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源氏物語を読みたい80代母のために 42 (源氏物語アカデミー2023レポ⑧)

 さあ、早いもので最終日の朝。
 母と二人で朝食会場からの眺めを堪能しつつゆっくり過ごし、部屋でたっぷり休んでからの、最終講義は8:30から。
「『源氏物語』を愛読した戦国武将」宮永一美氏
 休日の結構な早い時間だというのに、席はみるみる埋まっていく。ええ、勿論早めに行って席とりました母と私。飲み物・甘気も準備怠りなく、慣れたものよ(ドヤ)。
 宮永先生は一乗谷朝倉氏遺跡博物館の主任学芸員。一乗谷朝倉氏遺跡といえば近年発掘&整備が進んで「ブラタモリ」にも取り上げられてたところ。私はというと……子供が小さい時に行ったきり。通路と塀くらいしかなかったような。何十年前だ!また行きたいぞ!
 以下、いつものメモ。※は私見。

〇「源氏物語」享受の環境
・応仁の乱(1467~1477)を契機に越前一国を勝ち得た朝倉氏、1471年には四代当主・朝倉孝景により一乗谷城が築かれた。 
・1478年、孝景が、和歌・蹴鞠両道の師として京の公家・飛鳥井雅康を招聘。飛鳥井家は全国の戦国大名に京の文化を教える仕事をしていた。
孝景あての「蹴鞠伝書」(使われている料紙が豪華:打雲、表紙見返し金紙雲文)が残っている。ちなみに家臣あての巻物もあるが此方はシンプルなもの。
・京が戦乱で荒れていたため、普段越前国に住み時々上洛というスタイルの公家も。
→1491年、常光院尭憲が印牧美次の懇望により「古今集」証本を書写し与える。
・本の貸し借り、写本用に紙(越前和紙)を添えての依頼も。

〇朝倉氏、「源氏物語」を求める
・背景には戦乱:
→京の人々が越前に一時避難や疎開
→統治者が入れ替わったことで公家・寺社の所領の管理が困難に。年貢徴収のため朝倉氏を頼ることとなった。京の文物は交渉の道具。
【実隆公記】三条西実隆(1455-1537)、「源氏注釈書」を朝倉貞景の正室へ。実隆は甘露寺親長の甥にあたり、正室の母は親長の養女。
→親戚同士の繋がりで書籍をやりとり
朝倉孝景の近臣・堤宗左、三条西実隆に源氏物語中の和歌を色紙に書くよう依頼。
→三条西家との年貢送進の窓口を務め京都へも上洛していた老臣。

〇紫式部の由緒地を誇る
・譜代の家臣・印牧かねまき氏は代々府中奉行人を務める家柄。紫式部が滞在したという府中(武生)の政務を執る武士としてその由緒を誇り、「源氏物語」を愛読。
<印牧美次>初代孝景に仕えた広次の長男で文武両道の武士。
「幻雲文集」より:寿像(存命中に作った肖像)に対し五山僧・月舟寿桂から授けられた賛詞「紫式部の跡を慕い観音門に入り、光源氏詞を読んで般若ちつをひらく」単なる古典愛好にとどまらない紫式部信仰と結びついた修養がみられる。※ガチオタk……いや相当心酔していらしたとみえる。親近感わきます。
・公家の富小路とみのこうじ資直すけなおの越前紀行(1535)からも「越前は紫式部の由緒地」という意識がうかがえる。越前滞在中は朝倉孝景の館で酒宴や犬追物を見物、和歌指導も行った。奈良の武士とも交流が深く手紙をやりとりしていた。
・朝倉館出土の和歌木簡
→「源氏物語」夕顔巻に出てくる和歌の一部。水中にあったため保存されていた。

〇どこもかしこも乱世だったため、前時代には求めても得られなかった親交や知縁が結ばれ、最高の知識・文化が越前にもたらされることに。文化は武力に匹敵する力と見なされ、実力行使の前に文化的な交渉を、と政治的な利用も目指していた。→文治による安定、自分たちの正統性の主張
〇一乗谷にいた武士たちの歌や文章は、「源氏物語」から引いているものが多い。京文化憧憬のアイコンであり象徴であった。
〇一乗谷には大量の典籍が集められていたが、全て焼失してしまった。朝倉氏滅亡後、一族係累の多くは加賀へ。
以上

