ゾミア紀行(6)「雲南、ハニ族の女たち」
昆明から河口へ
中国南部とミャンマーが国境を接する地域への秋の旅では、出発点は雲南省にある昆明(クンミン)の鉄道駅だった。久しぶりにきた中国だったが、大都会の中心部では、建物も施設も新しく立派で、自分の記憶のなかのかつての中国東北部の田舎における光景との開きが大きくあった。それで、両者のイメージを頭のなかで折りあいをつけることが容易ではなかった。高齢化が進み、社会全体が斜陽傾向にある日本列島からくると、昆明のどこへいっても人が多くてにぎやかで、活気があるさまに刺激を受ける。
まずは昆明から、ヴェトナムと国境を接する町である河口(ハーコウ)まで、寝台の特急列車で移動する。漢民族、少数民族、ヴェトナム人など、さまざまな顔をした人たちが、ところ狭しと乗りこんできて、車内を見渡すだけでも、多文化が混在する境域にやってきたことが実感できる。雲南への旅のあいだにつけていた日記兼フィールドノートには、前夜にバンコクから飛行機で昆明に到着したときの印象が次のように書かれてある。
発車のベルの音もなく、車掌による合図もなく、午前11時2分の定刻がくると、昆明発河口行きの寝台列車は音もなく、するするとプラットホームを滑りだした。5時間半の旅程である。リーズナブルな「硬臥車」は3段ベッドで、6人が横になれるコンパートメント式。イ族のおばあさん、ハニ族のおばさん、韓国人のビジネスマンや日本人という取りあわせで、多民族を絵に描いたような状態だった。
(本連載では少数民族を呼称するときに、◯◯族という表記を採用していない。氏族単位でもないのに少数者だからといって、部族のように呼ぶことは妥当ではないからだ。ところが、中国国内の少数民族は正式に◯◯族と呼ばれている。そこには圧倒的多数者である漢民族が少数民族にむける不均衡な視線があるが、ここでは中国の民族を呼称するときに限り、◯◯族の表記を踏襲する。)
そこへヴェトナム娘があとから入ってきて、おばさんとおばあさんのあいだにちょこんと腰かけた。彼女はりんごをかじり、鳥の足のくん製をしゃぶっている。さいごにきた漢族の大柄な男性は、自分が座るスペースがないのを見てとると、反対側の車窓前にある折りたたみ椅子に陣どった。
この地域に何度も足を運んでいるのか、韓国人の男性はとても慣れた様子でスマートフォンの翻訳ソフトを使い、うまく女性陣たちとコミュニケーションをとっている。それぞれ母語が異なる人たちだから、共通語として標準話を使う。ぼくは1番上の段だったので会話には参加せず、寝そべったまま、はじめて見る雲南の風景を楽しんだ。しばらく文庫本を読んでいたが、ガタンガタンという列車のリズムに揺られるうちに寝落ちしたものらしい。夕方に河口の駅に到着した。
ややこしいが、その土地の正式名称は、雲南省の「紅河ハニ族イ族自治州」にある「河口ヤオ族自治県」である。ヴェトナムとの国境にある町で、北の中国側が河口、南のヴェトナム側がラオ・カイと呼ばれる。宿に寄って荷をほどき、町の中心を流れる紅河を見にいった。橋から眺めやると、山上から流れてきた紅河がたっぷりと泥水のようなにごった流れをたたえている。本来は泥水ではなくて酸化鉄を含む赤色のはずだが、上流で雨が降ったせいか、その日は濁ったメコン川みたいだった。
標高が1900メートルほどある昆明から下ってきて、この町は標高としては1000メートルくらい低いので、川面から吹いてくる亜熱帯の風が生あたたかく感じられる。雲南の山々からの流れがヴェトナム側に入るとホンハ川と呼ばれ、ハノイの街を通りぬけ、トンキン湾沿いのデルタ地帯へと注ぎこむ。この旅では、水の流れとは反対に、紅河やその支流に沿って上流にさかのぼる移動になる予定だった。
国境沿いの金平へ
翌朝は早起きして汽車站(バスターミナル)までタクシーでいき、なんとか朝7時半のバスに乗りこんだ。河口の町をでると、中越国境を隔てる紅河に沿ってのぼる山道になった。濃い緑色をして鬱蒼とした森というか、ジャングルが身近に迫ってくる。ときおり拓かれた空間があるかと思うと、大きなバナナの葉が茂る畑があった。
川沿いの道をのぼり、少数民族の人たちの住む境域にむかっていると、数年前にタイヤル族の村を訪ねて、台湾島の山地へ入っていった感覚がよみがえってきた。「新河高速公路」というバイパスに入ろうとしたとき、バスが停車させられて、公安部隊の人たちが車内に乗りこんできた。ここから先は「辺境地区」に入るので、乗客ひとりひとりの身分証の番号と名前をチェックするという。バスのなかでは、パスポートを保持する外国人はどうやら自分だけのようだった。
