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東京駅前に立つあの人は誰? 「日本の鉄道の父」と呼ばれる人物

東京駅丸の内口広場には、ある人物の銅像が立っています。

これがどのような人物がご存じでしょうか?

今回はその人物を紹介します。日本の鉄道の黎明期を知る話として、お楽しみいただけたら幸いです。


■ 丸の内口広場にある銅像

まず結論から言います。

この銅像の人物は、井上勝氏(1843-1910)です。明治時代に日本の鉄道事業の推進に尽力したことから「日本の鉄道の父」と呼ばれています。

井上氏の銅像は、先ほども述べたように、東京駅丸の内口広場にあります。

そんな銅像あったっけ?」と思う人もいるでしょう。

そう、じつは人通りが少なく、あまり目立たない位置にあるのです。

現在、丸の内口広場は東京の観光名所にもなっているので、毎日大勢の人が訪れています。最近はここを訪れる外国人の方が増えましたし、日没から夜にかけては、ウェディング・フォトの撮影も行われています。

井上氏の銅像は、丸の内口広場の北西の端にあります。

■ 「日本の鉄道の父」と呼ばれる人物

東京駅丸の内口広場にある銅像

次に、井上氏の人物像に迫ってみましょう。

井上氏は、冒頭で述べたように、「日本の鉄道の父」と呼ばれています。明治時代に日本の鉄道事業の推進に尽力しただけでなく、日本最初の営業鉄道(新橋・横浜間)の建設にも関わった人物です。

まさに、日本の鉄道黎明期を語るうえでは欠かせない人物ですね。

銅像の下には、以下のようなプレートがあります。

銅像の下にあるプレート

このプレートは、表面が腐食しているので、写真だけでは読みづらいです。

そこで、写真を拡大して解読したところ、次のような文章が記されていることがわかりました。なお、noteは横書きなので、漢数字はアラビア数字にしました。

井上勝(1843〜1910)
明治期の鉄道専門官僚
江戸時代末期の長州藩(現在の山口県萩市)に生まれる。1863年(文久3年)、英国ロンドンに密航留学し、西欧の近代技術を学び、明治維新直後1868年(明治元年)に帰国。
鉄道専門官僚となって近代日本の鉄道システムを作り上げた。
1872年(明治5年)、日本最初の新橋ー横浜間をはじめ、初期の主要路線の敷設を主導する役割を担い、この功績から「鉄道の父」と呼ばれている。
1910年(明治43年)、欧州鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで息をひきとる。享年68歳。

出典:井上勝氏の銅像の下にあるプレート

ご覧の通り、井上氏の生涯が簡潔に記されています。

ただ、私は以下の一文が気になりました。

1863年(文久3年)、英国ロンドンに密航留学し、西欧の近代技術を学び、明治維新直後1868年(明治元年)に帰国。
鉄道専門官僚となって近代日本の鉄道システムを作り上げた。

井上氏は1843年生まれなので、20歳でロンドンに「密航留学」、25歳で帰国し、鉄道専門官僚になったことになります。

若干20代にして、命懸けで密度の高い日々を送っていますね。

もう、20代の話だけで興味深い情報の量が多く、1冊の本が書けそうです。海外の情報の得ることや、海外に行くことが今よりもはるかに難しかった時代に、密航によってイギリスの地に渡り、5年間で近代技術を学び、帰国して日本の鉄道の基礎を築く。なぜ井上氏はそこまでしたのか。何が彼を突き動かしたのか。そう考えると、興味が尽きないですね。

■ 高層ビルに囲まれて立ち続ける

井上勝氏の銅像と、現在の丸の内のオフィス街

井上氏の銅像は、東京駅に面していますが、彼はその姿を見ずにこの世を去りました。彼がロンドンでの視察中に亡くなったのは、1910年。東京駅が開業したのは、その4年後の1914年(今から110年前)です。

現在の東京駅は、言うまでもなく日本の鉄道網の中心的存在です。東京の日本橋が、多くの国道の起点になっているように、東京駅は多くの鉄道路線の起点となっています。

また、この銅像は、丸の内のオフィス街にも面しています。

明治時代の丸の内は、武家屋敷から原野と化した場所で、西洋の建築技術をとり入れたオフィスビルが少しずつ建ち始めていました。

現在の丸の内は、日本の代表的なビジネス街です。第二次世界大戦後の高度経済成長期に建設されたビルは次々と消え、背が高くて新しい高層ビルに生まれ変わっています。

おそらく井上氏は、自分が銅像になり、日本の鉄道網の中心とも言える駅や、高層ビルが林立するオフィス街に面した場所に立ち続けることになるとは思わなかったでしょうね。


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川辺謙一@交通技術ライター
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