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shiny_yarrow706
フォローしたならスキをくれ
起
フォローしたのにスキをしない、という暴虐が猛威をふるって久しい。
フォローは自由であり、それに従属するスキもまた自由である。
だがちょっと待って欲しい。
確かにそれは、理屈において正論の範疇にしっかりと地歩を乗せた論ではある。
しかし感情において、一抹の違和感が残るはずだ。
それを人は良心といったりもする。
理屈では割りきれない、「何か」が生物学的人類にはある。
この「何か」こそが、我々を霊長類の長たらしめているのではないか。
承転
本当に、フォローしながらもスキをしない、という暴虐が許されるのだろうか。
いや敢えて問い直そう、スキなきフォローはnote屋への侵略戦争ではないかと。
おめえ、
ただ単に、スキが欲しいだけではないか???
ああん、おんど
ここでは聡明叡知な読者からこのような質問が予想される。
確かに、スキは喉から手が出るほど欲しい。
だが、どうだろうか。
本当にスキという結果のために、我々は言の葉をウェブに散らしているのだろうか。
いや、それは違うと断言できる。
あくまでスキは手段であり、その向こう側にある「何か」を実現するための足にすぎない。
よしんばスキを目的にしてしまうならば、何を況んやそれこそ手段の目的化に他ならない。
結
とはいえ、人には今云う承認願望なるものがある。
これこそ、人の、業であり、エゴであり、性であり、煩悩であり、人の枢軸たるものだ。
スキなきフォローとは、この、人の枢軸たるものに対する侵略戦争である。
だから、だからこそ、
スキなきフォローといふものは問題なのだ。
今こそ、冷静なフォローと、熱いスキが求められている。