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読書記録「言葉の獣②」

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回読んだのは、鯨庭くじらばさんの「言葉の獣」2巻 リイド社 (2023)です!

鯨庭「言葉の獣」第2巻 リイド社

・あらすじ

美しいだけではない、様々な〈獣〉と出会う東雲とやっけん。対話によって心のうちに見えてきたのは、記憶と記録にまつわる、二つの違った考えだった——。「私は忘れられたくない。みんなに」「なぜみんな記憶に固執するんだろう」

トーチWeb 言葉の獣より抜粋

1巻目をブックオフで表紙買いした漫画。少し遅れて2巻目をアニメイトで購入し、紐解いた次第。

人が発した言葉を「獣」として見れる東雲と、詩や言葉に向き合うやっけん。獣の住む生息地にて、様々な獣(言葉)に出会う物語。

2巻に登場する言葉は、「誹謗中傷」「記憶」

SNSにアップされた東雲が描く「言葉の獣」に対して、「ひどい絵だ」「つまらない」などのコメントを残す人が登場する。

noteなどの文章や創作物を披露する場所においても、時折、心を傷つけるような言葉を投げかける人も、ゼロではない。

私の読書記録に対して、「Amazonのレビューを読んで書いたような感想文だ。本当にその本を読んだのですか?」とコメントを残した人もいる。

表面上では平静を保っているけれども、内心、その一件以来、その記事を見れないでいる。

誹謗中傷を直視すると、壁と床が生肉でできた部屋に、裸足で立たされている感じがする。

同著 13頁より抜粋

言葉の暴力は、心の奥深くに突き刺さる。

その威力を知った上で、怒鳴ったり、平気で人が傷つく言葉を投げかける人もいる。

中には、本人に悪意はなかったけれども、その言葉を聞いて傷ついてしまうこともある。

そんな言葉、無視すれば良い。そう言うのは簡単だけれども、肉体的な痛みと違い、心の傷は、深く食い込んで、癒えることはない。

なぜ、他者に平気で刃物を突き立てられるの?

同著 18頁より抜粋

だとしたら、なぜ言葉や創作物を「記録」しようと思うのか。

noteであれ、誰にも見せる気のない日記であれ、そもそもなぜ自分が書いたもの、創作したものを残そうと思うのか。

先日読んだ古賀史健さんの「さみしい夜にはペンを持てでは、書くことを通じて、自分との対話を目指していた。

改めて読み返した時に、「そんなこともあったなぁ」と、笑い飛ばせるような出来事にすることも、書くことの効用の1つだと。

そこには、この日記を書いている現在(あるいは過去)と、いつの日か日記を読み返す未来といった、時間軸の存在が不可欠である。

記憶ってつまり過去の出来事のことだ。それを取り出して人と眺めたり、それが未来に残るか心配になったり。
ああそうか。私たちはずっと時間の話をしてるんだ。

同著 146-147頁より抜粋

記事や日記を記録しておけば、いずれまた思い出せる。

その日確かに、自分はここに存在したと。

自分が存在したと、他でもない誰かに見てもらいたい。自分以外の誰かに、その存在を肯定してもらいたい。

だから、誹謗中傷などの言葉が投げかけられると、自らの存在自体を否定されたように感じる。

その本を読んだという事実は変わらなくても、「Amazonのレビューだけで書いた」と言われたたら、読んだ時間すら偽りだったのではと思ってしまう。

そしてその記事全体が嫌な記憶となり、長い時間を経ても心に残ってしまう。

だから、人に言葉を与える時は、素敵な言葉を使うようにいたい。

素敵な言葉を使っていれば、おのずと素敵な言葉が返ってくると信じているから。

では、そのように記憶に固執する根源は何だろう、そこで2巻は終了する。3巻発売を首を長くして待っています。それではまた次回!


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