高認検(旧大検)について色々と。(後編)
追記
日本の「高等学校」は、国際標準教育分類(ISCED)では後期中等教育とされますが、本文中では便宜上「高等学校」における教育を「高等教育」と記述しています。
前回の続きです。
高校卒業程度認定試験について色々と調べたことを前回書きました。
「高卒」は、国のお墨付きとして妥当なのか。
で、です。
高等学校、高等部、などなど、”高等教育”と言うくらいですから、そこでは「高等な教育」を受けることができ、そこを卒業した人は「高等な教育を受けている」という、いわば国のお墨付きを得るわけです。
ところが、前回に少し述べましたが、少なくない特別支援学校の高等部(あるいは小中学部も含め)において、当人の学力や能力に応じた教育がなされているのか、ということについて、調べれば調べるほど、疑問符が残ります。
また、ひとくくりに「高校」と言っても、中学校までとは異なり、使われる教科書や教材も高校によってさまざまで、科目についても、進学校かどうか、文系か理系か、によって大きな違いがあります。
さらに言えば、基本的に日本の学校は卒業試験というものは課せられていません。つまり、入学し、各学校の規定の授業数や成績、出席日数等をクリアしていれば、卒業「できてしまう」ということ。
国語、数学等々の教科の試験や成績で測れる能力というのは、そもそも、その人の能力を評価する上でごくごくごくご〜〜〜〜〜く、一部の指標でしかありませんが、
ある程度の客観性は担保されているという前提の元で、学歴というのが就職等での基準として使われているのが実際でしょう。
まどろっこしいので、もう全部言っちゃいますが、高校を卒業したからと言って、高等な教育の内容を身につけている、と簡単に言えないのは明らかです。
たとえばこれを読んでおられる方の多くは、高校を卒業しておられると思いますが、
以下の問題をスラスラッと解けるでしょうか。
高校卒業程度認定試験という大学受験の受験資格を得るための問題で出されている、ということは、言い換えれば、これらの問題を高校を卒業している人は解けるようになっていることが妥当である、ということですよね。
「こういうの、苦手だったから赤点だけなんとか免れるようにしてたわ。」
「俺なんて赤点になったから、レポートでなんとかしてもらった。」
「そもそも、こんなもん、やった覚えもないんやけど・・・。」
という方が大半ではないでしょうか。
高認検を使って客観的に学力を測れたらいいんじゃね?
現実問題として、高校3年間で学んだ内容の全てを一生キープし続けることは難しいでしょう。
ですが一応は、学んだことになっていて、知っていることになっています。
運転免許をはじめとする他の資格等と同じで、その能力を再度測る機会がないんですよね。
それでも、一度は学んでいるかどうか、一度は身につけているかどうか、というのは、全く一度も学んでも身につけてもいないこととは大きな違いがあります。
「(少なくとも卒業段階までに)本当に高等教育として十分な質・量の学習の機会があったかどうか。また、その能力を身につけているかどうか。」
を、客観的に知る方法として、高認検はとても合理的な試験だな、と思ったんです。
そうすれば、例えばどの高校、高等部でも卒業までに高認検の受験の機会があって、
「大学には進学しなかったけれど、高校を卒業し、高認検の点数は◯◯点だった。」
「高校はなんとかレポートなどで卒業をしたが、高認検の点数は◯◯点だったので、自分はまだ高校の内容を身につけたとは言えないので学び直したい。」
などと、その学校によらず、その人自身の学力が高等教育に準じているかどうか、の指標になります。
あるいは、
「もうン十年前に卒業してから全然勉強してねぇ。」
「大学が理系だったから、文系科目は高校生の頃はおろそかにしてしまった。」
といった人が高認検を何度でも受けられるような仕組みになっていれば、
学び直しの機会としてとても好都合だな、と思ったんですね。
なので文科省に聞いてみた。
