第27走者 川谷大治:縁起について
リレーエッセイからラリーエッセイに移行することになりました。杉本先生のエッセイにラリーします。杉本先生は「スポーツにおける心理学的要素」のなかで①ジンクス、②スランプ、イップス、③魔物・呪いについて語られ、「ジンクスとは縁起の悪いもの、または出来事をさします」と説明しています。この「縁起」に私はラリーします。まず、縁起の本来の意味を説明してイッブスの克服、そして呪いの消し方について述べようと思います。
Ⅰ.お釈迦様の悟り
縁起とは「因縁生起」の短縮形で仏教用語の一つです。インド仏教が中国を経て日本に輸入され、日本化の過程で本来の意味から逸脱し、違った意味が加えられ、それがいつのまにか本家本元になり、「縁起のいい日」「縁起でもない」「縁起をかつぐ」「何かのご縁で」という使い方がポピュラーになったのです。それでは本来の意味は何だったのでしょうか。
手塚治虫の大作『ブッダ』を読まれたことがありますか。医院の待合室の書棚に置いてありますので手にしてみてください。「ブッダ」とは「目覚めた人」のことです。しかし、「目覚めた人」はお釈迦様一人ではなく、お釈迦様はサキャ(釈迦)族の名門ゴータマ家に生まれた王子ですので、これからはお釈迦様を「ゴータマ・ブッダ」と呼ぶことにします。
ゴータマ・ブッダが生まれたのは紀元前5世紀の頃です。同じ頃、人類の知のビッグバーンが起きて、中国では孔子、ギリシアではソクラテスが生まれています。母マーヤ妃はゴータマ・ブッダを出産後亡くなり、彼女の実の妹マハーパジャーパティが継母として彼を大切に育てたと言われてます。少年時代のゴータマ・ブッダはペシミスティックで死について悩む物憂い子どもでした。そのため父スッドーダナ王は、ゴータマ・ブッダを季節ごとに春の宮、夏の宮といった具合に違う建物に住まわせ気晴らしを図ったといわれてます。漫画『ブッダ』ではハリウッド映画をまるで見るかのように描かれています。16歳のときに13歳のいとこのヤソーダラを妻に迎え、同時に、父スッドーダナ王の計らいでいつも踊り子や侍女などをあてがわれていました。サキャ族は「交叉いとこ結婚」を慣例としていました。ゴータマ・ブッダの両親もじつはいとこ結婚なんです。日本でも終戦後の民族大移動前は、いとこ結婚は「鴨の味」と言われ、よく見られた結婚形態の一つでした。地域のつながりが薄れ、しかも弱い子どもが生まれる確率が高いので、今は滅多に見られませんね。
話を元に戻します。ゴータマ・ブッダの気持ちは一向に晴れることはなく、人生には老、病、死という耐え難い苦しみがついて回ることに絶望的になっていきました。特にゴータマ・ブッダを苦しめたのは輪廻転生という思想です。当時のインド社会ではバラモンたちが輪廻支配の状況の下で特権的な指南役として君臨していました。輪廻転生とは、「人は際限なく生と死をくりかえす」という考えです。生まれても再び老、病、死という苦を体験することを想像すると、この輪廻思想は当時のインド人にとって絶望的な拷問苦だったのです。さらにこの輪廻転生を支えたのは、「自業自得」「善因楽果、悪因苦果」といった因果の理論でした(=業思想)。善悪の業を作るから輪廻転生があると考えられたのです。ですから、この輪廻転生から脱却するためには、善悪の業を作り続けざるをえない世俗的生活を捨てて、出家することでした。ゴータマ・ブッダもその一人でした。人間に生まれても必ずしも苦しみだけとは限らないのですが、当時のインド人はペシミスティックで現実生活から苦しみだけを切り取る考えが支配的でした。いつしか青年ゴータマ・ブッダも出家へのあこがれを抱くようになりました。
そして29歳のときに生まれたばかりの子どもを置いて出家したのです。息子は「ラーフラ」と名づけられました。私が若い頃、ラーフラとは出家の「妨げ」になるという意味だと本で知って、親を捨て妻子を捨てる冷たい薄情な人だと思ったものです。しかし、よくよく考えると、確かに薄情な人ではあるのですが、16歳で結婚して29歳で出家するまでの13年間ゴータマ・ブッダ夫妻には子どもが生まれていないのです。
何かにおいますね。ゴータマ・ブッダはサキャ家の王子ですので、父の跡を継がねばなりません。でも、それではいつまでも出家できません。きっとゴータマ・ブッダは「世継ぎを作ったら自分の出家も可能だ!」と閃いたのです。そして息子が生まれて、「これで晴れて自分は出家できる」と思ったと想像するのです。子どもが生まれたことを、以前の私は「出家を邪魔する」と考えたのですが、今はそうではありません。「生まれてきてありがとう。しかも男の子だよ」と喜んだと思うのです。
