怖い話 ——遠野遥『改良』について
一般に、子供は大人よりはるかに強い視力を持っている。電子機器の発展が進み全体として近視の傾向にある現代日本であっても事情は同じで、見えないことに鈍感になってしまった大人をよそに子供たちはものをよく見ている。だからこそ、私たちには何でもない昏がりの死角が、ふだん見え過ぎるほど見える目を持った子供たちには怖ろしいのである。得体の知れない黒い影が闇の中を横ぎりはしないかと不安になるからだ。そしてこの作品を読めるかどうかは、子供を保ったまま成人し、「黒い影」を視認してしまうほどの視力を持つ池田つくねの目に自分自身を晒せるかという一点にかかっている。作中で唯一本名が明記されていることからも察せられるが、今作で最も重要なのは「ブス」を自認するこの一人の女性なのである。
「上の前歯がいくらなんでも前に出すぎている」、「目は小さい」、「鼻は下向きの矢印のようなかたちをしていて気持ち悪い」、「輪郭もなんだかいびつ」と、語り手がつくねの容貌に向ける批評は散々だ。つくね自身が「ブス」を自認しているとはいえ、容赦がない。彼女にメイクを努力する意思のないことが語り手を辛辣にさせているのかもしれない。というのも、彼は自分に似合うものを求めて数種類のウィッグを試し、理想通りのスカートを通販で買い求め、失敗をくり返しながらも思い通りに顔を修整するメイクの技術を身につけていた。美に関する限り彼の探究には底がない。女であるにも限らずうつくしくなることを放棄したつくねが、そういう彼には怠惰に見えていても不思議はないだろう。
ところで、こう書いて彼が身体的には男性であること、精神的にも自分を女性だと認識しているわけではないことをわざわざことわっておかなければいけないと感じる私は、それだけ異性愛規範をはじめとした社会的イメージに囚われている。女性のようにうつくしくふるまいたいと願う彼を標準から外れた存在、特異な者、自分とは違う人だと当たり前のように判断するからこそ説明が必要になると思うのだが、そう判断したときに、では自分と彼とでは具体的に何がどう違うのか、自分自身の性的(あるいは美的)感覚と彼のそれとはどう異なるのか、そういう相手との対比において己れを照射する労を怠るなら、どうふるまったところで彼を形容する言葉は暴力にしかならない。社会的イメージに彼を投げ込んで済ませ、自分は楽をするだけになってしまうのだ。そのことに無自覚なまま浅はかな理解を示して、簡単に彼の在り方を飲み込んでしまいたくない。作中、地の文において語り手である彼はくり返し強い憤りを表明するが、その怒りの対象こそ、自省から逃げて社会的イメージにおいて「理解」を示す私たちの当たり前の判断なのだ。
一方でこういう無自覚な判断は得てして生理的な感覚と結びついており、たとえ自覚できたとしても無効にすることは難しい。たとえば私たちがバヤシコに向ける目がそうだ。被害者である語り手の視点で見るからバヤシコのふるまいは醜く浅はかに映るが、彼が憤っているのはバヤシコからフェラチオを強要され性的に暴行されたからではなく、自省を避けるために社会的イメージを強要してきたそのことに対してなのである。ここからもう一歩すすんで考えると、もし私たちが背景を想像しようとすることもなくバヤシコを「レイプ犯」として非難するなら、私たちもまた社会的イメージを押しつけていることになり、語り手の怒りを免れない。求められているのは過剰な性への関心に突き動かされるバヤシコを理解することだが、その理解は難しく、生理的な抵抗すら覚える。異物が入ろうとすることに咽喉がつかえるのだ。この難しさは類比的に語り手である彼を理解する難しさでもあるだろう。
