりに腰越・津を江ノ電(小田急系列)、鎌倉山を兼松江商、常盤を住友不動産、梶原を野村不動産、旧市内は二階堂を住生土地、浄明寺を住建不動産・・・。大手ディぺロッパーによる大規模な宅地開発が繰り返された。
西武資本は、ほぼ同時期に七里ガ浜の里山も、大規模に宅地を造成(七里ガ浜東1丁目から4丁目)。分譲地のまん中に西友ストア、入口に鎌倉プリンスホテル、ゴルフ練習場を置いた。
数百年前、関東の多くは原野。ひとが住んでいる土地は、すべて「開発」行為の所産ではないか。大手ディぺロッパーだけが悪といえるのか。こうした「そもそも論」も根強い。
わたしの住む土地も、江戸時代に廃寺となった新清凉寺の一画だ。裏山の藪を刈っていたら、錆びた大元通宝が出てきた。埋蔵文化財が眠っているかもしれない。住宅の基礎工事は通常、地面から60センチ掘り下げて土台を敷設するが、施工の葉山工務店(逗子市)と設計監理のタトアーキテクツ(神戸市)の島田陽さんが相談して、30センチで済む工法を考えてくれた。
日本第二の個人墓
霊園中央を貫く道をへだて一段たかくなったところに、古墳を思わせる個人墓。西武の創業者・堤康次郎が葬られている。国内では仁徳天皇陵の次に大きいらしい。
毎年1月1日7時、付近の住民は爆音をきく。西武鉄道グループの総帥・堤義明を乗せたヘリコプターが着陸。西武グループ各社の部長職以上の幹部、数百名を前に、堤は新年のあいさつを述べて、またヘリに乗り込み、飛び立っていく。
かつては、西武各社から毎日2人が選ばれて、霊園内にある施設に泊まり込み、堤康次郎の墓石を磨き、水をうち、掃除をし、観音堂の鐘をつくしきたりがあった。愛社精神(と服従の心)を涵養するのだろう。「おれが頭脳だから社員は高卒で十分です。大卒はいらない」。そう義明さんは公言していた。
墓地の残土で逗子マリーナを
鎌倉霊園を造成したとき、大量の残土が生まれた。どうするか。近場で埋め立てに使えば無駄がない。こうして生れたのが逗子マリーナ(現ビエラ逗子マリーナ)だ。
鎌倉市と逗子市にまたがる広大な山並みを削って出来たのが「逗子鎌倉ハイランド」(浄明寺6丁目、逗子市久木8丁目)。これも西武資本によって造成された。例によって分譲地の真ん中に西友ストアー。通常、ハイランドとはスコットランド北部のこと。なぜ、英語名なのだろう。本多勝一が元気ならば、「貧困なる植民地根性だ」と噛みついただろう。
さて、問題は逗子マリーナです。
国指定史跡の和賀江島。現存する日本最古の築港址だ。潮がひくと、弧状に1000年前の石積みがあらわれる。ここから磯づたいに南に1分進むと、塀の向こうに広大なマンション群。中世から異次元にワープしたようだ。
事業の主体は、西洋環境開発(西武流通グループ。後のセゾングループ)。地元漁協は補償金と引き換えに、漁業権を放棄。飯島崎から小坪の海面が埋め立てられた。
白い壁、赤い瓦を載せたスパニッシュスタイルの9棟。直線で区切られた街区にヤシの街路樹。1226戸のマンション。プール、ヨットハーバー、レストラン、ボーリング場、テニスコートも併設された。
ちなみに川端康成は本館4階の仕事場でガス自殺した。「美しい日本と私」の川端が、なぜ西武グループのつくったコンクリートの函のなかで。・・・。数寄屋造りの自邸(鎌倉市長谷)か、鴨川べり、嵐山のふもとでまっとうしてほしかった。いや、初期に「浅草紅団」をのこした作家だ。墨東の京島、ミナミのジャンジャン横町の人間臭い陋巷こそふさわしかった。
今回の福岡行き。目的のふたつめは能古島。檀一雄の自宅があった。ポルトガルなど各地で暮らした「天然の旅情」の作家だ。かれが終生の地と定め、最晩年をすごした土地を見てみたかった(最期は九州大学病院で亡くなった)。
姪浜の市営渡船場――なんて趣きある日本語の名称だろう――から10分、230円。元気のよい青年ならば泳いで渡れる距離だ。かつて、鹿児島の元気よか若者は天文館で呑んだあと、深夜、錦江湾を泳いて対岸の桜島の村々に帰っていったと聞く。
波止場に着いた。民宿街をぬけると、畑と雑木林が混じったゆるやかな斜面。檀の旧宅址があった。
近所を歩きまわる。・・・博多湾。糸島半島。ヤブツバキとシイの雑木林。林間から垣間見える市街。たたわに実るナツミカン。農作業の小屋。くねくねした野道。放し飼いのニワトリ・・・。檀が生涯の最期に目にしたであろう風景は、川端のそれとは対照的に映った。
著者プロフィール
和賀正樹(わが・まさき)
和歌山県新宮市のうまれ、そだち。早稲田大学教育学部卒。文藝春秋に入社。雑誌、書籍の編集者を長年するも、ベストセラーとは無縁。旅先のスリランカで「タミールイーラム解放の虎」、中国で長春市警察により身柄拘束をうける。ただいま神奈川大学国際日本学部で非常勤講師を務めるも不人気で、閉講を思案中。著書に『ダムで沈む村を歩く 中国山地の民俗誌』(はる書房)、『大道商人のアジア』(小学館)、『熊野・被差別ブルース 田畑稔と中上健次のいた路地よ』『これが帝国日本の戦争だ』(ともに現代書館)。