真実を知る鍵は子どもの名前にあります。一説には、ゴータマ・ブッダは息子の名前を父スッドーダナ王に「ラーフ」と名づけたと伝えたところ、それを父スッドーダナは「ラーフラ」と聞き違え、つまり、息子が出家を諦めてくれるかもしれないという希望を抱いて「ラーフラ」に決まったようです。「ラーフ」とは古代インドで龍の頭という意味で「ラーフラ」とは妨げという意味です。
ゴータマ・ブッダは出家するために息子を得た、というのが私の愚論ですが、それにしてもブッダは利己的ですね。スピノザは「自己の利益を第一に考える」と主張します。しかしそれだと社会は成り立ちません。その善悪を判断するのは共通概念です。想像してみてください。出家の妨げという名前をつけられ、29歳になってもうつうつとした父親と一緒に過ごす子どものパーソナリティ発達は歪み停滞すると思います。思い悩む父親と一緒にいると、感情模倣によって子どもの心に悲しみが生まれ、その悲しみを子どもは消化(昇華)できません。「お父さんが悲しいのは私のせいだ」と悪い子空想を形成するに違いないと思うのです。いっそのこと、出家してくれた方が、子どもにとってはありがたい、という事実は私の臨床でもよく経験します。ですから、ゴータマ・ブッダの出家は必ずしも利己的な行為だとは言いきれないのです。
さて、出家したゴータマ・ブッダはどのような生活を送ったのでしょうか。
わたしは墓場に入り、散らばっている骸骨を枕にして眠りをとっていた。すると、それを見つけた牛飼いの子どもたちが近づき、唾を吐いたり、放尿したり、汚物を投げたり、耳の穴に棒をさしこんだりした。しかし、わたしはかれらに対して悪意をいだくことはなかった。なぜなら、それがわたしの平静住(無関心に徹した暮らしぶり)というものだったからだ。
そして苦行に入ります。ゴータマ・ブッダがとりわけ熱心に行ったのが断食行と止息行です。止息行では息を止めるので仮死状態に陥り、断食では少量の豆汁だけを摂り骨と皮だけになったといいます。なぜこのような苦行が解脱の道に至ると考えたのでしょうか。「苦行によって呪力を身に蓄える」「不思議な力を現ずる」からと言われています(中村元)。また、苦行は快楽にふけることの対極にあるように、魂を清らかなにするための苦行でもあったのです(中村元)。
しかし、6年後にゴータマ・ブッダは苦行を捨てます。欲望に満ちた世俗世界で苦しみ、解脱を求めた苦行によっても苦しみは一向に消えないことを知って、ゴータマ・ブッダは河で沐浴して、村の牛飼いの娘スジャータから乳粥をもらい、体力を回復してのち禅定を行いました。「この禅定は、出家生活の最初に習った三昧目当ての禅定主義の禅定ではなく、全精神を集中して、苦しみ、世の無常などのあるがままを、徹底的に観察し、考察しつくし、完全な智慧を得るためのものであった」(宮本啓一『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』)と言われます。この精神統一によって得られたのが縁起説だったのです。
わたしがさとりえたこの法は、深淵で、見がたく、理解しがたい、寂静であり、卓越していて思考の領域にはないものである。微妙であって、ただ賢者のみそれをよく知ることができる。
しかるに、人々は愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に悦楽を覚えている。愛着を喜び、愛着を楽しみ、愛着に悦楽をおぼえている人々には、「これに縁ること」であり、「縁りて起こること」である、このような道理は見がたい。
また、一切の形成力の止息であり、一切の再生へのよりどころを捨てるものであり、渇愛の滅尽であり、離欲であり、止滅であり、涅槃である、このような道理も見がたい(『マッジマ・ニカーヤ』)。
「思考の領域にはないもの」という下りを読んで、賢者と凡人との間には、断裂というか、深い溝があるような、「出直してこい」と言われているような気さえします。スピノザは思惟することで神の知へ辿ろうとしました。そしてその頂に到達したのです。スピノザの言うように「たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」(『エチカ』第五部)と認めるのですが、ぼんやり過ごした凡人と生死をさ迷う修行を積んだブッダとの間には言葉で説明できないものがあるのでしょうね。その溝を知りたいものです。
Ⅱ.縁起のことわり
本来の「縁起」という言葉の意味に辿り着くのに長くかかりました。修業を積んだ経験のない私たちの前には深い溝があるので、縁起という言葉が元の意味を失ったのだと思って、ずらずらと述べてきたのです。