単行本の帯には「物議を醸すニヒリズムの極北」という宣伝文がある。こういう文はプロモーションのために大袈裟になり過ぎるきらいがあるものだが、それでも地の文の語りに対して私たちもそう遠くない印象を抱かせられるのは事実だ。彼は自分自身を生きられていないように見える。アルベール・カミュの『異邦人』を思わせる、徹底して自分を突き放した視点がそのような印象をもたらしているのだろう。そういう彼が己れをうつくしく改良していく姿は、何か深い混乱から必死に目を逸らそうとしているようにも映る。どうやら彼は深い苦しみを抱えているようだ。そこまではわかる。そこまではわかるのだが、しかし私の視力ではそれ以上に彼を見透すことができない。彼の混乱や苦しみが何によってもたらされているのかがわからないのだ。上述の通り、彼を理解するのは難しい。ある断定を下した途端に彼の怒りの対象に堕してしまう可能性がついて回るからだ。彼に対しては、口で何かを断定するのではなく、ただ見抜く必要がある。中学からの同級生で、今は同じアルバイトをしている池田つくねは作中でまさにそのように彼と接した。そんな彼女の目に彼の姿がどう映ったのか、それをとっかかりにしてみよう。
つくねと語り手は、ある飲食店チェーンのコールセンターでアルバイトをしている。客からの苦情や問い合わせに電話で対応する仕事だ。あるとき、つくねが対応した男がくり返し電話をかけてくるようになり、住んでいる場所や彼氏の有無など、個人的な質問を投げかけてきた。男の行動はエスカレートし、職場を調べた上に仕事が終わる頃を見計らってつくねの顔を見に行くと言い出す。警察を信用できず、上司の助けも得られなかったつくねは仕事明けに語り手をファミレスに誘った。つくねは男の影に怯え、誰かを必要としていた。短いスカートを穿いた彼女が一人暮らしをしていることに思い至った彼は、「今日、おまえんちに行ってもいいか」と切りだす。明確に下心を潜ませた提案だ。
この場面でまず注意したいのは、語り手がつくねと視線を交わすことを避ける点だ。思い返してみれば作中で最初につくねが登場した場面でも、彼女と目が合った途端に彼は下を向いていた(単行本29頁)。それについて彼は「美しくないものを見ていても仕方ないから」と理由めいたものを口走るが、真相は別にあるだろう。確かにつくねの顔はうつくしくない。しかしだからと言って、ファミレスで向かい合った女性に対してこれから部屋に行く口実を捲し立てる段で、顔を直視することに抵抗を感じるのは不自然ではないだろうか。しかも、彼はわざわざつくねの視線を避けて注文したハンバーグに語りかけるようにして喋るのである(単行本53頁)。
もう一点気になるのは、部屋へ行く口実を話す彼の科白に「めちゃめちゃ」というワードが出てくる点だ。科白の中の文脈では、ボディ・ガードを買って出る代わりにつくねが大量に所有している漫画を見せてもらうということを言う際に、中学の頃を懐古しつつ「お前、めちゃめちゃ漫画持ってたもんなあ」と言うのだが(単行本54頁)、この「めちゃめちゃ」というのは冒頭のエピソードにおいて、暴行の直前にバヤシコが口にした科白にも出てくるのである(単行本11頁)。その場面でバヤシコは語り手のことを性同一性障害だとき決めつけた上で、「隠さなくても大丈夫だよ。オレ、変な目で見たりしないし。たぶんメチャメチャ理解とかあると思うし」とおよそ理解とはかけ離れた言葉を投げてくる。さらにこの科白に注意すると、次の点がわかる。語り手は地の文では自分のことを「私」というが科白の上では「おれ」を一人称にしており、「めちゃめちゃ」「おれ」という共通する言葉のみが、バヤシコの科白ではきれいに反転して「オレ」「メチャメチャ」と片仮名で表記されている。ここに作者の意図があるのかどうかはわからないが、注意深い読者には、あたかもバヤシコが語り手と表裏の関係にある分身であるかのように思えるはずだ。暴行の際にバヤシコが見せた姿とつくねを前にした語り手の姿が重なるのである。そのため、下心を持った語り手が部屋に行った後で明確に拒否されていたら、彼はかつてバヤシコにそうされたようにつくねを暴行していたのではないかという可能性を邪推してしまう。もちろん事はそのようには運ばなかった。しかし、それは語り手がバヤシコと比べて善良だったからではなく、つくねが語った「怖い話」のためである。
