スマートフォンのなかった時代を思い出す
このところ、腕を骨折した母の病院通いに付き添って行っている。
朝一番に予約が入っているので、九時前には総合病院の受付を通るようにしている。
診察に呼ばれるまでカウンター前の椅子に座ってしばらく待つのだけれど、何となく懐かしく安らいだ気持ちになる。
病院といえば、心身に不調を来した患者が集まる場所で、そこの景色になごむというのもおかしな話だ。
なぜなのか。
それとなく周りを見渡して、すぐに気付いた。
スマートフォンを使っている人がほとんどいないのだ。
平日午前の早い時間、病院に来るのは高齢者が多い。
母も含め、デジタル機械には疎い人ばかりなのだ。
だから彼ら彼女らは、付き添いのある人はその人と話をしたり、一人の人は文庫本や雑誌を読んだり、腕を組んで目をつぶったりしている。
私も母と久しぶりでゆっくり話をしている。
スマートフォンが世に普及するまで、電車や町なかのベンチ、飲食店の座席でよく見た光景だ。
今のように、誰も彼もがスマートフォンの画面に寸暇を惜しんで見入ったりしていない。
今どきの若い者は、と言う気はないし、言えない。
だって、病院の外では若い人から年寄りまで、みんなスマートフォンを使っているのだから。
病院に来ている高齢者だって、ほとんどがスマートフォンを持っているだろう。
でも、あの小さい画面に見入っている人の数は、病院の外の世界より遥かに少ない。割合で言えば一割程だ。
心身の不調が、ゲームをしたり、こまめな連絡をしたり、世情を追う気力を失わせたりするのかもしれない。
けれど、不思議と患者やその付き添い者の方が、外の世界のスマートフォンから手を離せない人々よりも健やかに見えた。
こちらの方が、人間自然の姿なのではないかと。
電子機器の発達は世の中を便利にしていると思うけれど、時々はそれら一切を手放してみて、自分や人の本然の姿を見てみるというのも気持ちがいいものだ。
当然に知っている、気付いていると思っていることに、何も手に持たない立場から見てみると新たな発見があったりするのだから。
スマートフォンを通してでは見えない身近な世界というのは、ある。
母の付き添いも大変なことはあるのだけれど、例えばケータイが普及する前には皆こんな風に時間を潰していたな、などと気付ける、思い出せるというのは結構気持ちのいいものだ。
そう思うのは、氷河期世代の繰り言なのだろうか。