源氏物語を読みたい80代母のために 49(源氏物語アカデミー2024レポ②)
開講式後、一発目の講義は、
「受領と藤原為時」朧谷壽氏
例によって私のテキトーなメモよりテキトーに私見まじえてまとめてみる。単なる覚書なので間違ってたらゴメンやで(←え?)。
〇諸国(延喜式 巻第二十二 民部上)
受領とは今でいう国家公務員に近い、が、その人事を決めるのは平安京にいる一部の公卿のみ。空きポストに任官を希望する者は申文という履歴書めいたものを書いて送り、書類選考(除目)を受けるという形。「光る君へ」でも度々出てきてた!
受領が任地でどういった暮らしをしていたか、詳細な記録は殆ど残ってないらしい。だがそこはさすが史学ご専門の朧谷先生、2001年の時のだけどね~と仰られつつサラリとテーマに合った資料が揃う。考えてみればアカデミーも36年、普通に受講してるだけでもいっぱしの資料持ちになれそう。私はまだまだだけど!
さてその中でも面白かったのがコレ、
受領心得-「国務条々事」境に入れば風を問へ 入国と任国での受領の守るべき心得、全四十二箇条(「朝野群載」より)
吉日を選んで入ること、が第一に来るのがいかにも平安時代!って感じだけど、考えてみれば日取りって中々決めにくいよね。どっちの都合に合わせるかで後々不満が残ったりするかもだし。暦や占いに従う習慣は意思決定の助けになるし、生まれも育ちも違う者同士の軋轢を避けるという点でもちょうどいい仕組みだったと思う。
国守となる者は迎えの者から任国の情報を得てよく認識しておくように、ただし余計なことは言わないこと。地元の者はどんな長官が来るかと品定めをする。形式に則った振舞いを心がけよ。
なかなか、今でも通用しそうな心得じゃありませんかね。中央からやってきた国守と地方役人たち。いきなり高圧的な態度を取れば反発されるし、かといっておもねるような態度では舐められてしまう。下手に自分で対応を考えるよりひとまず形式に従え!は理にかなってる。とはいえこういう「心得」があるということは、そううまくはいかなかったんだろう。国司と任地の官人がべったり癒着してやりたい放題・国司が無謀無体な治め方をして地元が猛反発・国司がバカにされて地方官人のやりたい放題、とか色々あったんだろうなー。そうはいっても決められた税を納めてさえいれば後は国守の裁量でOK!な地方勤務はかなり美味しいことに間違いない。大国の受領を三回やれば一生安泰、ともいわれたらしいし。
后がね もししからずば よき国の 若き受領の妻かねならし(藤原為頼:為時の叔父)
生まれた孫が女児だった時に詠んだ歌だそうな。后になるよりはいくらか手が届きそうな、現実的な夢?目標?といったところだろうか。大河の為時は真面目一徹に描かれてたけど、多分実際はそこそこ普通に稼いでたんだろなーと思う。
〇「枕草子」にみる受領
朧谷先生、なんと清少納言役のファーストサマーウイカさんとご対談されたらしく(まだ観てないいい!観なきゃ!)いたくお気に召されたご様子。確かに、ニワカな私からみてもウイカさんは清少納言にピッタリ!と思えました。あのハキハキ明るい感じ、正直で率直で裏のない感じ、何より当意即妙の賢さ。枕草子のイメージにも何となく合致してる気がする。
テキストにはいくつか「除目」や「受領」に関した段が取り上げられているのですが、清少納言はさすが受領の娘、除目の日の宮中の様子を克明に(ちょっと意地悪なほど)描いております。
<以下、私のテキトー訳>
除目の頃の内裏界隈はけっこう面白い。雪が降ってあちこち凍ってる超寒い日に、申文を手にウロウロする四位、五位の人達。若い人はまあ落ち着いたもんね、引く手あまただから。だけど白髪頭のお年寄りは大変。アタシ達女房に案内を頼んだり、手当たり次第に局に凸して、自分がどれほど仕事デキかをそりゃもう熱く!語り尽くすわけ。裏で若い女房ちゃん達が真似して笑ってるのも知らないでさ。
「どうかよしなにお上にお伝えくだされ、中宮さまや皇后さまにもよろしく」
とか言われてもね……ここまでやってどっかしらのポストに滑り込めればいいけど、何も成果が得られませんでしたア!だと超悲惨よね。
<テキトー訳以上>
……なんかこれも現代の何かに当てはまりそうですね。老人より若者が採用されやすいというのも身につまされます。今よりずっと体力勝負・健康第一の条件はシビアだったでしょうし。
さらに興味深かったのは「すさまじきもの(興醒めなもの)」の中で、
「地方からの文に手土産がついてないのはガッカリだけど、京から送る場合は先方の知りたいことを書き連ねて、京のホットな情報を盛り込めば品物無くてもセーフよね」(※言うまでもないですがテキトー訳です)
