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「忍耐と集中 ―評伝『山城翠香』へ」 高良 勉

 今年(2024年)の3月、やっと不二出版社から『山城翠香 短命のジャーナリスト』を上梓することができた。<序文>に「奇跡的に」というタイトルを付け、「あれから、三〇年が経った」と書き出した。
 私は、1994年に『沖縄タイムス』紙の企画連載「人物列伝 沖縄の言論百年」で「山城翠香」の評伝を担当し、34回にわたって連載した。
 この企画の担当記者だった真久田巧の記録によれば、「連載は94年1月から95年5月まで月曜から金曜紙面で計330回に及んだ。ちなみに取り上げた人物と担当、連載回数は次の通りである。太田朝敷(伊佐眞一)43回、諸見里朝鴻(田里修)13回、真境名安興(久場政彦)31回、当真重慎(豊見山和美)31回、伊波月城(村吉政松)32回、末吉麦門冬(粟国恭子)36回、山城翠香(高良勉)34回、島袋全発(屋嘉比収)51回、慶世村恒任(仲宗根將二)32回、松下晩翠(大田静男)27回である。」
(書評「歴史の闇を掘り返して」・『琉球』第102号、2024年)。
 この企画は、当時琉球大学教授の比屋根照夫と企画担当の真久田巧を中心に「列伝会」が組織され、多くの執筆者が会議と学習会に参加した。そこで執筆の分担者が決められた。
 私は、「山城翠香」という全く未知の言論人を割り当てられたのだが、内心不満であった。他の執筆者は、太田朝敷や真境名安興、伊波月城、末吉麦門冬、島袋全発等々という、有名で研究も進んで発表されている言論人たちであった。
 ところが、翠香は当時、全く無名であった。彼の38歳の短い生涯については、ほとんど調べられていなかった。初めて翠香の業績を意欲的に発掘し、高く評価した比屋根照夫筆の『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社、1983年)の項目でも、「やましろ・すいこう 生没年未詳 新聞記者。本名長香」としか紹介されてない。しかも、本名は「長馨」の誤記であった。
 このような不明の翠香だったのに、比屋根から「君には翠香が一番いいよ、翠香も詩人・評論家だから」と謎めいた推薦をいただき、列伝会で決定された。それから半年余、歴史の闇に埋もれた翠香の調査が始まった。

 まず、沖縄県立図書館へ通って明治末から大正期の『沖縄毎日新聞』、『琉球新報』を丹念にめくった。そして、翠香が1911(明治四四)年30歳で入社した『沖縄毎日新聞』連載の「机上餘瀝」に注目し、コピーを取っていった。
 その頃、幸いにも琉球アイルランド友好協会の会合で、在野の歴史研究家で『琉文手帖』、『琉文21』編集発行人でもある新城栄徳に出会った。新城は、翠香の遺族が那覇市に在住していること、子息の編集による遺稿集が県立図書館に存在することを教えてくれた。
 さっそく図書館で、二男・山城長正の編集・自費出版による『机上餘瀝―翠香の遺稿』を閲覧することができた。そこで初めて、翠香の生没年が一八八二(明治十五)年に生まれ、一九一九(大正八)年に死去した事が分かった。わずか38歳の短命であった。
 図書館に通いながら、やっと那覇市仲井真在の山城家を捜し当てた。そして、訪問し長正のトシ子夫人に面会することができた。残念ながら、長正はすでに死去していた。トシ子夫人からは、大切に保管されていた『机上餘瀝―翠香の遺稿』を分けていただき、貴重な話しを伺うことができた。
 これで、翠香の親族が分かってきた。翠香の弟・長秀の二男である、山城登を紹介していただいた。登は、たくさんの写真を始めとする資料を保存していた。それらの中から、ついに若き日の翠香の写真が出てきた。翠香の具体的姿が分かった。この初めての写真発見は、同行した真久田巧記者によって、翌日の『沖縄タイムス』社会面で、スクープとして紹介された。

