たくさんの気持ちがからまったものを、ほどくような面白さ~書く時の気持ち~
毎日当たり前に、頭の中では様々な感情が行き交って、通り過ぎているようで、とどまり。その思いの多さは整理しきれているようで、しきれていない。それは無意識みたいなもので、ただ何となく自分の感情の動きや心の中の騒がしさに疲れていた。
そんな心の騒々しさを落ち着かせてくれているのが、ジャーナリング。
この作業にずいぶん助けられている。
心が常にうるさかったのが落ち着いてくるのを実感している。なのでなるべく毎日書く。絶対となると私にとっては負担なので、なるべく。
無理に続けなくても良いからストレスにはなっていない。むしろストレス解消。
感情のままに書くけれど、心にある感情を文字として書くには、ほんの少しの抵抗がある。抵抗と言ってもそんなに強いものではなく、つるつるの机を撫でていたら、指が机の傷を認識するていどの。「あっ」と少しひっかかってそこを撫で直すような。
書く瞬間に、そして書きながらその感情をしっかり認識する。
書くと、頭の中でその言葉を反すうするわけだし。じっくりとじゃなくたって、書いている間は書きながらその文字をゆっくり味わうような感覚がある。だから手書きが良い。
書いていて感じるのは、自分がちっちゃなことで、怒ったり悲しんだりしているんだなあって。でもそれがひっかかっているから、心にとどまっている。他の感情や出来事も積み重なって、ぐちゃぐちゃにからまっている中の一つとして、在り続けている。
それをなかったことにしない。そんな心がけについても、ちょっと前に書いた。過去の自分が「嫌な気持ちがしたんだよ」と訴えてくる気持ちを無視せず、自分の相手をしてあげる。自分のためにその感情をちゃんと認識する。
細かにネガティブな感情を書くことは、実感したくない気持ちをわざわざ掘り起こすことにならないかと案じていたけど、そうではなかった。
書きながら新たな自分の感情を発見することもあり、引き出さなくても良いものまで引き出し、自分がどうして怒っているのかもっと深い部分に気付く。
それによって気持ちがあふれだし、昇華されるような感覚。
その作業のために、いつまでも引きずらないでいられるのか、数日後にはすっかり忘れている。
読み返して「イヤだったなそう言えば」と思う。もしかしたら誰がどう見ても些細なことばかりなのかもしれない。
それでも自分にとって「些細なことなのに、どうして苦しいんだろう」と長く引きずるよりずっと良い。同じような場面に遭遇した時も、何故自分がモヤモヤするのかわかっているからか、すぐに感情を言語化して落ち着かせられる。そうは言ってもモヤモヤはしてしまうのだけどね。そうしたらまた書く。
HSP(highly sensitive person)は特にあらゆる感情を察知してしまう。他人に対しても自分に対しても。それはまちがいの時もあるし、まちがいと気づかずに勝手に思い悩んでしまう。
喜びは、無邪気過ぎる自分がいやになる。
哀しみは、深く沈みきってなかなか哀しみつくせない自分に疲れる。
楽しみは、それによって失敗してしまう自分に落ちこむ。
人への共感も深すぎて、何かしら作品への思い入れも強すぎて、なかなかそこから脱することができない。
全部の感情に振り回されて疲弊し、その度に苦しむ自分に、「こんなに反射的に人の表情や言葉の表情にまで気づかなければ良いのに」と思うことはある。
ただその中に怒りの感情が含まれていることにあまり頓着していなかった。
以前もそんな記事を書いたんだけどね。
HSPだと自分でわかっている人の、話を聞いたり読んだりしながらそう思ったのであって。自分もそうだとは何となくしかわかっていなかった。
ジャーナリングを書きながら、毎日私は怒っているんだなと気づいた。
ささいなことであっても、私は怒っているのだなあ。悲しみと共に怒りがわいたり、簡単に傷ついたりしているみたいだ。そんな激しいものなんかじゃなくても、きっと誰もがそんな気持ちがあって。それを積もらせてくると強いストレスになるんじゃないかと想像する。それは心のメカニズムなのよね。
更年期による夢見の悪い日々も、ジャーナリングのおかげで少しだけ落ち着く気がする。
ちょっと前に友人とのやり取りで強いストレスを抱えて疲れてしまった時も、書いて少し落ち着いた。
思考を放棄しない。誰かに考え方をゆだねてしまわないってとてもとても大事。
だからnoteも私の居場所だし、ジャーナリングも続けたい。
心の中のからまったものがほどけた時に、自分の中から発せられる素直な気持ちに気付くのが面白い。