とあるところですね。現代の東京一極集中どころじゃない、京が一番!京が中心!アタシらトップ!の超高い自意識が臆面もなく描かれていていっそ清々しいほどです。京都は昔から京都だったんどすなあ。あと昇進や任官を期待してお祝いの用意もしていたのに一向にその知らせは届かず、招いた客が一人二人と帰っていく……みたいな、読んでるだけでいたたまれないヒリヒリした光景をも、リアルに赤裸々に書き残したことも、何気にすごい功績だと思います。清少納言やっぱ凄いわ。
〇道長と除目
ここで出てくるのは勿論「小右記」(実資)と「御堂関白記」(道長)。さらに「権記」(行成)を加えた三つの日記でかなり信頼のおける資料群となってるの面白い。外国でもこういう例はあるんだろうか。
決まった除目に後で手を入れる(摂政なら可能)とか、書類の書き方が違うと差し戻して書き直させる(解由:監査)とか、上司の依頼で建物を造った見返りにいい感じの任地につかせるとか、現代だとコンプライアンス的に無理な部分も多々あるとはいえ理解はできる。道長が、誰から何をもらったか・自分が主催する宴やら儀式やらに参加した人は誰か等細かく記録して、それにより便宜をはかったりしたというのも、考えようによってはいたって公平でわかりやすいやり方じゃなかろうか。ゴリゴリの階級社会におけるトップとはいえ、殿上人はおろか日本津々浦々に散らばる貴族達一人一人の内心など知りようがない。明確な利害とか重要な会合への出席率とか目に見える「意思表示」に拠るしかないとすれば、道長の記録も必然。政敵を炙り出すというよりは味方でいてくれそうな人を必死で探ってるように思えます。大河の道長のように何らかの「志」をベースにしていたかどうかはわかりませんが、少なくとも「政治の安定化」という目的は同じだったんじゃないでしょうか。
それにしても火事で焼けた道長の土御門邸を、受領がすべて丸抱えで再建してたとは知らなんだ。道長は一銭も出してないんだって。そりゃ有力受領は道長に恩義のある者で固めるだろうし、蓄財もお目こぼしされますよね。それどころか推奨してたかもしれない。そしてこの再建から四年後、例の「この世をば」の歌が詠まれると。
うーん、やはり「あとは欠けていくだけの世」を暗に予感してたんじゃないだろか道長は。切ない。
〇貪欲な受領と愁訴
タイトル通り「極悪国司の圧政に耐えかねた民の訴え」の数々。そりゃ四十二箇条もの心得が出来ますよねと納得したところで時間切れ。いつもながら、大学の授業なら3~4コマ分ありそうなボリュームと濃さにございました。
「越前国府発掘調査のあゆみ」西脇奈々氏
講師は越前市教委の生涯学習・歴史文化課に所属されている学芸員さん。
発掘自体は武生市時代から継続されていますが、大河「光る君へ」制作決定をきっかけに「越前国府発掘プロジェクト」が五か年計画(令和5~9)として立ち上げられたそう。今は二年目とのこと。
「発掘調査」とは:地中に埋まっている遺跡(昔の痕跡が残る場所)を探すこと。
「国府」とは:国の出先機関、全国68か所にあった。国司と地元採用の職員によって運営。一つの建物ではなく複数の建物の集合体を「国府」と呼ぶ。
〇全国の状況
20か所が確認されており、史跡公園として整備されている。
瓦の欠片などが手掛かりになるが、北陸地方は冬の積雪により瓦葺を採用していないため見つけ辛い。
<事例>
・武蔵国府(府中市)国司館を復元。
→小規模発掘を1000件以上行い、繋ぎ合わせて解明。
・近江国府(大津市)建物配置を復元(瓦葺)。
〇越前国府の発掘状況
三十年以上前から発掘しており、遺物は出ている。
・市役所西(府中城B地点)→遺構、国分寺?
・本興寺境内(国府B)
→市民から発掘ボランティアを募ったのは全国でも珍しい
成果:120平方メートルを発掘、実働40日
遺構:平安期の柱石・土坑・溝(区画溝?)、不明溝
中世期の土坑
遺物:墨文字が書かれた須恵器(ろくろ使用、昇り窯で焼く。手触り固い)、緑釉陶器(貴族や役人等限られた階級の者が使用?)
令和6年最新情報:区画溝と思われる溝の続きを発見、柱石が北側に集中していることからここに大きな建物があったのかも?
〇今後の予定
遺跡は保存のため埋め戻す。掘り返した現場は3D映像の形で保存、VR技術にて再現するとのこと。
いやーわかりやすくて面白かった!越前市、今後も頑張ってほしい!なおプロジェクトの詳しい内容は、私のつたない覚書より以下の越前市サイトでご覧くださいまし。見やすい図や画像多数です。
というわけで一日目終了。いやー濃ゆい濃ゆい。私たち母子はもう慣れたものでサクっと部屋に帰るなりみかんを食らう。美味しい。すごく美味しい。つい二つずつ食べてしまう。アラ不思議、大袋もうなくなるやん(当たり前)。アルプラザのみかん売り場で一番大きい袋を選んだ母の見立ては誤ってなかった。さすがは年の功である。さあ明日は朝から一乗谷、がんばろ!
<つづく>
「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。