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ゾミア紀行(3) 「 アルナチャルの人類博覧会」

インド北東部、雲南省、タイ北部、カンボジア、ヴェトナム中部高原など、ゾミアと呼ばれる山岳地帯をめぐる旅。山地民の民俗を探求するノンフィクション。
第3回では、東ヒマラヤのアルナチャル・プラデーシュ州と周辺地域に暮らす、少数民族の人たちの文化を観光化する試みを批判的に考察します。(文と写真= 金子遊)


インド最後の秘境

 明け方、あまりの寒さに目が覚めてしまった。宿の部屋に設置されたベッドのなかで、毛布の上に厚手の布団をかけて眠ったのだった。ところが、窓ガラスから伝わってくる冷気が顔をなで、日本列島の秋めいた気候やアッサム州の真夏の暑気を表面に保っていた肌の感覚が驚いたのだろう。東ヒマラヤの零下まで下がってきた寒気を体内のサーモメーターが感知して、意識が睡眠の底から覚醒面のほうへと浮きあがってきたようだ。布団にくるまってまんじりともせず、ここ数日のインド北東部のアルナチャール・プラデーシュ州における比較的に恵まれたといえる旅の経験を反芻していた。
 大学や研究機関などに所属して、それなりに潤沢な研究費を得て現地調査に入る研究者やリサーチャーたちとちがって、どこの雲助とも知れない一介の物書きが、ドライバーと通訳兼ガイドを引き連れて、モンパと呼ばれる人たちの労働や信仰や祭祀の場に立ち会うことができたのは、ほとんど奇跡に近いといってよかった。インドという国家においても辺境の地だとされるアルナチャル・プラデーシュ州は、これまでインドがパキスタンと国境線を争うカシミール地方とならび、外国人が入域許可を取りにくい地方として知られてきた。
 1914年に、イギリス領だったインドとチベットの間で取り決められたマクマホン・ラインは、1951年にチベットを併合した中国共産党が認めていないため、いまだに中印の国境線としては確定されておらず、国境紛争の地となっている。タワンという町はモンパの人たちが数多く暮らす、とても魅力的な民俗を残す東ヒマラヤの町であるのだが、地政学的に見るならば、以前に中国に侵攻されたことがある、インド側にとっては国境紛争における重要な拠点となる町である。そのような理由からか、1990年代までは外国人には入域が許可されず、それ以降も入域許可証をとらないと入ることすらできない、旅行者にとってはインドにおける「最後のフロンティア」であり続けてきた。
 ぼくが効果的にタワンの町やまわりの村を見てまわることができたのは、もちろんサンゲ・ツェリング・キーさんという通訳兼ガイドがいたおかげである。彼を紹介してくれたのが、アルナチャル・プラデーシュ州の州政府とインド観光局であったところに、ひと筋縄ではいかない事情がある。つまり今回の旅は、民族色の豊かな土地を見て歩くことが主眼にあるものの、これまで外国人の旅行者へと開かれてこなかった東ヒマラヤの土地に、海外から観光事業者やジャーナリストを迎え入れて、その魅力を知ってもらうために企画された政治的な意図を含んだ計画であるのだ。その大きな目論見や動きのなかに、こっそり紛れこんでいる具合だった。それゆえ、数日のあいだは政府による式典や公的イベントに参加することが義務づけられていた。頭のなかで考えごとをするうちに、鶏たちが遠くで騒ぎだしたのだが、その声をよそにふたたび浅い眠りへ落ちていった。