途中、南屏(ナンピン)停車区というサービスエリアに入り、ガソリンスタンドの前で何人かの少数民族の人たちが降車した。すでに雲間に尾根がのぞく山中の風景であり、猛烈な繁殖力をもつ樹々が道路に覆いかぶさっている。バイパスをおりると、右へ左へと蛇行する山道になった。少数民族の人たちが主導権をにぎる辺境管理区に入るらしく、またもやバスが停車させられ、今度は乗客全員が外へおりるように指示された。背中に「辺境公安」の文字がレタリングされた制服を着るのは、漢族ではなく、目が大きく、浅黒い肌をした人が多い少数民族の人たちだった。
公安のテントの下で、入域者用のノートに名前と住所を書いているとき、10代の若い兵士が英語で話しかけてきた。
「どこからどこまで行くつもりか」
「今日は金平(ジンピン)まで行き、その次は緑春(リューチュン)を目ざします」
「ここで何をしているのか」
「文化的な観光です」
あとでわかったことだが、ぼくの見かけが漢族風なので、公安隊員たちに警戒されていたらしい。自治州や自治県といわれているのは名目だけではなく、行政から公安部隊のような組織までが少数民族らによって運営されている。チェックポイントを過ぎると、金平までは、あと58キロほどだった。
川底が見えないほど高い橋梁をわたり、暗い隧道を抜けていった。紅河の支流にそって進み、ときどき村があると、イ族やハニ族の女性たちの民族衣装がちらほらと見えた。バスの運転手は中年女性で、ときどき村の中心部で停まるたびに村人たちから手紙や郵便を受けとっている。手紙を渡す人は、一通あたり10元を支払っていた。山奥では、どうやらバスの運転手は郵便配達員や宅急便屋をも兼ねているようだ。日本円では200円くらいだが、物価が日本の2分の1から3分の1くらいの雲南省の感覚だと、それなりに安くない値段だといえた。
心細くなるほど細くてせまい崖道を進み、土砂くずれが起きた場所を3度ほど通りすぎた。山中からすべり落ちてきた大きな岩が道をふさぐのを見て、「あんな岩が頭のうえから落ちてきたら」と思い、背筋が寒くなった。めずらしい景色に浮き立つ心を隠せずにいると、12時すぎに金平の北バスターミナルについた。河口からは4時間半の旅程であった。高台にあがって金平の街を眺めおろすと、街の真んなかを流れる紅河の支流を中心にした谷間の地形である。斜面になった坂にびっしりと家屋や雑居ビルが建てられて、雲で霞む山々のむこうにはヴェトナム側の山間地がある。
2キロほどはなれた街の中心部にある「衣貿市場」まで移動した。市場のまわりでは女性たちが路上に店を開き、果物、野菜、日常雑貨、菓子、ニワトリなどを売っている。観察していると、にわとりやアヒルはその場でさばき、新鮮な肉を手渡している。生きている犬が何匹かつながれていて不審に思っていたら、やはり、その横で皮をはいだ状態のピンク色をした犬肉が、原型のわかるかたちでぶら下がっていた。
ごみごみとした野菜市場のエリアに入り、人びとでごった返すパサージュを抜けていく。近隣の村から背中のかごいっぱいに野菜を運んできて、路面にシートを1枚敷いて商いをやっている。長ねぎ、緑色のなす、瓜、ピーマン、キャベツ、サヤエンドウ、にんにくのような見慣れた野菜から、ザボン、いちじく、ドラゴンフルーツ、タマリンドなど、あまり見慣れない果物までがずらりとならぶ。
数年かけてインド北東部やインドシナ半島の山岳地帯に通い、いわゆる「ゾミア」への旅をくり返したきたわけだが、山間部の村は別として、民族衣装を着ている人がこれほど多い大きな街を見たことがない。ほとんどが中高年の女性だった。正式には「金平ミャオ族ヤオ族タイ族自治県」なので、さまざまな民族が混住するエリアであり、本当にいろいろな人がいた。黒字の上着に白とピンク色の縁どりをして、頭にかぶった黒い帽子から赤色のぼんぼんを両脇に垂らしているのは、少数民族といえども800万もの人口を誇るイ族の女性だろう。より伝統に忠実な女性は、黒い上着にさまざまな刺繍を縫い、紺色とあざやかな赤色のスカートにも細やかな模様をあしらっている。
とはいえ、金平の街ではなんといっても紅頭ヤオ族の人たちの衣装がとにかく目立つ。民族衣装には個人によってバリエーションがあり、帽子だけをかぶるとか、上着だけを着るとか、本来の姿よりも崩れているさまがうかがえる。そのなかで紅頭ヤオ族の人たちだけは、頭頂からつま先まできちんと伝統衣装を身につけることが多い。市場で声をかけて、ひとりのおばあさんに民族衣装を見せてもらい、いろいろと教わった。
