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87.水を得た魚

 毎年夏が近づくと思い出すことがある。
「私が小学生の時はスイミングスクールなんてなかったから、みんな学校で泳ぎ方を教えてもらったのね。田舎だから敷地も広くて、低学年用の水深50cmくらいの小ブールと普通の25mプール併設。一、二年生は小ブールで遊んでるだけだけど三年生になると碁石拾いがあるの。私、どうしても水の中で目が開けられなくてね」
 川遊びもしょっちゅうしていたDさん、水が怖いというわけではなかった。
「碁石は拾えたのよ。目測をつけておいてエイって手を突っ込めばいいだけだから。だけど小ブールってあんまり水がキレイじゃないのもあって、どうにも勇気が出なかった。とはいえ同級生は日に日にどんどんクリアしていくし、さすがに焦って家でも洗面器で練習してみたけどダメで」
 そうこうしているうちに一学期は終わり、夏休みに入った。
「今じゃ考えられないけど、あの頃の小学校のプールって平日は毎日、午後いっぱい開放してたのね。他に娯楽もないし外の公園は暑いしで、友達と毎日のように通ってたな」
 当時学校のプールは、四十五分に一回は休憩が入った。監視員の先生の笛を合図に全員水から上がって休む。
 はじめ小ブールで遊んでいたDさん達だが、次の休憩後から大プールに移ろうということになった。各自ビート板を取ってプールサイドまで来たところで、休憩終了の笛が鳴った。
 いきなり飛び込むことは禁止されていたので、一旦プールサイドに腰掛けて足から入る。Dさんもビート板を片手にしゃがもうとした……ところで
「あっ!」
 と叫ぶ間もなくするっと滑ってずぼん、と落ち、頭のてっぺんまで水に漬かった。
 目を開けたまま。
 初めて自分の目で見る水中。
(目、ぜんぜん痛くない!すごくはっきり見える!)
 嬉しくなったDさんは水から顔を出し、近くにいた友達に
「ねえ、今私目開けられたよ!」
 と伝えた。
「よかったじゃん!」「あれだけ嫌がってたのに、よく出来たね」「エライ!」
 口々に褒められて照れ臭くなったDさん、実は滑ってコケちゃって、と説明すると、
「ほんとに?!」「自分から勢いよく飛び込んだように見えたよ?」
 ウッカリって感じじゃなかった、ついに決心したんだなと思った、と皆口を揃える。
(へえ、そんな風に見えたんだ?)
 不思議に思ったDさんだったが、何より目が開けられるようになった嬉しさの方が大きい。それ以上は特に気にせず、プール遊びを満喫した。
 三年後、六年生になったDさんは水泳大会の選手に選ばれた。近隣の小学校との対抗戦で、各泳法で50mのタイムを計り出場種目を決める。
 Dさんはまず得意のクロールで出場枠を取った。次は平泳ぎだが、此方はあまり自信がない。
(きっとEちゃんが一番で、次はFちゃん、Gちゃんに勝てるかどうかかな)
 出られるかどうか微妙なラインだったが、とりあえずトライアルには参加した。
(なにこれ)
 スタート直後からすぐにわかった。
(泳ぎやすい)
 身体全体が軽い。水の流れに乗っている、いや乗せられて、運ばれているような。ターンしてからもまったくスピードが落ちない。何より、ぜんぜん疲れを感じない。
(すごく気持ちがいい)
 ふと気づくと、いつもはるか前を泳いでいたEちゃんの姿が斜め後ろにある。Dさんは二位以下を大きく引き離し、文句なしで平泳ぎ枠をもぎ取った。

「これでぐんぐん記録を伸ばして見事水泳選手に!なーんて話になったら凄かったんだけどね」
 大会に出たDさんは、クロール二位、リレーは一位だったが、平泳ぎは後ろから数えた方が早かった。
「会場が中学校の50mプールだったの。新しくできたばかりで綺麗なところだったんだけど、泳いでみたら……これがまあとんでもなく体が重くてね」
 それ以来、中高の水泳の授業でも、他のプールや海へ行っても、ついぞあの「水に運ばれる」ような感覚は巡ってこなかった。
「ある程度緊張感があって、でもダメで元々とも思ってたから、余計な力が抜けていわゆるゾーンに入ったのかな?考える暇なくズボっと水中に入った時みたいに」
 随分ショボいゾーンだけどねとDさんは笑った。
「『水が合う』って言葉があるけどまさに文字通りそれだったんだと思う。あの時のあのプールの水が、あの年齢の私に合ってたってこと」
 小学校はまだ同じ場所にあるが、プールは十数年前に全面改装されて、当時の面影はもうどこにもないという。 

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かわこ
「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。

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