 なんだかちょっと感動してしまった。公家の方は避難先の確保と年貢徴収のために・武家は人脈と権威ほしさに、双方ビジネスライクな事情から始まった交流が、文化文物を越前国に広げ「源氏物語」が世に残り継がれていく一助となったとは。胸熱じゃないですか!
 それにしても焼けてしまったのはもったいない……応仁の乱を逃れた希少な写本や書籍もあったんじゃなかろうか。まだまだ発掘していない場所はあるようだし、壺かなにかに入って地中深く埋まってたらいいのに。
 レポ③でご紹介した「源氏物語と美術の世界」の中の「近世の源氏物語絵」仲町啓子氏によると、織田信長の時代にも源氏物語絵は「公家物」として武士の間でもてはやされていたそうな。ただ「公的な儀式空間における絵画」としては機能しなかった。あくまで私的に楽しむもの、教養、特に女性のそれとして大奥の襖絵などのモチーフに使われていたと。
 源氏絵に何を求め、またどのような表現に「源氏物語」のリアリティを実感するかは時代によって違っていたはずで、必ずしも物語の完全再現が目的ではない。観る者が自由に・具体的/視覚的に思い描けるような描き方である、ということだそうです(「源氏絵としての神護寺『山水屏風』~宇治十帖物語の舞台となる住居のイメージをめぐって~」池田忍氏)。
「あさきゆめみし」作者・大和和紀さんがいみじくも仰っていたように
「(その時代を生きる人がかける)フィルター」
 無しのそのまんまでは中々受け入れられなかったということなんですね。江戸時代どころか、室町時代においてさえ。
 そりゃあ令和の時代に、いきなり平安朝の物語世界を説明抜きで原文のまま出されても、一般人にはお手上げですわ。
 難しくて・長すぎて・とても全部は読めない・わからない
 が普通で当たり前。
 それを考えると、娘のテキトー訳とはいえ全巻読み通したウチの80代母マジはんぱない凄い人!と何回目かわからない賞賛を雨あられと浴びせたくなるんだけど、そういう図式って実は珍しくなく、ずううううっと昔からあったんだろうな。
「ねえねえ、源氏物語って昔から有名だけどどんな話なの?読んでみたい」
 とウッカリ口走る誰か、
「よーしまず平安京と内裏の説明からいこっか☆」
 と源氏沼に引きずりこむべく張り切るオタク勢(家族か友人)、両方が流れる時のまにまに現れては消え現れては消えしつつ、繋いでいったんでしょう。うん、きっとそう。ソースは母と私!(笑)

 さて、これで第34回源氏物語アカデミー、講義はすべて終了しました。なんだか今回はあっという間だったような。気のせいかしら。
 閉校式はボス・朧谷先生のお話。
 初日は大雨でどうなるかと思ったがすっかり上がって今日は快晴、青空の下で蹴鞠も出来そうで本当に良かった。今年は50組近い初参加があって、中には親を説得してはるばる関東某県から単身乗り込んだ高校生も!
「それにしても女性が多いね今年は。女性パワーが炸裂してる。男はどうした?もっと頑張らないと」
 などなどいつもの軽妙な語り口で、参加者やスタッフへの感謝を述べられつつ、サラリと重要な情報をポイポイ無造作に盛り込まれる(これもいつもの)。
「武生の国府の発掘が進んでいるわけだけど、溝がね。長――ーい、どこまで続いてるかまだわかんない溝がある。それと緑釉りょくゆう陶器が出た。大国ならではの上等な器。これはもう……紫式部が住んだ館作っちゃいなさいよここに、って市長には言いました☆」
 おおおお!つくってつくって!
「それと来年、大河も始まることだしイベントをやります。1996年の千年祭(リンクは「図説 福井県史」)でやったのと同じ、宇治を出発して琵琶湖で船出、山を越えて越前下向を再現する。見学会もあります。十月の第三週あたりかな」
 なんですとー!
「ちなみにアカデミーの日程は10/25(金)~27(日)で、テーマは
「源氏物語と越前」。国府跡に仮屋を作って到着式やります」
 (内容うろ覚えなんで要確認です)
 こ、これは是非とも参加したい……!
 来年に向けいっそう健康第一で精進しなければ……!
 つか抽選になったらどうしよう。いやきっと抽選よね。くじ運も鍛えとかないと(どうやって)。
<つづく>

「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。