さて、縁起とは「縁りて起こること」です。私たちが経験するものごと・現象はすべて原因(条件)によって形成され、それはまた一時的なものであって、実体をもたないのです。一時的で実体がないとは、「空」だと言ってるのですね。そしてすべての現象は原因が寄り集まって起こるものであり、それゆえにその原因がなくなれば消滅してしまうものだ、とゴータマ・ブッダは悟ったのです(如実知見)。よって、縁起の教えとは関係性の教えと言い換えることもできます。縁起は「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」と言われ、仏教の中心思想となるものです。そして縁起の教説である十二因縁を説くときの基本形式(因果律)が以下の四つです。
1.此れ有るとき彼有り
2.此れ生ずるに依りて彼生ず
3.此れ無きとき彼無し
4.此れ滅するに依りて彼滅す
子どもから「人間はなぜ死ぬのですか」と問われてうまく答えられますか。縁起のことわりでは「何に依って老死があるのですか」と問われたら「生まれることに依って老死があるのです」と答えます。「当り前じゃないか」と怒ってはいけません。「生まれなければ老死もない」のです。苦しみから逃れたい、消えてしまいたい、という患者さんの訴えは「生」が原因なので、原因である「生」を滅するために「自殺するしかない」と結論してしまうのかもしれません。しかし、死んでしまっては元も子もないです。ゴータマ・ブッダも自殺を肯定していません。どうしたらよいのでしょうか。十二因縁は次の通りです。
無知(無明)によって形成力(行)がある。形成力によって識別作用(識)がある。識別作用によって名称と色形(名色)がある。名称と色形によって六つの感覚のあることろ(六入)がある。六つの感覚のあるところによって接触(触)がある。接触によって感受作用(受)がある。感受作用によって渇愛(愛)がある。渇愛によって執着(取)がある。執着によって生存(有)がある。生存によって生まれること(生)がある。生まれることによって老いること死ぬこと(老死)、愁い(愁)・悲しみ(悲)・憂い(憂)・悩み(悩)が生ずる。このように、これらすべての苦しみの集まりの集起がある(『サンユッタ・ニカーヤ』)。
このようにゴータマ・ブッダは一連の流れ(無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死)は「苦しみの生ずる道であり、誤った道である」と説いたのです。苦しみの発生原因は「無明」、すなわち「空」という実相に対する無知から起こります。無知ゆえに、誤った方向へ「識」を進めてしまう「行」が生まれ、それにしたがって「識」が起こります。「行」とは「私」という主体性を意識させる力と言ってよいかと思います(ここはスピノザと同じです)。この一連の道は老死に至るので誤った道なのです。正しい道とは滅する道のことです。
無知(無明)が完全に残りなく離れ滅することによって、形成力(行)が滅する。形成力が滅することによって識別作用(識)が滅する。識別作用が滅することによって、名称と色形(名色)が滅する。名称と色形が滅することによって、六つの感覚のあることろ(六入)が滅する。六つの感覚のあるところが滅することによって、接触(触)が滅する。接触が滅することによって、感受作用が滅することによって、渇愛(愛)が滅する。渇愛が滅することによって、執着(取)が滅する。執着が滅することによって、生存(有)が滅する。生存が滅することによって、生まれること(生)が滅する。生まれることが滅することによって、老いること死ぬこと(老死)、愁い(愁)・悲しみ(悲)・憂い(憂)・悩み(悩)が滅する。これらすべての苦しみの集まりが滅する(『サンユッタ・ニカーヤ 』)。
ゴータマ・ブッダはこのように欲望が消滅していく道を説いて、最後に涅槃という安楽の境地、寂静の境地を示し、これが「正しい道」であると説いたのです。私たちは識別作用によって「私」を意識します。この「私」を形成する「行」を滅するようにゴータマ・ブッダは繰り返し説いています。参考までにスピノザは無明を第三種の認識「直観知」で滅します。
しかし、涅槃の境地に至る道は私たち凡人には不可能ではないでしょうか。その理由は思考の領域を超えているからです。どういうことかと言いますと、縁起性に「同時」の部分と「異時」の部分があり、前者の「同時」が分かりにくいからだと思うのです。「此れ生ずるに依りて彼生ず」は時間軸が導入されているので経験的に私たちも知っています。たとえば、線状洪水帯によって川が氾濫した、ということは理解できます。しかし、「此れ有るとき彼有り」の部分が私にはピンと来ません。でも経験的に「生まれることによって老死がある」のは分かります。問題は、「生」があるとき「老死」があることを理性では把握できない、ということでしょうか。生と老死が同時にあるとは、どういうことなんだろう?