 遠くに万年雪をたたえる東ヒマラヤの4000メートル級の高峰が、その朝は雲や霧によって霞むこともなく、晴れわたった青空の下にくっきりとそびえ立って見えた。空気は冷たいが限りなく澄んでいて気持ちがいい。サンゲさんに連れられて宿からむかった先は、タワンの町外れにあるふだんは競技場などとして使われている空き地だった。見晴らしがいいその場所に、白いアーチ状の巨大なテントハウスが建てられて、そこがツーリズム・マートのメイン会場になっていた。最初の違和感は、駐車場から会場にむかう途中でおぼえた。
「ウェルカム・トゥ・タワン」
「エンジョイ・ユア・ステイイング!」
 モンパの臙脂色のシンカをまとった女性たちが、たくみな英語を使って満面の笑みで出迎えてくれた。伝統的な大きな数珠のネックレスをしているが、その同じ首に「サポート・スタッフ」という英語で書いたカードをぶら下げている。これまで遭遇してきたモンパの庶民とは明らかに異なる風情だった。
 メイン会場となるテントハウスの前に、渋味のある金色の装束を着たベンガル人の楽団が待機していた。しばらくすると、3人の打楽器奏者が分厚いアンサンブルを叩きはじめ、シャハナーイと呼ばれる木製の胴をもつラッパが、縦横無尽にしわがれたメロディラインをあたりに高鳴らせる。すばらしいライヴ演奏であるが、この音楽を生みだしたベンガルの土地や文脈をはなれて、会場の前で演奏されていることに、一抹の味気なさをおぼえた。となりには、真っ赤な長袖のインナーウェアの上に、サリーのようなベージュ色の布を巻いたアッサム州のミュージシャンとダンサーがいる。こちらはパーカッションとアカペラで演奏をはじめた。ベンガルやアッサムなどの平地からきた人たちは、いわゆるインド・アーリア系の顔立ちだった。

ベンガル人の楽隊

少数民族の展示

 これから式典がはじまるということで、それまで広場のあちこちで演奏や立ち話をしていた、色とりどりの民族衣装を着た少数民族の人たちがひと所に集まってきた。彼ら彼女たちはむかい合わせになり、2本の長い列をつくった。一方には、臙脂の温かそうなシンカを着たモンパ、赤と黒からなるドレスが特徴的なニシの女性たちがならぶ。彼女たちは両腕に手首全体をおおう、銀の大きな腕輪をしていた。
 ステージに近いほうに、ミャンマーとの国境沿いにあるナガランドからきたナガの一行がいる。全体でおよそ50万人といわれるナガのなかでも、アンガミと呼ばれる部族だとのこと。男性は動物の毛皮をフサフサにつけた帽子を頭にかぶり、赤と白の派手な上下を着て、首からオレンジと白と青のカラフルなビーズのネックレスをかけている。ノースリーブの服で肩から先の肌を外にだしているので、見るからに寒そうで、その服装がタワンの町の気候にそぐわないものだ。男性の横にならぶ4人の女性たちも同様にネックレスを首からかけて、黒地の上下がつなぎになった服に、緑や赤の布でアクセントを入れた民族衣装である。ナガの男性に直接話を聞いてみると、「待ってました」とばかりに流暢な英語でとうとうと語りだした。
「これらナガの伝統衣装のほかにも、わたしたちにはすばらしい装身具があります。頭にかぶっている黒の帽子は熊の毛でできています。なぜなら、男性は熊のように勇敢になりたいと望むからです」
「耳に引っかけて、両頬の前に伸びている飾りはなんですか」
「これは鳥の羽飾りですね。わたしたちの文化では、鳥の羽根は特権性を意味します。これを身につけることで、純粋さを得られると信じられてきました。ナガの人間は、鳥のように美しく着飾りたいと考えてきたのでしょう」
 このナガの男性は、観光で生計を立てている人のようだった。彼にとって、自分たちの民族衣装、伝統的な音楽やそれに使われる楽器、そしてアクセサリーや装身具に誇りをもつのは当然のことであり、それを国内外からきた人たちにディスプレイして見せる、つまりは観光資源としてあつかうことに、微塵の疑問も抱いていない様子だった。男性はこれまでも何度となくガイドとして同じ説明をさまざまな観光客にしてきたのだろう。的を射た過不足のない語りがそこにはあった。
 そのように書くと、彼ら彼女たち少数民族がみずからの伝統文化を観光化し、経済的な生活を成り立たせていることのネガティブな面を強調することになる。その一方で、インドという大国のなかにあり、常に少数者に甘んじるしかないグループならではの懸命さがひしひしと感じられた。ナガの男性の自信満々な態度の背後には「すばらしいところだから、ぜひナガランドを訪れてほしい」「人数は少なくても誇らしい自分たちの伝統文化を純粋に知ってほしい」という強い思いがあるのだろう。

