宇蛍人(うちゅうじん)①
秋の日曜。
気温は下がって、空気が澄んでいる。
月夜の中、空気が揺らぐ。
まっすぐ歩いてみる。5、6歩。
一瞬、縦軸が ぐにゃりと歪む。
電気を消して布団に入ると、
コオロギの声が聞こえた。
「あんたさん」
私「?」
「あんたさん、私です。コオロギです。」
私「コオロギさん?」
コ「そうです。すみませんこんな夜中に」
私「私に何の御用でしょうか」
コ「御用というほどのものでもないのですが、」
私「はい」
コ「宇宙から来ました」
私「ま・・」
コ「まじです。そして今から宇宙に帰ります」
私「どうやって?」
コ「そこなんです。ちょっとお願いがあるのですが。
外に出て、私を空に向かって放り投げてもらえませんか」
私「虫を手づかみするのはちょっと、、」
コ「虫ではない、我々は宇蛍人だ」
私「けっきょく虫じゃないか!」
コ「重要なのは虫かどうかではなく、気持ち悪いかどうかでしょう。違いますか?」
私「まあ、そうですね」
コ「だったら」
私「気持ち悪いです」
コ「?」
私「宇蛍人を手づかみするのは気持ち悪いです」
コ「しかし私はちゃんと手も洗ってるし消毒もしている」
私「キレイ汚いの話ではないのです。感情的な問題なのです」
コ「貴様、誰に向かって言っている!」
100年後、地球人は宇宙に移り住むようになり、地球でも宇蛍人を見かけることが珍しくなくなった。今では地球人と同様の人権が認められている。
100年前の私とコオロギのやり取りは録音されている。あろうことか、宇蛍人の人権条約と差別禁止の処罰規定は遡及適用されるため、この音声が当局に漏れると私は100年前の罪で宇宙的な差別主義者として投獄されてしまう。事後法による処罰の禁止は刑法の大原則だが、東京裁判然り、そんなものは政治の力で吹き飛んでしまうようだ。投獄といえば聞こえはいいが、実際は無期限流刑として、誰かに発見してもらえるまで半永久的に宇宙空間をさまようのだ。それは困る。私にはまだやりたいことがある。当のコオロギはもう地球にいない。私でない誰かに、宇宙に放り投げてもらったらしい。
今この時代は、データを削除することが事実上できない。何のデータが削除されたかはすぐに突き止めることが可能だし、そのデータがあった形跡を使って、記録がすべて復元できてしまうからだ。細かい理屈は分からないが、「形跡の形跡」を辿ることで、過去のあらゆるデータや、空気の動きさえも復元可能となるらしい。歴史上の人物が、どこで何を言ったかもすべて分かる。見るだけ ならタイムスリップも可能だ。歴史の教科書も100年前とは随分変わってしまった。
私は、100年前に会ったあのコオロギの宇蛍人を探すことにした。
(つづく)