第4回 清和天皇と貞観三陸地震 〜フォークロアから読み解く日本人の災害感〜
川瀬流水です。貞観三陸地震は、貞観11年5月26日(西暦869年7月9日)、陸奥国東方沖(三陸沖)を震源域として起こった大地震で、マグニチュード8.3以上ともいわれています。津波を伴い、広範囲に甚大な被害をもたらしました。
平安時代の歴史書『日本三代実録』によると、朝廷の対応は、9月7日になってようやく陸奥国地震使を任命するなど、決して早いものではありませでしたが、10月13日に清和天皇の詔(みことのり)が発せられ、民夷を問わない救護、死者の埋葬、被災者の租税・労役免除、生活困難者の支援などが命じられました。詔の最後に「朕親ら観るが若くならしめよ」(命じたことは、私がその場に居ると思って、手を抜くことなくやれ)《原文は漢文、訓読文で示す》と記されています。
詔のなかで「百姓何の辜ありてか、斯の禍毒に羅ふ。憮然として媿ぢ懼れ、責深く予に在り」《訓読文で示す》というくだりがあります。民に何の罪があってこのような災いに遭遇するというのか、自らの行いに失望し恥じるとともに、災いの責任は深く私自身にある。
巨大地震発生の責任は私自身にあるとする意識は、まさに災異思想そのものであり、これを詔に記させた20歳の青年天皇の強い気概を感じます。清和天皇は、貞観三陸地震から7年後、27歳の若さで突如退位されました。次回は、その後の足跡についてみてみることにします。
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