自分の気持ちをないがしろにしない
「自分のことがダメだと思う」
息子が自分にダメ出しをしていた。
「僕なんて嫌われて当たり前だと思ってしまう」
「前ほど自分のことが好きじゃないかもしれない」
と言う。
ずっと「僕は僕のことが好きだなー」と言いながら大きくなったのに。なんなら今年の始めくらいまでそうだったのに。
えー息子くんはそんな嫌われるようなタイプじゃないよ。意地悪する子はいたけど、かわいがってくれる人の方が多い愛されキャラじゃないの。
不思議に思って聞いても、要領を得ない。
本人も「根拠がないってわかっている」と言う。ただ何となくそう思ってしまうのだそうだ。
そうか。そう思ってしまうんだね。
気持ちがわからなくはないけど、聞きながら、私も自分を卑下してしまうのはやめたいと思った。
私だって自分をダメだと思うし、ダメ出しばかりしてしまうし、好かれて当然なんて全然思えない。
でも傍からこんな風に見えてしまうのだ。自分が息子を大好きだよという思いまで否定される気がしてとても悲しい。息子を見ていてそう思った。
そんなやり取りを発端に、なんとなく思いをめぐらせていると、自分の中に時々わいてしまう恨みだとか憎しみだとかと向き合うことになった。
その日は、過去に起きたその人に対するイヤな気持ちと、いいかげんに決別したいと苦しんでいた。
あんなこと言われた。こんなこと言われた。「やっぱりひどいよね」「あんな言い方、おかしいよ」って誰かに言いたいのに、一度聞いてもらった友達に、何度もあの人のあの言葉について話すなんてしつこいよな。いつまで被害者面しているの。自分でそう思う。だからもう忘れたい。なのにどうしても思い出してしまう。
何度も思い出すのは執着心があるってことだよな。
嫌いになったのだから忘れたいと思えば思うほど、執着心は強くなってしまう。だって「忘れたい」と思う度に思い出しているわけで。
どうしたら良いのだろう。
実は今まで何度も調べてみていた。その度に、その気持ちをどうにかしたくて。
自分が幸せな気持ちを満たしていけば忘れられると言う。目の前のことに集中すれば良いと書いてある。楽しいことをして心をまぎらわしていけば気にならなくなるって。「思い出す必要があるから思い出してしまうんだ」とかね。
そうしよう、そんな風に思おうと努力してきた。
だけど思い出した時に苦しいから、問題なのだ。
ふとした拍子に思い出してしまう。その人のことを何分かの間だけでも憎んでしまう。何時間かはそんな思いにとらわれて「忘れたい忘れたい」と唱え、願う。その度に自分がイヤになる。しんどいんだよ。心の中で酸素が足りなくなってきた気がして、深呼吸する。
今回もいろいろな言葉で検索し、たくさんのページを見たからもう何が何だか誰が書いたのかよく覚えていない。
だけど印象に残り、参考にしたい考え方があった。
つらかったことや今は嫌いとさえ思えるその人を思い出しては、心が執着してしまう時。
それは過去の自分が、ひどく傷ついたり腹が立ったり悲しんだりしていたからではないだろうか。
なのに、できるだけ何事もないように振舞ってしまってはいなかっただろうか。できるだけ流そうとしてしまったのではないだろうか。
私の場合は、「こんなこと、人は乗り切れるはずだ」「そんなこと、人に訴えたって大ごとなんかじゃあない」「あんなこと、いつまでも誰かに話すとしたらしつこい」「こんなささいなことで傷ついたと思うのは、被害者意識が強いんだろう」「そんなこと声高に訴えることじゃあない」「あんなこと、みんなだってそれくらい乗り越えてきたんだ」と、多くの言い訳を考えて、やり過ごしてきた。
きっと他の人ならそんなに気にしない小さな出来事なんだ。
図太い自分でいたいから、繊細な自分がいやだから、相手にも「平気だよ」って顔をしてきた。何でもない風に、今まで通りの自分をよそおって対応してきた。むしろこっちが「大げさに反応しちゃってごめんね」「ちょっと怒っちゃってごめんね」「理解がなくてごめんね」なんて謝ってしまっていた。もう気にしていないよ、ささいなことなのだから。アナタの気持ちを考えるとそりゃそう言いたくもなっちゃうよね。
そうやって全力で相手の立場に立って想像をめぐらせていた。自分の気持ちをないがしろにして。
本当はひどく傷ついたり腹が立ったり悲しんだりしたのに。
なのにそれを小さな出来事にしようと努力してしまうから、過去の私が憎しみや恨みと化して「どれほど傷ついたのか思い出してよ」と何度も訴えているのではないか。と誰かが書いていた。
何度も思い出してしまう。何回もこの話してごめんね。自分がいやになる。執着心から解放されたい。
そう訴えると、友人が「でもそれは、かわせみさんが何度も言いたくなるほど傷ついたってことだから、何度も話したら良いんだと思う」と言ってくれたことがあった。
あの時の友人の言葉も、「やさしいんだな」と感激はすれど、大切に受け止めていなかった。
忘れたいと思うような言葉が忘れられないのは、その言葉をかけられた自分の気持ちを無視してきたからなのだ。
その時。私は、傷ついた。
あの時。悲しくて腹が立った。
それが他の人にとってささいなことであったとしても。そんなことでいつまでもうじうじしていると人に思われるとしても。
自分だけの個性が、その状況で、そのタイミングでかけられた言葉なのだから、他の人にとってどれほどのものかなんて、わかりようがない。他の人と比べてささいなことだろうなんて思わなくて良い。自分が傷つけられた時に、その言葉を投げかけてきた相手の気持ちを想像し過ぎなくて良い。
心に起きたことを無視された自分が、いつまでも執着心で苦しんでいるとしたら、いいかげん気づかなくちゃ。
誰が自分の気持ちを無視してきたのかって、他でもない自分が無視してきたんだよって。
自分を大切にするって、自分がどう感じているか、その時の自分の心に注目してあげることなのだ。
そう感じているからって、何か行動に起こさなくて良い。ことさら主張しなくたって良い。単にそんな自分の気持ちを実感する。悲しみも、怒りも、憎しみも、イヤな自分だってぜんぶ自分の感情なのだ。それらを認めて受け止める。
そうするだけで、「つらかったよ」と未来の自分に、しつこくいつまでも発信せずに済みそうだ。
他の人にはささいなことかもしれなくても、自分にとっての感情をわかってあげよう。
傷ついたんだな。悲しかったんだな。腹が立ったんだな。そう思うだけで自分の心はいやされ落ち着いてくる。そしてその時の自分の心をいやしたら、苦しんでいた執着心から離れられていけそう。
息子と話し合ったけど、息子にとっても時間がかかるのだろう。
ただ私は、自分のとっさに湧いた思いを自分でもっと受け止めて、そんな自分を嫌いにならないでおこうと思った。
もっと自分を大切にしたい。
そしてそんな思いが息子に伝わるように、これからも話していけたら良い。
息子がまた自分を好きになる日が戻ってくると良いなあ。