いつだって、5年前の自分とは違うものなのかもしれない
87歳おばあちゃんがTwitterを楽しんでいるらしい話を聞いて、良いもんだなあとしみじみした。
溝井喜久子さんと言って、70代でツイートし始めたそうだ。
元々理系に強い方らしく、学校の先生もしていたそうだけど、それにしてもだ。
何かを始めるのに遅いことなんてない。なあーんてそういう言葉はちょっと違う気がする。別に彼女は「よーし挑戦だー!」って意気込んで始めたわけじゃないんじゃないかな。って思うくらいに、自分の好奇心にまかせてめっちゃ自分のペースで楽しんでいる。一日の中で、トータルだと4~5時間はTwitterと向き合ってしまうと話していた。
毎日元気に暮らしているよ、と遠くに住む息子に知らせるために毎食の写真を「アップ(そんな風に言葉を使いこなすおばあちゃん)」するために始めたのが、今や多くの人がほっこりしたくてフォローしているみたいだ。
料理は凝ったものもあったけど「写真に載せる時は、彩りが大切だからね」と茶目っ気を出して、買ってきたカット野菜を添えるのだ。
私が気に入ったのは彼女の一言。
「こんな歳になっても、5年前の自分は若いなあって感じる」のだそうだ。自分のつぶやきを眺めていてそう感じるらしい。
これもまた「成長している!」とかじゃなくて。
彼女の前では安易な前向きの言葉が上滑りしそうだもの。
人は変化するし、迷い揺れながら「もう達観できた」なんて思考にはなかなか至らないものだろう。
こんな歳で「成長している」って年下の人に言われたってあんまりうれしかないわ。って私なら思う。だって「成長」て。
そういうんじゃないんだよな。
積み重ねてきたものの意味がわかってきたり。わからないなあって思っていたことがわかったり。揺れていた気持ちが、ある場所に落ち着いたり。でもまた揺れ出したり。惑わされたり。わからなくなったり。
人生ってそういうものですよね、先輩! って教えを請いたくなるけど、自分で考えている人ほどきっと「自分で考えて自分で導いた答えが今のところのアナタの人生」って、肯定も否定もせず教えることもしないのだろう。
私、更年期症状で辛くて、五十肩もまだ辛いけど、「こういうのを私は知るべき人間だったんだろうなあ」「知って良かったなあ」と思っている。
noteを始めた頃って4年半ほど前。
あの頃はまだ年齢差による関わりをそれほど深く考えておらず、15歳ほど離れて年下なら「自分の子供みたいなものだなあ」くらいに思っていた。加齢によって起きる体の現象を興味深く感じ、「歳を重ねるって自由になるってことだ」をひたすら実感していた頃。両親との関係も自分の中で完全に乗り越えられていなかったし、高齢の人たちへの思いはいたらなさ過ぎた。当時は私自身の子供との接し方に関してはだいぶ落ち着いていたし、自分なりにこれで良かったと思っていたし、親離れ子離れも楽しみにしていたほど。
今は。
全部違うかも。別に「逆」という意味じゃあなくて。ちょっとずつここはそうだけど違う部分がある。全力で肯定できるわけじゃない。みたいに。
それこそ4~5歳違うと、もうだいぶ違うんだなあと思うようになった。年齢重ねたら、段々そういう差は減っていくんだと思っていたけどそうでもない。男女関係なく。置かれている立場や周りも関係なく。何だろうねこの年齢によるものって。世代とかその時の社会とかもそりゃあるだろうし、個人差だってあるはずなのに。ある部分では誰もが経験し巡る心の旅。不思議。
皆さんの文章を読みながらも、そう思う。ただありがたいことに共通の話題があれば、何十歳離れていようが楽しく会話ができる。
年上の方には私は幼なく見えていたり、まだまだ経験すべきものがあったりするのだろうし、年下の方とのやり取りは忘れていたものを思い出す。それこそ今の時代に合った物の考え方が新しく感じて、大事に育ててねと思う。その人の個性に合った答えに近づけると良いねと思う。
私はそれなりに50歳目線で物を見ているんだろう。
若い人たちに追いついていないこともたくさんあるし、全部をフォローするエネルギーは沸いてこない。やる気がないとかそれ以前に疲れているのを回復する方が先だ。努力はある程度したいけど、そのエネルギーは身体的なものも含まれていて、「更年期だから」は言い訳じゃなく、どうにも仕方のないものだ。
身体のことは、周りと関わりさえあれば目に見えて個人差もある。軽い人はどんな環境や立場にいたって軽いし、重い人も同じく。それでも何とか日々こなしている人たちもいる。互いの立場を、取り立てて「違う」と言うのではなくて、そう思っていたとしても助け合いいたわり合うのがもう当たり前になってきている。
子供に対しては自分の至らなさも多く思い出されて頭を抱えたくなる。あんなに正義感あふれて全力で臨んできたはずなのに。
子供にも意外なところを指摘される。「僕はこうしてほしかった」「僕はこんな風に思っていた」「親と一緒にいるのはうっとうしい」たくさん思い知らされ、親離れされる側の気持ちを初めて知る。寂しいとか心配とかだけじゃない、反省とか自己嫌悪とか自責の念とか。自分てこんなもんかと思い知らされる。自分に厳しくしてきたつもりだったから、もう他人からも自分でも、自分に厳しい言葉は応じきれない。
少し休ませて。
以前も書いたけど、私はもうどうしようもなくおばさんでお母さんなのだな。
それを受け入れると、自分の親への、感謝の気持ちも心の底からぐあぁっと湧いてくる。
私が冷たかったり、キツイ言葉を投げかけたりしたことも、親は全然平気だ。「かせみはまだまだ若い」「もう中年だけど可愛い」と、ニコニコしている。
周りの人々を愛おしく感じるようにもなる。相性の悪いところがあっても、ちょっと前までみたいに、シャッターをガシャンと下ろすことがすごく減ってきた。
5年後。
どんな風に思っているでしょうね。
私の中では、更年期を過ぎてまたもうほんの少しエネルギッシュになる時期がやってきているのかな。少なくとも今より動けるんじゃないかな。一昨年の私より昨年の方が起き上がれたし、昨年の私より今年の私の方が少し動ける。
身体の声には今、身につけているようにだいぶ耳を傾けて、もっと早めに休むようになっていると思うけれど。
「なに当たり前のこと書いているのかしら」と思っているのだろうか。
それとも「なに落ち着いたフリしてるの。まだまだ揺れるのに」なんて思っているのかな。
「今ごろ気づいたんだ。わざわざそれを発表しちゃって恥ずかしい」とかは思ってそうだな。
でもこういうの書くのって、ぜーんぶ含めて楽しみなんだよなあ。