川越名産サツマイモのおみくじ-川越いもみくじ-
サツマイモといえば、川越。
埼玉県川越市を代表する名産「川越いも」を主題に、当神社では独自のおみくじ「川越いもみくじ」を奉製しています。
おみくじの張子は市内の障害者自立支援施設「川越いもの子作業所」の皆さまの手作りです。そのため、本物のお芋と同じように一つひとつ形が異なります。
当地ならではのいも神事「献芋式」
令和2年(2020)以降、12月上旬には、その年の収穫に感謝し、来年の豊作や商売繁盛を願う神事「献芋式」を行っています。
今年(令和6年)は12月4日に行われます。
おみくじに付属する「いもみくじ番外編」に記載された「ラッキー芋アイテム」を境内で見つけられるかもしれません。ぜひお越しください。
そもそも、なぜ川越氷川神社にサツマイモを模したおみくじがあるのか? また、「川越いも」って何だろう? そんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
宜しければ、川越という土地とサツマイモとの深い繋がりについてご紹介させてください。
「川越いも」とは?
「川越いも」は、川越城の南に広がる武蔵野台地で生産されるサツマイモの総称です。この地域は関東ローム層が厚く堆積しており、以下のようなサツマイモ栽培に適した土壌環境が整っています。
水はけが良い
空気を多く含む
昼夜の地温差が大きい
こうした自然条件を背景に、江戸時代、川越藩領を中心に栽培が始まり、「川越いも」と名付けられました。以降250年以上にわたり、地域の名産品として今も親しまれています。
川越いもが誕生し、栽培が広まる過程や工夫されてきた栽培方法などを、もう少し詳しく見ていきたいと思います。
江戸の焼芋人気が生んだ「川越いも」
川越いも誕生のきっかけは、寛政年間頃(1789〜1791)。江戸に焼芋屋が登場し、間食として爆発的な人気を集めたことでした。このことが、川越一帯をサツマイモの一大産地へと発展させることにつながります。
それまでのサツマイモは、飢饉に備える救荒作物として農民が自作するものでした。焼芋屋が江戸中に店を構えるほどの人気を博したことで、急速に需要が高まり、商品作物としての価値が見出されました。この頃から江戸近郊の各地でサツマイモの盛んな栽培が確認されています。
その中でも川越は、江戸に通ずる新河岸川舟運が整っており、重量のあるサツマイモを輸送するのに適していました。質、量ともに優れた川越いもは高い評価を受け、浅草や神田の甘藷問屋で取引されました。
その盛況ぶりを示すように、江戸っ子たちは焼芋を「栗より(九里四里)うまい十三里(半)」と洒落を交えて称えたとされます。この「十三里」とは、日本橋から川越城下までの川越街道の距離(約13里、約51km)にちなみ、焼芋の美味しさとともに産地としての川越を印象付ける表現でもあります。
生産量を倍増させた「赤沢式」栽培法
明治以降も焼芋屋の人気は留まるところを知らず、鉄道の発達も相まって、その販路は北陸・東北・北海道へと拡大していきました。生産量を増大させるために、川越の農家・赤沢仁兵衛が考案したのが「赤沢式」栽培法です。
「赤沢式」は、ローム層の特性を最大限に活かした苗作りや独自の畝立て技術を採用し、米ぬかや灰を使った簡素な肥料ながら収穫量を倍増させました。さらに、その栽培法を周りの農家に伝授したことで、川越一帯はますます生産力を高めたとされます。
サツマイモの女王「紅赤」の発見
そんな中、「サツマイモの女王」とも称され、川越いもを代表する品種「紅赤」が、明治31年(1898)に登場します。「八ツ房」という品種から突然変異したもので、針ヶ谷(現・さいたま市)の山田いち氏が発見しました。
それまでの主力品種であった「青ヅル」と「赤ヅル」と比べて鮮やかな紅色が特徴です。火の通りが早く、ホクホクとした食感と上品な甘みが評価され、人気を集めました。
川越でも紅赤を栽培する農家が急増し、誕生から100年以上にわたり愛される長寿品種となっています。
川越いもの現在
川越いもの代名詞となった紅赤ですが、天候の変化や害虫に弱いため、栽培が難しく、比較的生産量が少ない品種として知られます。
特に戦後は農家が換金性を重視するようになったほか、近年の甘くねっとりとした味への趣向変化も受けて、残念ながら生産量は減少しました。
しかし、在来品種としての価値は依然として高く、川越におけるサツマイモ栽培の歴史や食文化ともども、地域で大切にされています。
川越・元町にある「サツマイモまんが資料館」では、イラストパネルなどを用いて川越いもの魅力がより分かりやすく展示されています。詳しく知りたい方は、ぜひ足を運んでみてください。