つくねの容貌を改めて観察した語り手は、「つくねは美しくないことによって、人生のあらゆる局面で、死ぬまでずっと損をし続けるのだと思った」という感慨を抱くのだが(単行本55頁)、つくねの「怖い話」を聞けば、語り手が改めて観察するまでもなく、彼女は「ブス」であることの意味をずっと前から自覚していたのがわかる。それも窓の外の通行人を眺めるような余裕ある態度でではなく、内面的危機が身体の外に暗さとなって滲み出るような、血眼の姿勢でそれと向き合った。そういう彼女と比較すると、語り手の感慨にはバヤシコが口にした「理解」に相当する軽薄さがあるように思える。この点からも、つくねの前では彼はバヤシコに通じる姿をとるのだと言えるだろう。しかも彼はそのことに無自覚だ。言ってみれば彼は、自分では見ることのできない死角にバヤシコという「暗い影」を宿しているのである。このことは、ファミレスを出た二人がつくねの部屋で過ごす場面でより顕著になる。
部屋に来た語り手は、下着と歯ブラシを買い忘れたとことわって最寄りのドラッグストアに向かう。実際にはどちらもすでに用意していたが、コンドームを買うためにつくねから離れる必要があった。つくねは出て行った彼を止めることもなく、所属するバンドのためにドラムの練習をして過ごしていた。戻ってきた彼と缶チューハイを開けながら雑談を交わし、やがてシャワーを浴びに行く。この後、浴室からスウェット姿で出てきたつくねに、あなたも浴びて来なよと何気ない調子で言われた語り手は痛いほど勃起するのだが、それは「ドラマか何かで、セックスをする前の男女がこのようなやりとりをしていたのを想起した」ためだった。これまでくり返してきたように、彼は相手が己れを省みずに社会的イメージを押しつけてくることに強い怒りを示してきた。「同性愛者」にせよ「マゾヒスト」にせよ、ありあわせのイメージに則って接され、そのロールプレイを強要されることに憤ってきたのである。ところが、この場面で彼がやっているのはまさしくそのような行為だ。彼はドラマの中の男女を規範にしてふるまおうとする。つくねの内情や心情は頭になく、そのことを考えてみようともしない。バヤシコがそうであったように、欲求を満たすことがすべてになってしまっている。
そんな彼に対して、つくねは山色の魅力のないスウェットを着、巨大な青虫のように滑稽な寝袋を彼にあてがい、おそらくは意図的に性的な魅力から遠ざかるものを用意する。今の自分自身を省みてほしいという言外のメッセージをくり返し発するのだ。しかし性器をコントロールできなくなっている彼にそのメッセージは届かない。つくねの口数が明かにに減っていることには気づくのだが、彼女が内心で何を考え、何を伝えようとしているのかまではわからずにいる。彼は半ば無意識と化した性器に対して、「この器官は、私のものなのに、時々私の言うことを聞かない」と吐露しつつ、あくまでその欲求に従おうとするのである。部屋の明かりが消え、つくねはこちらに背中を向けて横になる。彼は入り込んだ寝袋のファスナーに手をかけ、彼女に近づこうと動き出す。その瞬間、つくねが身体を半回転させて振り返り、これまで直視を避けつづけてきた目が彼を射抜いた。つくねは彼の死角にある「黒い影」を見透かしたのだ。金縛りにあって動けずにいる彼に、つくねは「怖い話していい?」と切りだす。
彼女のいう「怖い話」を聞いた読者には、この前置きがいささか奇妙に思えるかもしれない。「怖い話するって言ったけど、あんまりそういう感じじゃなかったね」と彼女自身もことわりを入れているほどだ。しかし、少なくとも彼にとってこれは間違いなく「怖い話」だった。事実、話を聞き終えた後ではコントロールを失うほどだった勃起がぴたりと治まり、どれだけ奮い立たせようとしても反応しなくなってしまう。彼はつくねのメッセージを意識の上では聞き逃してきたが、無意識と化した急所においてはそれを理解したのである。「怖い話」が彼の無意識にそれを気づかせたのだ。
つくねの「怖い話」とはおおよそ次のような内容になる。
