源氏物語を読みたい80代母のために 23(源氏物語アカデミーレポ④)
さあ、二日目の朝ですよ!
待ち合わせはホテルクラウンヒルズ武生前に8:15。
まあ、私もダラ主婦とはいえ普段六時半には起きてるので余裕のよっちゃんですわオホホホ!ああ人んちのご飯は美味しい!(←サイテー)
午前中は
現地研修「北陸一の古社 舟津神社参拝」
舟津神社本殿等解説 高嶋建築研究所代表 高嶋猛
なので、飲み物の用意をしていざ出陣。
少し早めに着いてしまったが、待ち合わせ場所には既にバスが二台、半分以上はもう席が埋まっていた。昨日配られた名札によると母と私は一号車。スタッフのおじ様に
「皆早いのー。出発八時半ゆうたら、私なら五分前にしか来んわハハハ」
と明るく送り出されバスに乗り込む。乗り込んだところで別のスタッフが走って来てその場で名簿チェック。
どうも点呼はホテル内だったようだ(すみません)。なるほど、参加者は殆ど県外なのね。
時間通りにバス出発。
「母、舟津神社行ったことある?」
「あるある。ナントカカントカで(理由は忘れた)。神主さんとも一時間くらいお話ししたわ」
はえー。さすが鯖江出身者。私はこの年までまったく、足を踏み入れたこともなかった。県内だと却ってこんなものなのかもしれぬ。
とはいえ通る道はだいたいわかる。高校の同級生の家があの辺にあったっけ、と懐かしみつつ眺めていると、こういうのもあったりして。
最初に言っときますと、なんとこの朝わたくしは自分のスマホを実家に置いてきてしまい、撮影はすべて母のものを拝借しております。この日こそ!ゼッタイに!持って行くべきタイミングでこういうポカをやるとは……何ともヤキが回ったものです。そういうわけで慣れるまでに手間がかかったのもあり、枚数は少な目。これだけかい!って感じですがご査収ください(泣)。
レジメから:
舟津神社は「延喜式神名帳(延長五年(927)」の「丹津神社」に比定される古社である。寛保二年(1742)に王山の東山麓の現在地に本殿が移遷座され、現本殿はこの時の本殿を文政三年(1820)に再建したもので、県指定有形文化財である。
はい、まず「比定」がわからないので検索。
比定とは:比較して定めること。他の類似のものと比べあわせて、同種類のものとして推定すること。(コトバンクより)
つまり、当時お国が出した神名帳(じんみょうちょう)に掲載された官社のひとつであろうと推定されてるってことね。理解理解(雑)。この延喜式から数えるとゆうに1000年を超える歴史ある神社だ。
当時国司が赴任した際には現地の官社を参拝する習わしがあったようで、もしかしたら紫式部も、越前守となった父と共に訪れていた……かもしれない。場所は違えど同じ神様ね。
バスを降りるやもうすぐに始まる高嶋氏の解説。年代や数字がポンポン出て来て非常にわかりやすい、職人系の人にありがちな語り口である。だが「うん、わかった!」とその場では思ってもすぐ記憶から流れ去っていくのもいつものこと。あああ録音したかった。何でスマホを忘れたの(大反省)。
それはともかくとして、江戸時代に再建した際の神主さん・橋本筑前守政恒が超絶有能にしてマメ男だったらしく、建築時の記録が計画段階から造営願・許可、資金調達、職人、材料に至るまですべて残っているらしい。日本国内ではここだけなんですってよ。凄いね!やっぱり記録大事!何でもかんでも捨てちゃダメなんよ!
本殿内はさすがに写真撮るのは憚られたので、私めの下手くそなレポ絵でもどぞ。
あと、此方は時間がなくて見には行けなかったのですが、令和元年に再建なったばかりの上宮というものがあります。
もともと本殿の相殿に合祀されていて六百年経っていた(!)そうで、神社本庁より
「神宮殿舎撤却古材の譲与」
についての通知があったのをきっかけに、再建を決意されたとか。
つまり伊勢神宮の第六十二回式年遷宮で出た古材や余材を利用したと。これ、無償で全国の神社へ譲与されるんですね(要申請)。まさにSDGsここにありじゃないですか。日本はとっくにやってた。世界がやっと追いついて来たんですね(ドヤ)。
さてここで母の感想タイム。
「何を聞いても大瀧神社とはここが違うあそこが違うって比べてまう」
ああそれはわかりますわ。
どちらの神社も、地元の人の篤い信仰によって生き永らえている。そこに神様が確かにいらっしゃる。母も私も、此方にもいっぺん来てみねの(福井弁)って招かれたんだなきっと。今度来る時には是非とも、あの上宮まで昇ってみたい!
バスは越前市文化センターへ。次の講師は、先ほど出て来た
「超絶有能にしてマメ男の神主・橋本筑前守政恒」
の六代あとの子孫、橋本政宣氏である。
<つづく>
※まだ二日目の午前中が終わってない……終わらないいい。