タグは4つまでにしよや。…そんなん、わかるよね?
法律ができるメカニズム
法律がなぜ出来るか知っているだろうか?
法律が出来るのは、
「普通に考えて」の「普通」ができない人々がいるからだ。
レジで順番抜かしが横行すると、世の中全体の合理性が損なわれ、国家経済にとって著しいマイナスになる。
自動車の速度超過があまりにいきすぎると、交通事故が多発して、結局、国家経済にとって顕著なマイナスになる。
飲食店で喚くことが横行すると、客がDQNだけになり、国家経済にとってのマイナスが如実になる。
レジの順番抜かし、
自動車の速度超過、
飲食店での喚き散らし、
全て「普通に考えてダメでしょ」に該当する行為だ。
だがその普通が出来ないヤカラがいるから、国家は法律を制定し、ヤカラを取り締って経済生産性を担保しているのだ。
つまり、法律はその国の「民度の低さ」であり「恥部」でもあるのだ。
タグを沢山つけちゃいけない、普通の考え
翻って、
noteに話をうつそう。
noteにはタグというものがある。
記事と関連したワードをnoteのタグと紐付けして、その記事を広く天下に宣伝できるのだ。
当然、多くのタグをつけた方が、宣伝が行き届き、ページビューを稼げる。
だが、無闇に多くのタグをつけてはいけない。
これは普通に考えればわかることだ。
誰かが5つのタグをつけて宣伝したら、
他の誰かが6つのタグをつけてより派手に宣伝する。
すると、
他の誰かが7つのタグをつけてさらに派手に宣伝する。
それをみた誰かは8つのタグをつけてもっとページビューを稼ごうとする。
畢竟、
1人がつけるタグの数が右肩上がりで増加し、際限がなくなっていく。
これではnoteのAIやサーバーにかかる負担が大きくなりすぎて、運営が困難になってしまう。
noteがなくなったら、note屋は路頭に迷う。
だから、無闇に多くのタグをつけてはならない。
これは普通に考えればわかることだ。
レジで順番抜かしをしたらいけない。
自動車の速度超過。
飲食店での喚き散らし。
これと同じで、
普通に考えて、それをやったらその共同体が貧しくなる。
それをやった1人だけが豊かになって、共同体が破綻に向かってしまう。
だから、普通はやらない。
ところが、
この普通がわからない人たちがnoteにもいる。
なぜ「タグは2〜4つがおすすめ」なのか?
記事を作成しタグをつける段階になると、
「タグは2〜4つがおすすめ」と表示される。
なぜこんな当たり前のことをnoteは明記しなければならないのか。
それは、そろそろnoteの限界が近づいているからだ。
タグを無闇やたらと打つことで、noteにかける迷惑を鑑みれない人々が一向に減らないからだ。
普通に考えられない人々がいるからだ。
常識が違う人たちがいるからだ。
自分だけが良ければ、noteはどうなってもいいと考える人たちがいるからだ。
レジでの順番抜かし。
自動車の速度超過。
飲食店での喚き散らし。
それが何故ダメなのか、わからない人々がいるから法律ができる。
同じように、
noteでも「タグは4つまでしか打ってはいけません」という馬鹿らしい決まり事が出来てしまう日は近い。
それはnoteの「民度の低さ」であり「恥部」になる。
法律とは民度の低さである
倫理観が備わっていれば、法律はいらない。
倫理観が退廃しているから、法律が増えていく。
自分たちの共同体に沢山の法律があることは、誇るべきことではない。
自分たちの共同体に沢山の法律があることは、恥じるべきことなのだ。
法治国家とは恥の塊なのだ。
自分たちが住んでいる国が格好の悪いところだったら嫌だ。
法律だらけの国家にするのは嫌だ。
アメリカみたいな国家になるのはゴメンだ。
あんなに分厚い法律がなければ、秩序を保てない非倫理的な国家に住むのはゴメンだ。
noteを誇れる場所にしたいなら、まず普通に考えることから始めた方がいい。
タグを闇雲に打っている人がいるが、
それがどんな結末につながるかを考えた方がいい。
タグDQNが居づらい場所にしよう
noteによってタグ数が規制される前に、自分たちでタグの濫発はやめる。
これは、普通に考えれば出来ることだ。
まずタグ打ちの濫発をやめる。
99%がそれを出来るようになれば、
1%がそれをやっているのを堂々と批判できる。
それ以前に、99%がそれを出来るようになれば、
noteは1%の民度の低い人たちが居づらい場所になり、
1パーセントはnoteから自ずと出ていってくれるだろう。
法律がなくとも秩序が保たれている場所。
法律なんかに頼らなくても、常識で秩序が保てる場所。
そのほうが断然格好いいし、誇りに思える。
あいにく日本は、
アメリカのように分厚い法律がなければ秩序を保てない場所になってしまった。
だから、
せめてnoteは誇りに思える場所にしたい。