アンガミ・ナガの伝統衣装を着た演奏家たち

 ところで、ファッションという面に注目すれば、メガラヤ州からきたガロの人たちのスタイルが、もっとも際立っていた。男性は頭に水色のはちまきをして、上半身は裸、2メートル近くある手製の太鼓を肩からかけて、それを両手で叩いて演奏をした。踊り手の女性陣は、同じ水色のはちまきに、水色の素朴なシャツ、首からは色とりどりのビーズのネックレスをぶら下げて飾り、緑色のさまざまな模様やテクスチャが入った布を腰に巻いている。式典が終わったあとで話を聞いてみると、民族音楽と舞踊を学ぶ学生たちのグループとのことだった。屋外の寒さにぶるぶると震えており、裸に近い格好の上にダッフルコートを羽織り、熱いお茶を飲んで体を内側から温めていた。
 2列にならぶ少数民族のなかで、ガロのむかい側に陣どったレプチャの人たちは、シッキム州の先住民で、モンパと同じくチベット系の文化が入っている。レプチャの男性は、円筒の帽子を頭にかぶり、むかしの漢服のような萌葱色の服の上に、さまざまな花の模様をあしらった上着を重ね着していた。女性陣は動物の毛皮でつくった豪奢な帽子をかぶり、上半身にあざやかな黄色の漢服のようなシャツを着て、腰から下は虹色のテクスチャで編んだ毛織物の布を巻き、それをスカートのようにして履いていた。
 式典がおこなわれるステージの前で、アルナチャル・プラデーシュ州内の少数民族や隣接するインド北東部のエスニック・グループが一同に会し、それぞれの民族衣装を着て民族楽器を誇示し、2列にむかいあっていた。そこへテレビ局のカメラマンたち、それにジープで乗りつけたインド軍の高官たち、そして、外部からきた人たちを迎え入れるモンパの地方役人がわらわらと集まってきて式典がはじまった。
 このような光景をどこかで見た気がするのだが、何であったか思いだせなかった。よく考えてみると、古い民族学の本で読んだ記述であったのかもしれない。19世紀から20世紀前半のアメリカやヨーロッパ、そして日本といった植民地主義的な野心をもつ国々の都市では、博覧会のなかで、こうした「人間の展示」がおこなわれていた。近代的な西欧文明と比べて「未開」や「野蛮」であるとされた先住民や少数民族が、大都市の博覧会の会場に連れてこられて、珍しい服装や道具をもつことが人びとの好奇の目にさらされた。その「人間動物園」といっていい状況においては、ご丁寧なことに展示される人びとの家財道具や住居までもが運びこまれ、人間とともにディスプレイされた。
 現代になっても、多様な言語の話者やエスニック・グループを抱える新興国のインドにおいて、経済発展という大義名分のもとに、少数者たちの民俗や慣習を見世物にする愚行がくり返されているのだ。次々と登場したお偉いさんのあいさつやスピーチの内容は、想像の範疇をでるものではなかった。式典のあとで個人的に話を聞いたインド観光庁の役人の女性とは、次のような会話になった。
「もちろん、ここはインドと中国の国境地帯です」と役人が答える。
「辺境とされてきた北東部の実行支配を確実にするために、このような観光フェスティバルを開催するのですか」とぼくが訊いた。
「そうじゃないわ」と彼女はインド流に首を横に振った。「それは邪推です。ここはインドの中心地から遠くはなれており、ヒマラヤの山地にあるとても自然が美しいところ。モンパやほかの民族の、そしてチベット仏教の古い歴史が息づいています。インドにこのような地域があることは、世界中の人びとに知ってもらう価値があります。探検し尽くされていない美しい場所が、まだまだたくさん残っているんですよ」
 インド観光庁の役人は両手を広げて堂々と語ったあと、今度は自分自身を納得させるというように何度かうなずいてみせた。

ガロのパーカッショニストの男性

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