ここで、「無明があるとき苦がある」は真か偽かを考えてみましょう。無明そのもののなかに苦があるかと言い換えることもできます。ズバリ言いますと偽です。無明の一つと言ってよい、虚偽の源泉であるイマギナチオは幸福をもたらすことがあるからです。拙著『スピノザの精神分析』から引用します。
スピノザは言う。ないものをあるものとして想像する際に実際に存在していないものを受け入れるのであれば、「(精神はイマギナチオを)自己の本性の欠点とは認めず、かえって長所と認めたことであろう」(第二部定理一七備考)。スピノザは抜かりない。イマギナチオを長所と受け入れるチベット仏教を中沢新一は『雪片曲線論』(1988)の中で紹介している。
チベットの老僧は「知ったかぶりの学者よりも、ただの犬の歯をブッダの歯と思い込んで祈りを込めている老婆の方がよっぽど功徳は大きい」と説く。虚偽の源泉であるイマギナチオは我々人間の精神を育み保持する要素にもなるのだ。
「同時」の正体見破ったり、と傲慢になってはいけません。ゴータマ・ブッダの縁起の「同時」の部分は理性では分からない領域と言われるので、これ以上深入りするのは止めましょう。ただ、スピノザは「人間の幸福は事物の真なる認識(直観)による全自然との合一にある」と言いました。苦しみの根源をゴータマ・ブッダは無明に求め、スピノザはその解決を神(=自然)との合一に求めた、ことは追記しておきます。
Ⅲ.イップスの克服
さて、いよいよイップスの克服について語ろうと思います。ゴータマ・ブッダは「空」を説いてスピノザは「イマギナチオは虚偽の源泉」と述べました。野球選手がストライクを投げようと意識すればするほどストライクは入らない、というのは投手の経験がなくても、「そうだろうなー」と納得できます。なぜ納得するのでしょうか。それは経験済みだからです。自転車に乗れるようになるまでは、ペダルを踏む足に力を入れつつ、ハンドルを握る手も意識し、かつ同時に身体を左右に傾けたりしながら、練習したものです。乗れるようになるとペダルもハンドルも体の向きも意識していません。勝手に身体が自転車を動かしてくれるので自転車に乗りながら頭は別のことを考えることができるようになります。投手の場合も同じです。イップスを克服するには、理性を無くし無意識(無我)にボールを投げれるようになるまで練習することです。でもその克服には縁起説の渇愛がその習得を邪魔するのです。イップスの克服は渇愛を滅することにあるわけです。言うは易し行いは難し、と言われますように、渇愛を滅するのは困難を極めますね。特に、打者にデッドボールを当てたり、四球を連発してマウンドを降りた経験があればあるほど、渇愛から自由になるのは困難でしょう。でもゴータマ・ブッダが何度も説かれたように、「私」を形成する「行」を滅すると可能かもしれないですね。答えは「無我」の修行でした。
Ⅳ.呪いの消し方
それでは呪いの消し方に移ります。ゴータマ・ブッダの「呪い」の消し方は「空」の理論にあります。先にも述べましたように、苦しみの発生原因は「無明」、すなわち「空」という実相に対する無知から起こりますので、恐怖を感じている「私」を形成させないように「行」を滅するのです。「空」の思想を分かりやすくするためにスピノザのイマギナチオ論を適用しましょう。何も無いところに外界との衝突によって、つまり関係性によって、あたかもそこにあるかのように想像してしまうので「空」だとゴータマ・ブッダはおっしゃっているのです。そして、「私」なんてもともとはなかったのに、渇愛が生じ、「私」から離れなくなるのです。「空」の実相はスピノザの第三種の認識『直観知』によって知ることができると思っていますので、ここではスピノザの方法を適用したいと思います。
AさんがBさんから呪われたとします。AさんはBさんから呪われている事実を知らない間は、Aさんには「呪い」の作用は何も起きないでしょう。Bさんから呪われている事実、たとえば人づてに、を知った時にAさんは呪われることになるのです。
