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マクドで聞いた「自由論」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

先日、都内のマクドナルド某店で聞こえた男性二人組の会話が興味深く、失礼ながらも盗み聞きしてしまった次第。

その内容というのも、まず学生時代に読んだ星新一さんの「味ラジオ」という短編作品が、非常に印象深かったという。

その「味ラジオ」の世界観としては、人類は栄養補給をゼリーやガムで補うことができるのだが、味が全くしないことに困っていたらしい。

そこで、「味覚」をラジオのように切り替えて、自分が好きなものを"自由に選べる"配信サービスというのが、「味ラジオ」という作品だそうだ。

自分の好きな味を自由に選べる。現代ならば、動画配信サービスなどに通じるものがある。

テレビのチェンネル欄に沿って、テレビ局が提供するものを受動的に選ぶのではなく、YouTubeやNetflixなど、自分が検索して、自分が見たいものだけを自由に選択することが出来る。

だが果たして、我々はどこまで自由に選べていると言えるのだろうか。

自由に選べているようで、選びきれていないのである。選択肢が多すぎることが、逆に自由に選ぶことの妨げになっている。

一体この世に、自由に選択できる人間がどれだけいるのだろうか、と。

確かに、テレビの時代と比べたら、個々人が自分で見たいものを選べていると言えよう。とは言え、私でさえ毎日同じ時間に配信している実況動画を楽しみにしている。

それだって、視聴する時間に制限はないものの、テレビと同様きまった時間に提供されるものを見ているに過ぎないではないか。

それに、自由に選べると言っていながらも、やれ今のおすすめはこちらです、他の人はこちらも見ています、学校や会社でこの作品が流行っているなど、周りの影響にも左右されてしまう。

かつて読んだ記事に、現代人が1日に得ることができる情報量は、江戸時代の1年分に値するらしい。それにどのようなエビデンスがあるのかはわからないが、少なくとも、昔と比べて情報が増えているのは事実であろう。

読書であって、昔と比べたら、現代は大量に書籍が出版されている。毎年何万冊も出版されてはトレンドが変わっている。新潮社おすすめの100冊に、角川書店の夏推しなどなど。

すると大切になるのは、受動的に選ぶのではなく、能動的に探すことになるのではなかろうか。

確かに、今なんとなく見続けている動画配信であっても、やはり何かきっかけがあってたどり着いたわけであり、そこには自分で探したという能動的な行動があった。

それが因果関係や逆算思考といった目的意識からくるものなのか、それとも、自分の心が求めているものを探すという理学療法的な話なのかは、解釈が異なるけれども、少なくとも、「これは自らが選んだんだ」という意思が大事なんじゃないかなと、結論づける。

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川口 竜也 / 川口市出身の自称読書家
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