SNSという「存在証明」
SNSという言葉が使われるようになって久しい。
だが、SNSにこれといった訳語は存在しない。
現下日本の諸事情を鑑みれば、
SNSはもはや「|存在証明《SNS》」と訳すべきではないだろうか。
免許証よりSNS
銀行に行って口座開設する際には身分証明書の提示を求められる。
身分証明書の王様といえばやはり運転免許証であろう。
顔写真付きなので本人であるかどうかが一発で可視化認証できるからだ。
確かに現代日本では運転免許証などのアナログ身分証明書が本人確認における銀の弾丸となっている。
だが、どうだろうか。
運転免許証は多くの人間によって承認された「存在証明」たり得るのだろうか。
ならない。
運転免許証は国家という血のかよっていない機関が書いた「おスミつき」に過ぎない。
法的拘束力はあるが、血の滾りのある人間の人間による人間のための承認はそこに存在しない。
人は法的拘束力によって法と繋がることはできる。
だが法的拘束力によって人と繋がることはできないのだ。
人が本当に欲しいものは誰かからの承認だ。
信じてもらえること。
頼りにしてもらえること。
誰かと繋がっていると感じられること。
運転免許書にはそれが決定的に欠けている。
だから、運転免許書は存在証明にはなり得ない。
だが、SNSは違う。
血のかよった証明
SNSはオンラインにおける人と人との交流サイトないしサービス全般のことを指す。
古いところでは2ちゃんねるだったりLINE、新しいところでは5ちゃんねるやLINEだったりが挙がるはずだ。
「note」と書いておいた方がいい気がしたので書いておこう。
↓↑
そこでは血のかよった付き合いがある。
多くの人たちと袖振りあって縁が生まれていく中で、その縁が文字化数値化されていく。
この「人と人の関係性が文字化数値化される」というところにSNSの新規性・特徴がある。
フォロワー数、フォロー数、スキした数・・・
様々な数字によって関係性が可視化されている。
「人と人との関係性が文字化数値化される」
これこそがSNSの醍醐味であり、最大の特徴なのだ。
そしてこれは血のかよった人間の証明書となりうる。
有史以来もっとも存在証明が必要な時代
従来、インターネット前において。
人は多くの人間と触れ合う機会がなかった。
例え大きな町に住んでいても、その街の中で袖振り合える人の数はたかが知れていた。
いわんや地方の田舎町ではその数はさらに激減してしまう。
「狭く深い付き合い」といったものだ。
しかし、20世紀後半には核家族化が進行してしまい「狭く浅い」付き合いがスタンダードになってしまった。
だから20世紀末の人々は有史以来もっとも「存在証明」を求めるようになっていた。
そこに1995年のIT革命が勃発し、オンラインにおいて人と繋がれるようになったため、人々はSNSに飛びついたのだ。
いささか逆説的なれど、
近現代ならではの核家族化といった現象が存在証明の希薄さを作り、
その存在証明の希薄さがSNSの爛熟をつくり出した。
したがって、SNSが存在証明を作り出す場所になるのは必然なのだ。
100の血の証明は、1の権力証明に優る
だが、そうはいってもSNSにおける他人からの承認は浅い。
「いいね!」や「スキ!」と言ったワンクリック承認がもっぱらである。
しかし、血のかよった人からの承認に違いはない。
そして何より多くの人々からの承認が得られる。
様々な背景を持つ人々から、時に海の向こうにいる人々からも承認を得られる。
血のかよった承認が、百を超えて、様々な方角から得られるのがSNSの醍醐味なのだ。
結果、立体的に自分を証明することができる。
他方において、運転免許証は法的な承認に過ぎない。
血のかよった人間からの承認ではなく、こちらが何のアクションを起こさなくとも得られる非人間的かつ受動的承認である。
人は自分の何かしらのアクションに対し反応してもらい、尚且つそれが生物からの承認であった場合に存在を感じられる。
だから、国家という非生物からの承認では自分の存在を感じられない。
だから、自分が何もしていないのに得られる「誰でも承認」では自分の存在を感じられない。
したがって、運転免許などの権力証明は存在証明になり得ない。
むろん100による立体的な証明力があるSNSには到底かなうはずもない。
100の血の証明は1の権力証明に優るのだ。
存在証明
存在証明にSNSとルビをふってみる。
存在証明をアルファベットでひらけばSonzaishoumei。
Sonzaishoumeiを略して「SNS」。
こういう時、日本語は頼もしい相方となる。
SNSという外来語の翻訳を日本人が長らく保留してきたのは、その文明的意義を見極めるため。
SNSの文明的意義が「存在証明の担保」にあるとわかったいま、
SNSを存在証明と訳すことに躊躇はいらないはずだ。
国家とIT企業の仁義なき戦い
だがここで、ここまでの議論をちゃぶ台返しにすることを許してもらいたい。
やはりSNSを存在証明にするのは甚だ危険なのだ。
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