逃走と初恋 (2000字小説)
中学2年生のタクトは同じクラスのナナミに恋焦がれていた。2人は友達というほどの関係ではなかったけれども、一度、人気マンガ『呪代の騎士』の話で盛り上がったことがあった。タクトは花札の負けで友人から3万円ほど借金していたが、そのうち取り返せるだろうと思い、支払いは先延ばしにしていた。
タクトはナナミの気を引くために『呪代の騎士』の単行本をプレゼントしようと思った。「自分で全巻セットを買ったら、たまたま父親が同じ日に同じものを買ってきて1つ余った」というテイにしようと考えた。そのために『呪代の騎士』を20冊、K書店で万引きしようと考えた。タクトは日常的に本の万引きをしていて、しかも一度も捕まったことがなかったので、20冊ぐらいは簡単に盗めると思っていた。〇月△日、K書店に入ったタクトはいつものように手のひらを大きく開いて『呪代の騎士』を7、8冊つかみ、トートバッグに入れる動作を3回ほど繰り返した。これで『呪代の騎士』の全巻セットが出来上がるはずだった。しかし店を出ようとしたところで、奥の部屋から白髪の店長が「お前!何取った!」と言いながら飛び出してきたので、タクトは走って店の外に逃げた。タクトは自転車で店に来ていたが、自転車を引っ張り出してカギを解錠し逃げるというような余裕は全く無く、そのまま自分の足で走った。店長がしつこく追いかけてくるので、タクトは用意していたおもちゃのナイフを出し、店長に突きつけた。3メートル以上離れていたけれども店長はナイフに驚き、足がもつれて転倒した。半袖の肘からは血が滲んだ。タクトはその隙にまた逃げようと思ったが、マンガが重かったのと、マンガさえ返せばもう追いかけてこないだろうという思いもあって、トートバッグを店長の方に放り投げ、再び走り出した。タクトは脇道に入って踏切を渡り、田んぼのあぜ道を通って逃亡を続けた。かなり走ったところで、軽トラックで追跡してきた店長がクラクションを鳴らし、「逃げても無駄だぞ」と言ってきたので、タクトはもう無理だと観念し、軽トラに乗せられ 店に戻った。タクトは動機を聞かれたが、ナナミに渡すためと言うこともできず、仕方なく花札の負けを払うためだと説明した。白髪の店長は学校に連絡し、タクトは多くの教師からお𠮟りを受けたが、幸い生徒の間でこの話が広まることはなかった。しかし何となく、『呪代の騎士』の話をすること自体、気後れするようになり、共通の話題がなくなったナナミとも、会話しなくなった。
タクトの初恋はそんな風にして、消えて無くなった。
なお、タクトは逃走中、自身の体感としては40~50分ほど走り続けたつもりだったが、後に計測したところ、実は逃げた距離は700mほどで、時間にしてわずか10分程度の出来事であったらしい。
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タクトは同じ法学部の同級生アオイに恋焦がれている。友達の友達同士で、大人数で話すことはあるが、2人でご飯を食べるほど仲がいいわけではなかった。また、タクトは非常にシャイで女子への免疫もなかったため、アオイへの想いはひた隠しにしていた。本当は軽く話しかけたいが、わざわざ呼び止めるほどの勇気もなかった。しかしアオイのことはいつも目で追っていて、だいたいの行動ルートは把握していた。その甲斐もあって、この日は刑法のテストが終わったあと、偶然を装ってすれ違うことに成功した。お互い目が合い、素通りするのも不自然だったので、アオイのほうから「久しぶり」と話しかけた。
タクトはテストの話をした。「そういえば今日の刑法、どうだった?」
アオイは「うーん、どうかな。窃盗までは間違いないと思うんだけど、店長がケガしたところってどう書いた?おもちゃのナイフで強盗致傷が成立するのかな?」
タクトは自信はあったのだが、控えめに「ああ、あそこはたぶん・・・」と落ち着いた声で丁寧に説明した。
「そうなんだ、よかった!私も分からなかったけどそう書いたよ、助かった~。」
アオイのほころんだ笑顔がかわいらしく、タクトは直視できなかった。タクトはアオイに気付かれないよう、クールを装いながらも、心の中では渾身のガッツポーズを作っていた。
タクトは過去の自分の犯罪と同じ事例が出てくれたおかげで、試験で「優」を取ることができ、その後アオイと恋人になることもできた。
しかしタクトはこの一連の逃走劇にかなりの悔いがあったようで、大人になってから「タイムマシンがあったらいつに戻りたい?」という質問をされた時、「あの日に戻って、自転車を店から少し離れた場所に置く。カギもかけない。そしたら自転車で逃げ切れたはずだから。そしたらナナミと付き合ってたかもしれない。」と答えている。
後年、本当に人生をやり直せるタイムマシンができた。タクトは言葉どおり、あの日に戻って『呪代の騎士』20巻セットを盗み出し、自転車で逃げ切った。そしてそれをプレゼントしようとしたが、ナナミは偶然同じ日に『呪代の騎士』20巻セットを手に入れていたので、結局、プレゼントすることも、ナナミと付き合うことも叶わなかった。また、犯罪の事例としても、本を盗んで自転車で逃げるという単純な窃盗罪になってしまったので、大学の試験問題にもなることもなかった。そのため「テストの話題をきっかけにアオイと付き合う」事がない人生をやり直すこととなった。
*******[参考]*******
「刑法」 期末試験 問題
次の事例を読んでTの罪責を論じなさい(特別法違反の点は除く)。
少年Tは友人間で行った花札によるギャンブルで3万円の損失を被った。Tはこの損失について、人気マンガ本Jの現物支給で補填しようと考え、隣町のK書店においてマンガ本J20冊を窃取しようと決意した。
〇月△日17時、TはK書店において、店員が見ていないスキを見計らって、マンガ本J20冊をトートバッグに入れ、店を出ようとしたところ、控室で監視カメラを見ていたA店長がTの前に現れ、行く手を阻もうとした。しかしTはA店長の妨害をすり抜け、店の外に飛び出し逃亡を図った。A店長が追走してきたので、Tはこれを逃れるため、用意していたおもちゃのナイフを突きつける姿勢をとった。A店長はこれに驚き転倒し、腕に全治2週間の打撲傷を負った。Tはこの隙に再び走りはじめ、脇道に入って踏切を渡り、田んぼのあぜ道を通って逃亡を続けた。Tがかなり走ったところで、軽トラックで追跡してきたAがクラクションを鳴らし、逃げても無駄だと呼びかけたところ、Tは観念し、Aに連れられて警察に出頭した。
少年Tは、自身の体感としては40~50分ほど走り続けたつもりであったが、後に計測したところ、実は逃げた距離は700mほどで、時間にして10分程度の出来事であった。
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