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源氏物語を読みたい80代母のために 52(源氏物語アカデミー2024レポ⑤)

 さあ最終日!
 講義は9時からなので、朝ごはんもゆっくり余裕のよっちゃん。荷物を片付け早めのチェックアウトをして会場へ(講義後だと混み合うとのこと)。荷物は終了まで預けることも可能だそうで、いやーホテル泊は実にラクチン(何回目)。
 ※ついてるとこは私見ということでヨロシクです。書き方が一定してなくてすみません。あくまでメモ・覚書ということで許してください。

「紫式部の地方観」 栗本賀世子氏

 此方も紫式部集がベースの講義。レジメ9ページ(←もう慣れました笑)。参考文献がしっかりドッサリ載ってて嬉しい。ちゃんと復習しろよ私!

一.紫式部の越前下向

 通った場所について、その時の実際の感覚で書いている
三尾の海に 綱引く民の手間もなく 立ち居につけて都恋しも
→目は漁師の姿を見、心は都を思う
磯がくれ おなじ心に田鶴ぞ鳴く 汝が思ひ出づる人や誰ぞも
→行きの歌か帰りの歌かは不明。大河では、琵琶湖で帰京時に鶴の鳴き声を聞いて「私の思う人は誰か」と都への思いを馳せる場面あり
〇基本的に貴族は都中心の考え方。京都以外は「畿外の国」であり、生きて帰れるかどうかもわからず・親族の死に目にあえない・気軽に行き来できない、という感覚
〇源氏物語には「越前行」そのものは取り上げられていない
かき曇り 夕立波の荒ければ 浮きたる舟ぞ静心なき
→舟に乗った時の頼りない心持ち
〇対岸が見えない大海での乗船は初体験だった!
〇帰京の旅では、実際に見た風景を詠んでいる(越前を否定的には書いていない)
名に高き 越の白山ゆき慣れて 伊吹の岳をなにとこそ見ね
→白山を誇りに思ってる地元民のような書き方!
〇下向時はともかく、都に戻るころには越前に親しみを感じていたのではないか?
※ありがとうございまーす!「越前なんて超田舎だしなーんもないし雪多いし寒いし、やっぱ都がサイコーね!」は京仕草というやつで、実のところ「伊吹山?フッ、白山と比べればザコだわね。私、琵琶湖で舟にも乗ったし?(フフン)揺れてメッチャ怖かったんだからア(ドヤ)」が本音だったりしませんかね。しないか(しょぼん)。

〇越前の松原客館には過去に渤海国の使節が滞在していた。紫式部の時代には渤海国は滅亡していたが、その歴史に思いを馳せたか(実際に宋人に会ったという記録はない)
→「源氏物語」中でも高麗の相人に光源氏の相を鑑定してもらうエピソードあり
※記録にないだけで、占いくらいやってもらった可能性は……女子って大体占い好きだし。ないか(妄想)

〇筑紫育ちの玉鬘が舟で都に向かう場面、浮舟が匂宮に連れられて宇治川の対岸に舟で渡る場面など、地方育ちの女君たちの描写への影響が考えられる
〇「末摘花」巻で常陸宮邸にて積もった雪を評して「越の白山思ひやらるる雪の中」とある
〇浮舟を母の中将が「(貴女がたとえ遠くの)武生の国府に移ろひたまふとも忍びては参り来なむを」と慰める(催馬楽「道の口」からの引用)
→京からの遠さを実感しているからこその表現
※浮舟一家がかつて住んでたのは常陸国(茨城辺り)なので「遠い」場所として出すならそっちだと思うんだけど、あえて「武生」のワードを選んだのは「私は行ったことあるから距離感わかるのよねフフン」という遠回しの自慢な気もしないではない(妄想)。

