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noteでもリアルでも、人付き合いは違うし似ている

 外で巨大ナベでもたたいているのかと思ったよ。
 ガンガンガンガン!!! て。
 初めて聴いた雷の音。
 巨大ナベをたたく音も聴いたことないけどさ。
 巨大ナベってなに。

 最近、急な大雨が激しくて、そんな音と大雨の、ゴーみたいな音が聞こえていると心細くなる。私も怖いしみんな大丈夫なのかなとか心配してしまう。こんな天気の日には、みんなもこんな風に何となくそーっと外や天井見上げているのかな。もう少し穏やかに、せめてザーザーと降るくらいだと、こんな日もあるさと思えるのにな。

 あの地域の友達は。この地域の人は。ってnote始めてからそこに住む人を思う機会は増えて、それは世界の国まで広がる。

 前から私は、たくさんの人を次々フォローできないと書いているけど、それでもnote読み合う楽しみは、それまで暮らしてきた世界から思えば得がたい貴重なもの。何しろnote始める5年前より、人間関係は変化したし、もちろんnoteでもたくさんの人を知れた。人との付き合い方を見直したり、それでも変わらない部分、いつの間にか変化した部分があって。
 特にnote始めて3年くらいは、私にとって今以上に学びだらけ。
 簡単に濃密になり得るから難しいものだと知った。日常生活を送る上での人間関係を改めて考えてみると、私はドライなのかもしれないなあ。そうではないと思いこんでいたけど。

 ネットでは、遠く離れた人たちだけでなく、普段自分が接する機会がないような人と知り合える。
 例えば最初から「合わないだろうなー」と先入観で近づかないタイプの人。
 声をかけても気持ちがよくわからないからと、そのまま距離をとってしまう人。
 それまでの私では知らない世界をたくさん見せてもらえるし、それまでの人付き合いとはやっぱり少しちがった。

 ただ全然ちがうってわけでもなさそう。

 最近、「合わなかったねサヨナラ!」が前ほどできなくなってきた。
 日々ちがった面が見えて、その人の葛藤が見える。ある日の投稿で「そこはちがうなー」と思っても別の日には「へぇそうなんだ」とちがった部分で面白いなと感じる。さらに別の日には「わかるー!」と思ったりもする。そこからさらに親密な交流がある人も。
 互いにもう少し踏みこむと、相性が今ひとつだったのか離れられる場合もあるし、距離感はかろうとしているうちに疎遠になる場合もある。
 でも一度そこまで来ると、相手の気持ちが離れているとわかってからも私はなかなかサヨナラできず、一通り葛藤してしまう。執着すると迷惑だよなあと、いつしか頑張って割り切るけど。

 きっと人それぞれ思いがあるだろうし、私もしんどくなったらその場を離れるので、離れられてもその気持ちがわからなくはない。そうなるとそっとするしか仕方がない。もっとわかり合いたい、と踏ん張れない。土台がしっかりあるわけでもないので、やっぱり簡単にぐらついてしまうものなのかもなあ。

 何歳になっても、どんなにドライな関係を望んでいても「友達って」と考える瞬間はやってくるみたいだ。
 いつかじっくり書きたいのだけど、壮大になりそうでなかなか手をつけられない。

 40年来の友人と、今年に入って、やっとやっとお互いの考えとか気持ちとか交わせた。と実感できたやり取りが、2か月間くらい続いた。
 noteでの関係も、自分が思っている距離感と相手が思っている距離感て違うと気づくと申し訳なくなったり。
 なんだろう。

 グルグル考えてみたけど、私は気に入った人たちと温かい信頼関係を築きたいのだろうな。がっつりアツいものじゃなくて良くて。
 むしろユルくて、ベッタリした関係じゃない方がラク。ほっそ~くつながっていたって、単純にお互いを信じられる間柄であれば良いなと思う。そう簡単になものでもないから、互いのペースを尊重しながらよね。誰かに離れられるのであれば、追い過ぎるのもまた相手を尊重していないわけで。また機会や縁あれば近づいたりもするよ。

 人ってそんなに単純明快でもないし。それまでの背景や環境もあってその人ができている。その人らしさはどこから来ているのか。そして今の環境がどれほどその人に影響を及ぼしているか。どんなところがその人らしさなのかな。周りの人との関係性。どんな言葉をしゃべって、どんな言葉を書く? どんな気分の時に、その人はどんな風になるか。
 知り始めると、その人だけの個性が徐々に見えてくる。

 ゆっくりで良い。簡単に近づける気がしても。ゆっくりの方が良い。
 誰でも正解を求めたがるし、合理性とか実用性とかを重んじて、ゴールになるべくはやく行きたがる。何かをなそうとするのに理由付けも必要で、意味を知りたがる。

 ある面、この部分においては、自分もそうだし、別の面で人がそうであっても受けいれたりもする。

 それでも誰かを知るのに時間かかって良い。
 急がないとそんなにダメかなあと悠長に思う。どうにか何かに間に合うより、大切にしたいものがあって、それをないがしろにはできないんだよな。
 それは相手や自分の揺れる心だったり、何かを「感じている」気持ちやその中身だったり。正解を求めるのにそんな短い距離で自分だけの力で行けるものだろうか。
 友達を好きになったり、不信感持ったり、嫌いになったり、いや待てよあんな良いところあると思ったりするもの。どんなに焦って急いでも、ゴールになんかたどり着かない。いつまでも途中でも良いんじゃないかって思う。もう良い! ってことももちろんあるけど。友人関係であってもスッキリしないと前に進めない感じがあったりするし。

 心理学やカウンセラーの勉強している時に、ネガティブな感情を受け入れてやっと次の段階に行けるのだと知った。
 中でも「この考え方良いな」と思ったのは、嫌な人なのに思い出しては苦々しく振り返ってしまう時間について書かれていた内容。
 どうしても嫌な人とのイヤなやり取りを思い出す時に、人はよく「嫌いな人のこと考えている暇があったら、好きな人のことを考える」「そんなの時間の無駄」と言う。一般的な考え方としてのそれはもちろん有効で、さっさと切り換えられたらそれが良いと強く思う!
 でもどうしても思い出してはムカムカしてしまう日もあるでしょ。そんな時間を「無駄無駄!」と切り捨てられない時。
 それについて考えてしまう時間は、自分の心を守るために必要だから思い出しているのだそうだ。今は忘れられるタイミングじゃないって。
 その人への思いや、自分への嫌悪ではなく、「今の私に必要な時間みたい」と思うと、意外とあっさり飲み込めちゃったりする。
 親子問題は別として、継続して執着しているとそれはそれで問題だけどね。さすがにちがうことに打ちこんだ方が良いかもしれない。

 好きになったり嫌いになったり。好かれたり嫌われたり。いろんな人のいろんな思いが交錯するものだよね。
 そして今の私がモヤモヤする時、過去たくさん人をそんな気持ちにさせてきたのだろうと自分も省みる。

 部屋で一人。むむーんと、うなっちゃう。
 そんな雨の日なのだー。


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。

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