と、いうことで、前編で述べた高認検の受験資格に、
「高校卒業者や特別支援学校高等部卒業者が含まれない」となんでわざわざ区別しちゃってんの?共通試験みたいに誰でも受けれるようにしたらええんちゃうん?てか、撤廃してぇな!と、質問、お願いみました。
以下、送ったメール。
それに対して、文科省の担当者様から以下の返信がありました。
ふむふむ。わかったような、わからんような。
でも誤魔化すわけでなく、真摯なお答えを頂けたのは、さすが文科省だな、と思いました。
なお、この後のやり取りでSNS等でこのやり取りの公開も快く応じてくださいました。
何も無しで勉強するのはキツイで。
高卒認定試験の成り立ちや趣旨から考えると、至極、仰る通りだとは思うのですが、
高卒認定試験とは別の名前でも何でもいいので、何かしら、「客観的な高等性」が認められるものがあるといいのにな、と思います。
もっとも、自分自身が学びたいのであれば、客観性などどうでもよく、勝手にどんどんやっちゃったらいいんですけど、
なかなか、ねえ。やっぱり、何か目標となる基準があって、「そこに向かって勉強しよ!」って方が、モチベーションも維持しやすいでしょう。
わざわざ別のもの作らないでも、受験料さえ払えば何度でも受けられる試験だったら、コストも最低限に抑えられるし、ひいては、高校を卒業していない方へも、高認検のハードルがグッと下がるんじゃないかなとおもうんですよね。きっとそれに応じた予備校なり塾なり教材なりも、もっと増えるでしょうし。(それに受かるためだけのものになりそうな気もするけどw)
「入試のため」とか「学歴のため」とかではなく、
本当の意味で、自発的な学びのチャンスが増えるのになぁ、と。
よくできた仕組みが実はある。
これ、大学の博士課程(大学院後期課程)だと、修了するとだれでも博士号が取れるわけではなく、
「単位習得満期退学」
というのが学歴の表記として一般化しています。
というのは、博士号の習得はそりゃその分野についてこの国が認める最高峰の学力みたいなものですから、「3年通ったら誰でも取れる」ではマズいわけです。
3年間、あるいはそれ以上通っても、博士論文を提出してその審査に通らなければ、「博士号」は得られません。
でも、博士号が取れなかったからといって、じゃあ修士の人と同程度か、というとそんなことはなく、最難関である「博士論文の審査」だけが無理でしたけど、それ以外は博士課程をクリアしてまっせ、ということを示すための表記です。
いっそのこと、これを高校にも導入しちゃって、「〇〇高校卒業」、だけでなくて、
「単位習得満期卒業」+「高校卒業程度認定試験合格」の2パターンの卒業にしといて、
大学受験する人は、単位習得満期卒業でもいいや!って人も多いだろうし、
大学受験をしない人の中にも、客観的に学力を証明しておきたい人や、とにかく高校卒業!って人など、自分に合ったパターンを選べるのになぁ。
あるいは、高認検は科目ごとに受けられますから、
「2009年度”国語・数学・地理・物理”・2015年度”英語・化学”・2022年度”国語・世界史・数学”高校卒業程度認定試験合格」みたいに、
「この人はずっと勉強しつづけてはんねんなぁ。てことは、今も高校の内容は頭に入ってはんねんなぁ。」
ってことを書けちゃってもいいのに、と、思ってしまいます。
まとめにかえて。
最後はちょっとトンデモ論になっちゃいましたが、
何が言いたいかっていうとね、
仮にそれが名前ばっかりの「高等教育」であっても、学校を卒業しちゃった後は、学ぶ機会や環境がない、という今の状況はやっぱりおかしいと思うし、
そもそも、名前ばっかりの「高等教育」ってものも、おかしいと思うわけです。
一人一人に応じた教育、と言うのは、客観性を持たなくてもいい教育、ではないはずですよね。
追記
日本の「高等学校」は、国際標準教育分類(ISCED)では後期中等教育とされますが、本文中では便宜上「高等学校」における教育を「高等教育」と記述しています。