二.才女たちの下向体験

〇赤染衛門
夫・大江匡衡おおえのまさひらと仲が良く、二度の尾張下向に同行。
心だに とまらぬ仮りの宿されど 今はと思ふはあはれなりけり
→心も留まらない仮住まいだけれど、これで最後となると寂しい
あぢきなく 袂にかかる紅葉哉 錦を着ても行かじと思に
→(二度目の尾張行きで珍しくもなく、気も進まない)錦を着て故郷に帰るという故事にかけて、不本意な思いを詠む
〇清少納言
・周防下向:父・清原元輔に同行?
「枕草子」うちとくまじきものに記述あり
→波に身を任せる船旅への不安を綴る……紫式部の感覚と共通
・摂津下向:二度目の夫・藤原棟世に同行(1000年頃、定子崩御の直後?)
「清少納言集」
のがるれど おなじ難波の潟なれば いづれも何か住吉の里
→住みにくい都から逃れてきたけれど都と同じく潟(難し)ところだからどうして住みよい里といえましょうか
〇和泉式部
・和泉下向:最初の夫・橘道貞に同行
事とはば ありのまにまに宮こ鳥 都の事を我にきかせよ
→在原業平「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」からの影響か
・丹後下向:二度目の夫・藤原保昌に同行
〇相模
・但馬下向:幼少期、継父・源頼光の任地国に同行
山里に かかるすまひはうぐひすの 声まづ聞くぞとりどころなる
花ならぬ なぐさめぞなき山里の 桜はしばし散らずもあらなむ

→桜以外に慰めがない
・相模の東国下向:夫・大江公資おおえのきんよりに同行
 百首の歌を神に奉納→返事は夫か知人か
 都に思う男がいたが?不本意ながら東下りすることになり、どうせなら行きたいところに行こうと走湯権現に詣でた
・東国思慕:帰京後、別れた夫は他の女と遠江へ
逢坂の 関に心はかよはねど 見し東路はなほぞ恋しき
→男に未練はないが東路は懐かしい
〇藤原道綱母
 下向の経験はないが地方への好奇心はあった
陸奥の ちかの浦にて見ましかば いかに躑躅のをかしからまし

※転勤族の悲喜こもごも?ああ都が恋しい田舎暮らしヤダヤダつらいと文句をいいつつも、それなりに暮らしを楽しんでいる風でもある。場所によっては他人にも羨ましがられていたのでは?(これは妄想ではない……気がする)

三.「源氏物語」地方育ちの皇妃候補の姫君たち

→必ず後に都に帰る、ことが前提。「田舎びる」ことはダサい、という価値観
〇明石の姫君
・母の身分が低い(劣り腹)
・地方(明石)生まれ
・誕生後の儀式(お披露目)ができなかった
→京より親が公卿クラスの乳母を派遣:宣旨の君(教養あり・宮中の事情に詳しい)、紫上を養母とする
〇玉鬘
・四~二十一歳まで筑紫で暮らす
・和歌、書、楽器演奏という女性の教養がそれなりに身についていた
→筑紫国が、文化が流入する先進地であったことから玉鬘も教育されていた、という設定
→六条院にてさらに磨かれ、尚侍に推せるほどに洗練
〇物語の選別(源氏が明石の姫君に読ませる物語をセレクトする場面あり)
「源氏物語」紫式部が宮仕え後に書いた分は高貴な女性(彰子)の教育目的
教育的配慮により殊更に「田舎びた振舞い」を否定しているところもあり

※紫式部自身「教育」がいかに大事か身に沁みて痛感してたところあるような。生まれた場所が云々ではなく環境と教える人の質が大事じゃないの?(明石の君、明石の姫君)、あと教える側教えられる側両方とも常日頃アップデートしてないとね(常陸宮の姫君)、ただぜーんぶ条件揃っててもご本人があまりにもポヤヤンだと無理な場合もあるわよ(女三の宮)、という感じで具体例を書いていったんじゃなかろうか。
 越前国での日々を殆ど残さなかったのは「田舎びる」ことをおそれてのこと?宮中でむやみやたらと地方の話するのってダサーイ☆て感じだったとか?光源氏が須磨明石での暮らしを絵に描いたように、紫式部もそういうのやってそうだけど「田舎びて」ると思われたくなくて葬り去ったか。ああどっかの蔵から絵とか文書とか出てこないかしらん(願望)。