人間身体は絶えず外部の物体から刺激や影響を受けながら存在している。身体は外部の物体との衝突によって刺激され(変状し)、それに触発されて身体の活動能力が増大(減少)すると、精神においては思考能力の増大(減少)を表現する喜び(悲しみ)として生起する。つまり、感情とは身体が何らかの刺激を受けて生じる身体の変状の観念なのである(拙著『スピノザの精神分析』より)。
第一種の認識は外的世界との衝突に由来する認識です。それゆえに感情も認識の様式の一つなのです。スピノザは第一種の認識を「人間精神は我々の感覚的な表象や記号、そして意見(憶見)の二種類から構成されている」と明言しイマギナチオと名づけました。イマギナチオは虚偽の源泉で外的世界を正しく認識することはできません。外的物体の本性と刺激を受けた人の本性が同時に含まれているからです。例えば、挨拶をしたのに相手から返されなかったとき、「私は嫌われている」と思うかもしれないし、「なんだ、あの人は」と憤慨するかもしれないし、「あれ、いつもは返してくれるのにどうしたんだろう」と心配する人もいるでしょう。二人の関係性が加わるとよりことは複雑になり真実のところはいよいよ分からなくなります。
呪われると、それに刺激されて恐怖心が生じ、身体活動も低下し食欲もなくなると思います。人によっては弱い身体器官の不調が発生したりします。頭痛とか。スピノザによると、私たちは善と悪を「自己の感情に基いて判断しあるいは評価する」のです。たとえば、「貪欲者は金の集積を最も善いものと判断し、その欠乏を最も悪いものと判断する」し、「名誉欲者は何にもまして名誉を欲し、反対に何にもまして恥辱を恐れる」、「妬み屋にとっては他人の不幸ほど愉快なものはなく、また他人の幸福ほど不快なものはない」(『エチカ』第三部定理三九)となるのです。
そして呪われた人は臆病風に取りつかれ、「欲するものを欲せずあるいはその欲せざるものを欲するようにしむけられる」のです。ここに呪いの消し方のヒントが隠されています。臆病に対抗するのは勇気です。勇気とは「各人が単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する」(『エチカ』第三部定理五九備考)。呪われて死の恐怖に取りつかれたときに行うことは、「恐怖を脱するためには勇気について思惟しなくてはならぬ。すなわち人生において普通に起こるもろもろの危難を数え上げ、再三これを表象し、そして沈着と精神の強さとによってそれを最もよく回避し・征服しうる方法を考えなくてはならぬ」(『エチカ』第五部一〇備考)とスピノザは解き明かしました。
医師の言葉は一種の呪いに近い力を持っていますので身近な例から考えてみましょう。主治医から「血圧が高いから塩分を控えて」と言われると、患者さんはカップ・ラーメンを食べるのを止めようと考え、刺身は醤油をつけるの少なくして食べるようになります。楽しい食事が味気ないものになってしまいます。年賀状のやり取りをする友人に精神科医の和田秀樹先生がいます。彼の著書『80歳の壁』(幻冬舎新書)に呪いの消し方がありました。脳トレよりも自分が好きなものをする。食べたいものを食べる。肉を食べ、酒を飲む。薬は不調があるときだけ飲む・・・・。臆病風に吹かれて悲しみに打ちひしがれては健康もへったくれもありません。和田先生は、臆病心は喜びで吹き飛ばそう、と主張しているのです。呪いの消し方は勇気と喜び、という結論になりました。
Ⅴ.さいごに
長くお付き合いしていただいてありがとうございます。スピノザを勉強していると、幼い頃から親しんだゴータマ・ブッダの考えによく似ているなーとしばしば思い、杉本先生から「縁起」の話がありましたので、縁起のなりたちについて論じ、イップスの克服と呪いの消し方についてゴータマ・ブッダとスピノザの考えをご紹介しました。
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