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僕と1.17 ③

工夫

今ならSNSなどでいくらでも情報は集まるでしょうが、当時どこからともなく知ったこと、あるいは自分たちで考えたこと、などで、限られた水を有効に使うためにいくつかの工夫をしました。

  • 当初は紙皿を使っていましたがそれにも限りがあるため、紙皿にラップをかけ、ラップだけを使い捨てにできるようにした。

  • 上記の通り、衣裳ケースにゴミ袋を2つ並べてガムテープで貼り付け、簡易の貯水タンクを作った。

  • 神社やお墓にある「ひしゃく」を使って、手を洗うための水をタンクから掬いやすいようにした。

トイレは毎回流すことは出来ず、大は仕方がないにしても、小は5回に1回くらいで我慢しました。
ここで3年生の僕なりに心配事がありました。

と、いうのも、トイレは座面後ろにあるロータンクに水を入れておけば、いちいち水を汲みにいかずともレバーで水を流すことができるのですが、
もしお客さんが来た時、ついうっかりレバーで流されてしまったらたまったもんじゃないなぁ、と思いました。(学校がない間はマンション内の友達の家を、母と兄弟で行ったり来たりして、孤立しないようにしていました。)

そこで僕はメモ帳に、
「水を流すのは、小は5回に1回」
と書いて、便座の蓋に貼り付けておくことにしました。

今から考えたら、お母さんたちはいくら非常時とはいえ、よその家のトイレを流さないまま、というわけにいかず我慢していたでしょうが、当時の僕は「これはいい考えだ」と思ったものです。

ゲームし放題

学校もなく、お昼ご飯を食べたら上述の通り誰かの家に親子で集まります。
ママ友同士は、話題に尽きることはなかったようですが、
僕たち子供は家の中だけでは退屈です。
かといって、外に遊びに行くのは怖い。公園もひっそりとしていました。

テレビをつけても、ずっと震災の報道です。
燃え盛る町や、2階がそのまま1階にペシャンコになった家、倒れたビル、避難所になった学校では体育館や教室では入りきらず、廊下に段ボールを敷いて寝ている様子、家族を亡くした人へのインタビュー、そして、増え続ける死者の数。

いつもは1時間なり、2時間なり続けているとキーキーと怒られていましたが、
テレビばかり見ていても気が滅入ることもあって、各家にあったスーパーファミコンは使い放題になりました。

特に、弟がクリスマスにサンタさんからもらった「スーパードンキーコング」は、どんどん進みました。
母は今でも、テレビなどからドンキーコングのメロディが流れてくると地震の時を思い出す、と言います。

普段はあれだけ、ゲームの時間制限を疎ましく思っていたのに、いざ好きなだけできるとなると、嬉しいのも最初だけ、次第に飽きてしまうものです。

そうやって、同じマンション内の友達の家を行き来する生活が続きました。


トントントンカラリの隣組

我が家のマンションは入居したタイミングもあって、世帯の世代が近く、同じマンションに同級生がたくさんいました。
1年生の時は、1クラス分くらいの人数でゾロゾロと登下校をするし、縦割りの地区別での活動はマンション内をさらに3つくらいに分けて、1つのマンションで3つのグループができるほどでした。

友達のお父さんは、
「うちのマンションは巨大長屋やなぁ。醤油が無くなってもすぐに借りられるし、赤ん坊や小さい子たちも、同じマンションのお兄ちゃんお姉ちゃんが構ってくれる。」
と、言っていました。

この「巨大長屋」であることが、震災による心細さを少し緩和してくれた部分もあるだろうな、と、思います。

また、マンションではない一般の住宅街でも、多くの地域で普段はあいさつ程度のお付き合いだった家庭同士の支え合いが、震災によって見直されました。
「困った時はお互いさま」「遠くの親戚より近くの他人」そういった言葉も、多く見られたように思います。

かつて「隣組」という言葉は戦時中に使われたそうです。
古くは「五人組制度」など、グループにすることで、
よく言えば円滑に、悪く言えば互いに見張りあって、自治する目的があったそうです。
戦時下でも共助を大義名分として、「隣組」として、小さな自治体が構成されていました。

この制度の是非は別として、事実、お隣さん同士で助け合うしかありませんでした。
阪神大震災当時は、巨大災害への行政の対応もまだまだ未熟でした。
あれから全国で災害時の対策は大きく進められたとは言え、
今もなお、十分だとは言えないでしょう。

地域でのつながりはどんどん希薄になっていきますが、
震災を経験した身としては、ちょっとめんどくさいかもしれないけれど、
地域でつながりを持つことは決して悪いもんではないよなぁ、と思ったりもするのです。


つづく

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