小学校の五年生か六先生のとき、つくねは三階にある教室の窓から黒い影が真下に落下にしていくのを目撃する。思わず悲鳴を上げたためにクラスは一時騒然となるのだが、黒い影を見たのはつくねただ一人だった。授業中でもあったためその場では錯覚だったということで片づくのだが、休み時間になって、クラスメイトたちがつくねを取り囲み、何年か前に屋上から飛び降り自殺した生徒がいるという根拠のない噂を元に、つくねが見たのはその女の子だったのではないかと詰め寄ってくる。「それはもう質問っていうか、そういうことにしろっていう圧力があって」と回想する彼女は、半ば無理強いされる形で女の子が落ちるのを見たと言ってしまう。以来、彼女は「幽霊が見える子」として接せられるようになる。性格の暗さが災いして友達のいなかった彼女はずっと一人の時間を持て余していた。そのため、嘘であってもクラスの中で役割を得たことを喜んだのだったが、要求された役割は次第にエスカレートしていき、いつの間にか、幽霊が見えるだけでなく占いもできるという話になっていた。ラッキーアイテムや運気をあげる方法まで訊かれ、最初は当てずっぽうで答えていたつくねはそれが申し訳なくなり、図書館で本を借り、密かに勉強を始めるようになる。
そんなある日、つくねは休み時間に男子生徒が話しているのを聞いてしまう。名指しこそしないが明かに自分を指して「取り柄のないブスが構ってほしくて嘘ついているだけだろ」と言うのである。彼の言葉が正鵠を射ているのを痛感していたつくねにとってショックだったのは、その男子生徒の言を受けて、親しくしているはずの女子が「でもその気にさせておいたほうが面白いじゃん」と言ったことだった。クラスメイトはすべて嘘だとわかった上でつくねの振る舞いを面白がっていたのである。
幼かったつくねにとって当然この体験はショッキングなものだった。しかしその後の学校生活の記憶を曖昧にしてしまうほど真に彼女を傷つけたのはこの体験そのものではなく、この体験が彼女に突きつけたある事実であった。それは「ブス」であることがつくねの実存と不可分の条件だという事実だ。
ストーカーまがいの男に絡まれることになったコールセンターのバイトも、声だけの仕事ならブスであることを気にしないで済むから選んだ、つまりブスであることに強いられたのかもしれないのだと彼女はつづける。そうであれば、語り手と部屋に二人切りでいるこの状況も「ブス」が強いたものだ。しかし彼女はそのことに怒りや憤りを表明せず、「ブスとわたしは表裏一体だから、ブスであることを本当の自分と切り離して考えるのも変で」とつぶやいて考え込むのみである。「ブス」であることは彼女にとっての「暗い影」だが、語り手がそれから目を背けるのとは反対に、彼女は明晰な視力をもって「暗い影」を直視する。そして同じ姿勢を彼に強いる。彼にとってそれは金縛りにあうほどの恐ろしい話なのだ。
前述したように、語り手は死角にある自身の「暗い影」として、バヤシコの分身ともとれる暴力性を宿していた。便宜的にそれを「男」と言い換えるなら、人生を規定してしまうつくねにとっての「ブス」が語り手にとっては「男」なのである。彼はそういう「男」を自分から切り離すためにあらゆる手段を尽くす。つまり、彼が執拗に美を追い求めるのは「男」という「黒い影」から逃れるためなのである。よって、『改良』と題されたこの小説は、ジェンダーの問題を扱ったものでも美醜の問題を扱ったものでもなく、前提となる条件も環境もまったく異なる形で生まれた各々の人間が、社会的イメージに抗いながら、劣っている部分も優れている部分も含めて自分をどう受け止め、そして異なった他者とどう向き合うかを問うたものなのだ。そしてこの問いに向き合うためには、池田つくねのようなこちらの「暗い影」を照射する他者の怖ろしい目に己れの身を晒す勇気を持つしかない。
意識的には、語り手はつくねの目から逃げてしまう。しかし無意識としての急所がドラマの男女という社会的イメージを自分たちに押しつけることをやめさせ、最後の場面で傷ついた彼をつくねの元へと向かわせる。彼は耳ではなく急所によってつくねの真意を理解したのかもしれない。小説は暴行された語り手がつくねのアパートを目指す場面で終わっているが、もしこの先でつくねとの関係において彼が「暗い影」を自覚し、バヤシコへ向けた怒りを己れに向けることができるなら、自分自身に揮ったその暴力によって「暗い影」に宿った暴力性を解決する糸口が現れるかもしれない。もしそのような場面が描かれたとしたら、この作品は大きな飛躍を遂げるだろう。作者の次作に期待したい。
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