結婚した女性は、尼僧のような剃髪にして、その上に三角コーンのようなかたちをした、オレンジ色のとんがり帽子をかぶる。上着には黒い厚手のフェルトの生地を使うが、前あわせは派手なオレンジ色の布を縫いつけ、そこに凝った刺繍をほどこす。その布を縁どるようにして、縦に小さな鞠をいくつもつけてある。短いエプロンのような前かけとズボンにも同じオレンジ色の布を使い、黄色や黄緑などのカラフルな色彩で、ヤオ族に伝統的なモティーフをクロスステッチで刺繍してあった。
夢中になって探索をつづけているうちに、気づいたら南の汽車站まで歩き着いていた。途端にどっと疲れを感じ、足が棒のようになっていたので、腰かけられる場所をさがした。ベンチに座っていると、となりに座っていた徐さんという中年男性とおしゃべりになった。彼の名前は普金祥(プー・チンシャン)といい、40歳とのことだ。漢姓をもってはいるものの、自身はハニ族の出身のバス運転手とのことだった。
「このあたりで、伝統的な家屋や風俗が残る村はどこですかね」と質問すると、紅頭ヤオ族の永平村と、伝統が残るハニ族の哈尼田村を勧められた。
普さんは、バスターミナルの近くでぶらついていたタクシー運転手と交渉してくれて、だいたい1日あたり200元から400元くらいで案内してくれるという話だった。ところが、どうしても翌日に運転してくれる人が見つからない。困り顔で座っていると、「わかりました。明日は忙しいですが、土曜日ならば仕事が休みなので、わたしが半日お付き合いしましょう。朝にホテルへ迎えいきます」と約束してくれた。
中国各地の都会に旅したことがあったが、こんな親切な人に会ったのははじめてだ。外国人の旅行客をほとんど見かけない、山間部の少数民族の街まできたからだろうか。これで旅の前半は、ハニ族の村を歩くことに決まった。このように、自治州や自治県では何度も地元の人の情にふれることがあったが、いつもうまくいくわけでもなかった。反対に、知らない異文化のなかに意図せず土足で踏み入れしまい、地元の人たちから痛烈なしっぺ返しを受けて、危険な目にあうような失敗も何度かあった。
歓待と排斥
翌日、金平の市街地をさらに探索することにした。知らない土地にいき、旅先で無目的に歩きまわるということは意外とむずかしい。何かを食べるための食堂であるとか、何かを買い物するためのお店であるとか、どうしても無意識のうちに目的地を設定してしまう。そこで初めてきた町で、財布とカメラ以外のすべての荷物を宿に置き去りにし、ほとんど手ぶらででかけるということを、ときどき実践した。
この方法で町にでると、看板の文字が読めず、GPS機能のついたスマートフォンの地図が使えず、道を聞くために翻訳アプリに頼ることもできないので、自分がどこにいるかもよくわからない。宿を出発してもどってくるまで、半日か1日のあいだ、つたないコミュニケーション能力と勘だけを働かせて、その町でサヴァイヴしなくてはならない。自分の奥底にあった野生の力が少しずつよみがえり、宿に帰り着くために、道や風景を懸命に記憶しようとする。町にいようと山中いようと、地形を読むという行為をするようになる自分に気づく。地図やGPSに頼るようになる以前、おそらく子どもの頃は、誰もが駆使していたであろう能力がむくむくと頭をもたげてくる。
決して大きすぎない金平は、手ぶらの遊歩者にはもってこいの町だった。中心地を流れる川さえ忘れないでおけば、そこから自分のいる場所をだいたい計測することができる。そうやって行動をするための軸を確保しておくと、知らない土地でも、小道に入ったり、雑居ビルを探索したり、大胆に振るまえるようになる。その日は午後2時すぎに、川が見下ろせる気持ちのいい丘の上に、コンクリートの駐車場のような広い空間を見つけた。ドラム缶に木板を置いただけのテーブルをたくさんならべて、数十名が集まっている。段ボール箱やビールケースの上に座り、何やら料理を食べている。
坂道をあがって、あいさつをしながら宴会の片隅に混ざり、見学させてもらった。紅頭ヤオ族のおばちゃんたちが大鍋で野菜スープをつくり、立ちならぶ人たちが手に持つステンレスの器に盛っていく。食べている人に皿を見せてもらうと、炊きたての白いご飯に、竹筒で蒸し焼きにした鶏肉の料理をのせてあった。それをふうふうと口で冷ましながらおいしそうに食べている。人びとの輪のなかに、伝統衣装で着かざった10代後半の男の子と女の子がいた。つたない言葉と筆談できいたところ、どうやらふたりの結婚式ということだ。残念なことに、音楽の演奏や伝統的なダンスの時間は終わったところだった。
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