 山城翠香の連載も終わって、13年後の2007年に、私は当時勤務していた沖縄県教育庁文化課・沖縄県史料編集室で、個人的な研究をやり、論文を書く機会があった。そこで、再度山城翠香を調べ『史料編集室紀要』第32号(2007年)に小論「山城翠香の年譜・資料紹介」を執筆・掲載した。(その全文は本書に収録されている)。
 これで、「もう山城翠香とは縁が切れる」と思っていた。新聞連載の切り抜きは、単行本にまとめられる事も無く、私の書庫で寝たママ、死後はバラバラに処分されるだろうと。とかく、忍耐強く待つしかなかった。
 しかし、今年(2024)奇跡的に不二出版社と船橋治会長の企画のおかげで、評伝『山城翠香』が出版される事になり、新聞連載稿が日の目を見ることになった。おまけに、今回船橋会長が研究者顔負けの情熱と能力で国会図書館や沖縄県立図書館の『沖縄毎日新聞』資料のほぼ全部を閲覧・調査し、翠香関係のコピーを収集し、私にも恵贈して下さった。その多くの資料は、私が今まで一度も見たこともない重要な物であった。
 それらが、本書の「<Ⅱ> 「机上餘瀝」抄」、「<Ⅲ> 山城翠香セレクション」、「<Ⅳ> 「編輯日誌」「編輯の後」一覧」に収録されている。これらによって、翠香の思想、評論がどんなに鋭く豊かであったかが感得できるだろう。改めて、「山城翠香論」に集中して取り組んだ。
 私が、「<Ⅰ> 山城翠香論」を『沖縄タイムス』紙に書いたときは、資料がほとんど「机上餘瀝」に限られていたため、主に「琉球民族自覚の時代」と「河上肇舌禍事件への評論」、「乃木大将殉死事件への批判」を中心に評価して論ずるしかできなかった。
 しかし、今回は新資料たちにより、山城翠香の「田岡嶺雲論」を収載し、また私の「山城翠香と田岡嶺雲」という「補論」を書き下ろすことができた。言うまでもなく、田岡嶺雲は近代日本の文芸評論・思想家で北村透谷の後継者と呼ばれていた。この拙論によって、翠香の嶺雲論がいかにレベルが高く貴重であるかが分かるだろう。
 今回の、船橋会長の新資料調査・収集によって、山城翠香執筆の記事はほぼ完全に見渡せるようになった。したがって、これ以前も、これ以後も、これ以上の評伝『山城翠香』は現れないであろう。

 幸い、本書は好評の内に迎えられた。まず、5月9日にはいち早く『宮古毎日新聞』に宮川耕次・説話研究家の書評「短命の言論人の肖像を浮き彫りに」が掲載された。続いて、5月10日『八重山毎日新聞』に詩人・研究家の砂川哲雄書評「甦る近代沖縄の言論人の思想と生涯」が載った。
 さらに、6月8日の『沖縄タイムス』紙には、戸邊秀明・東京経済大学教授の書評「謎多い生涯 復権図る」が発表された。また、6月16日には『琉球新報』に我部聖・沖縄大学准教授の書評「限られた資料で、生涯を丹念に」が収載された。一方、6月1日には『西日本新聞』・「郷土の本」コーナーで紹介された。本書が、今後とも多く読まれ、さらに評価が拡がっていくことを祈っている。
 

『山城翠香』不二出版・定価3,080円税込み


【執筆者プロフィール】
高良 勉(たから・べん)
詩人・批評家。沖縄大学客員教授。
1949年沖縄島南城市玉城生まれ。日本現代詩人会会員。日本詩人クラブ会員。詩と批評『KANA』同人。
詩集『岬』で山之口貘賞受賞。
1985年沖縄タイムス芸術選賞奨励賞受賞。
第4評論集『魂振りー琉球文化・芸術論』で2012年沖縄タイムス芸術選賞大賞・文学賞受賞。
共編・共著書、多数。

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