「源氏物語と越前・西海道」山本淳子氏

 講義のトリを務めるは山本先生。いつもながら見やすいスライドとレジメ11ページ。

Ⅰ紫式部の父と越前と宋国

996(長徳二)1月 長徳の変
 夏 為時、国司として越前国へ
 冬 朝廷、朱仁聡の罪名を勘申
997(長徳三)朱仁聡、若狭守を侮辱(詳細不明)
998(長徳四)為時と羌世昌きょうせいしょう、漢詩を贈答
1002(長保三)羌世昌帰国し皇帝に謁見、為時との交流含め日本について報告
 為時は藤為時とうゐじ(漢詩を読むときの呼び名)として漢詩文二点が「本朝麗藻」という漢詩集に記録されている。二点とも「羌世昌を思いやる優しさと日中両国の関係を案ずる思慮が見てとれる」。
 が、「宋史」に書き留められた為時の交流は……
「詩はひどく言葉遣いが浅はかで、よい点は無い」
→古典から引いた言葉(白楽天がよく使っていた俗語)を多用したのが良くなかった?古臭く軽い印象を持たれたか。
→中国の先進意識と日本の文化(国風文化:外国のものを取捨選択して自国の文化とした)が嚙み合っていなかった? 
 ただ宋の日本への関心は高く、この後交易が活発化、平清盛の日宋貿易に繋がる。
※為時、千年もdisられが残ってしまってかわいそう……真面目な人だったんだろうなというのは何となくわかる。外交は一筋縄じゃいかないねえ。

Ⅱ「紫式部集」と西海道

 西海道とは:五畿七道の一つ。現在の九州地方。「続日本紀」では筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向の七国および壱岐、対馬の二島となり、さらに薩摩、大隅を加えて天長元年(八二四)以後は九国二島となる。(精選版 日本国語大辞典より)
〇越前にいた紫式部と、肥前(佐賀)にいた友人との文通→友人は九州の地で亡くなる
〇夫・宣孝も結婚前、筑前守(福岡)として赴任。結婚後は豊後(大分)の宇佐八幡宮に勅使として派遣される→結婚後二年余りで亡くなる
→紫式部の人生は喪失体験多い。人生の無常を痛感させ、『源氏物語』へと結実したか。
※行ったことはなくても、紫式部にとっては縁深い場所という認識だったのかもしれない。玉鬘十帖の辺りを書いている時、友人や夫がその地でどう過ごしていたか、思いを馳せたりしてたんだろうか。切ない。

Ⅲ「源氏物語」と西海道(「玉鬘」巻)

 いつもの原典購読は「二十歳になった玉鬘に言い寄る大夫監たいふのげんのくだり」。
〇大夫監とは:大宰大弐・少弐に次ぐ大宰府三等官。在地有力者や功績ありの場合、従五位に叙爵。
つわもの」→「源氏物語」中では唯一ここで出てくる言い方。
〇豊後介(乳母の長男)は従六位上、大夫監の方が上。「在地権力者、頼もしき人(逆らったら生きていけない)」に弟たちは寝返り、姉妹は都の価値観で反対する。
〇作中で笑いものにされる大夫監
→筆跡はまあまあ、文の紙は唐物色紙、香も唐渡りと大宰府官人の威勢を見せつける
上昇志向は強いものの、和歌は下手:上句と下句が合わない「腰折れ」
君にもし 心たがはば松浦なる 鏡の神をかけて誓はむ
→「源氏物語」中、在地民が詠んだ歌はこれだけ
乳母は
年を経て いのる心のたがひなば 鏡の神をつらしとや見む
と返すも、監はこの「心のたがひ」を心変わりと解釈。傍に控えていた姉妹が慌てて「老人がボケて言い間違えた」というように言いつくろった。乳母が長年祈っていたのは「玉鬘が都に戻り貴族の妻になる」ことである。
 監は在地の権力者としての矜持があり、プライドも高い。都人への対抗心もあり「詩歌の心得」のあるところを見せようとするが、乳母の歌に対し返歌はできなかった。
※物語中では完全に「都の価値観」から外れた存在として書かれてはいるが、「現実的な選択として」監の妻になるもアリ、と豊後介の弟二人に言わせているところはすごいと思う。実際、帰京したところで実父が庇護してくれるとも限らないし、かなりリスキーな賭けには違いない。紫式部自身、「地方住みの権力者は下手な貴族よりいい生活してる」ことをよく知っていただろうし、もしかしたら「いつか追いつかれる」という予感も少なからずあったんじゃないかしら。田辺聖子さんが大夫監をすごく魅力的な男に描いたパロディを書いてたの思い出す。

 ということで時間ピッタリに終了!さすがです!
 残るはもう閉校式のみ。早いなあ。

 ↓↓↓ ご参考までに「玉鬘」該当部分を「ひかるのきみ」でどぞ ↓↓↓ 

<つづく>次で最後です!


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かわこ
「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。