はじめに
ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされ、ペンを武器に昭和動乱期の言論戦を闘い抜いた、昭和期の思想家・葦津 珍彦氏について、神道史視点から卒業論文に基づいて述べているお話です。
今は、昭和20(1945)年・敗戦直後のお話。
葦津氏が神社本廰の設立に向かって携わって行かれるお話。
各月ごとに分けて神社本廰が設立される2月までのお話をいたします。
前回のお話
本年は、葦津氏 帰幽(歿)後30年の節目を迎える年となり、
令和4(2022)年5月30日付「神社新報」新聞の論説にて、
葦津氏にまつわるお話がなされました。
初見の方へ
葦津 珍彦氏は
(明治42(1909)年7月17日~平成4(1992)年6月10日)
福岡市に鎮座する八幡宮に代々奉仕する神職の一家系(社家)出身。
神職を務めた後に事業家として活動していた
葦津 耕次郎氏の長男として福岡で生まれ、10歳の時に東京へ転居。
読書家で中学生時に独創的な思想家になる事を志して独学。
種々の主義思想を比較研究をしている最中、社会主義思想と出会い興味をもったことから約8年間社会主義思想研究に没頭するなど経て、
自身の思想の方向性を固めたのち、昭和7(1932)年より父君の言論活動に助手として協力。父君が経営する社寺工務所を引き継ぎながら、独自の考えを踏まえて政策に関する言論活動をしておりました。
戦前・戦中と政府の政策に対して、物申す活動をされておられた中で、
「ポツダム宣言」に記されている一内容を独自に解釈した結果、連合国軍によって、神道・神社が抹殺されていくことを先読みされ、神社を護るための活動に専念する決意をされました。
昭和20(1945)年8月15日正午、天皇陛下による停戦の大号令の玉音の御放送がなされたあと、神社の鳥居だけでも残したいとの目標を設定して、単独行動を開始。
葦津氏は8月17日に再入閣された、以前より親交がある 緒方 竹虎 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁大臣のもとを訪ね、
「ポツダム宣言」受諾後でも、条件について交渉の余地はまだあることを踏まえ、「ポツダム宣言」にある「宗教・思想の自由」は、神社を自由の障害としていると理解することができるので、この宣言に条件をつけずに承諾すれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろう。」というような、自身のの解釈による危惧を伝えます。
同意した緒方大臣は動いてくれますが、諮問した憲法学者や内務省サイドは「そんなことはない」と緒方大臣の意見を受け入れることはなかったことを聞き、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断され、即刻、親戚と祖父・父君の代より交際のある、神社関係・民間三団体の基柱人物のもとを訪ね、協力を得ます。
今回は、このお話の続きからとなります。
葦津 珍彦氏の話
10月の葦津氏たちの動き
9月中は、占領してきた米国軍の様子を伺いながら、
財団法人・大日本神祇会(元全国神職会)
財団法人・神宮奉斎会(元神宮教)、
財団法人・皇典講究所(のち國學院大學) の
神社関係民間三団体の関係者間で情報交換や対策への意見交換がなされつつ、それぞれで対策準備を整えるための研究がなされて、これらに関する研究を進めました。
そうして9月の終わり頃から対策協議が進められつつあって、
占領下において国が神社の管理を続けて行くことは不可能に近く、
神社は民間団体になるであろうこと予測。
そうなったとしても、神社は昔から民間の信仰によって維持されてきたものであるから、民間団体となっても存続し得るであろう、という見通しで一致しつつあったようです。
そして、10月に入ります。
GHQは10月4日に
「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」
(資料リンク元『国立公文書館デジタルアーカイブ』)
という、自由を抑圧する制度を廃止するように命じた指令を出します。
(通称「自由または人権の指令」)
神宮奉斎会の宮川 専務理事は、この指令が出た後の国内情勢をみて、
国の神社管理の廃止は確実であると判断して、三団体の協議を促進するためには、急速に「有志懇談会」を開かなければならないことを痛感します。
この指令が出されたのち、東久邇宮内閣は解散。
葦津氏は内閣解散後、GHQからの圧力によって無力化していく政府の状況をみて、政府を頼りにせず独自に動くことを決断します。
そして、宮川・吉田 両専務理事等と協議した結果、
「懇談会」という形で、三団体合同の打ち合わせを行うことを決定されました。
神社関係民間三団体による動き
そうしたなかで10月20日には、三団体内での動きが始まり、
終戦に伴う今後の神祇制度や、その他神祇に関する諸問題について
「10月25日に懇談会を行う旨の案内状」を、皇典講究所・理事、大日本神祇会・副会長、神宮奉斎会・会長の代表者の連名で、関係者方面に向けて発送しました。
葦津氏は、この間に以前より神社問題対策協議のための連絡用として、
宮川 専務理事から許可を得て入手していた「全国主要神職名簿」を用いて全国の神社関係者に向けて、神社問題対策に関する私案
『神社制度改革に対する私見』を「神道青年連盟」の名で発送します。
神社関係 民間三団体 有志による初回 合同懇談会
そして予定通りの10月25日、東京都麹町(千代田区)富士見町にある
神宮奉斎会本院にて、初回の三団体合同懇談会が行なわれました。
この時の出席者は約30名。高山 昇 長老が座長をつとめられました。
葦津氏は「※神道青年懇話会」の主宰者として有志と共に出席します。
【註2】※2 非合法出版「光栄」論集
以下の写真は卒論研究当時、泰國氏より提供して頂いた資料をコピーしたもの。提供して頂いたのは第四号まで。第三号にのみ
「昭和26(1951)年5月1日発行/発行責任者 石田圭介」と書かれています。
こちらは全て手書きで作成。葦津氏が「矢嶋三郎」のペンネームで執筆された論文が掲載されています。ご本人が清書されたのかどうかは不明ですが、全論文の筆跡は ほぼ同じに見受けるので、同一人物が清書されていると思われます。
懇談会の主な会談内容は
「神社は近いうちに、国の管理を廃止する指令が正式に出されるので、その場合、神社はどのような対応をしていくべきか」を主問題として意見交換がなされます。
葦津私案「神社制度変革に対する私見」の話
この時に葦津氏は私案「神社制度変革に関する私見」を配布。
「民間の神社連盟を組織し、それによって神社を維持するべきである」との意見を述べられました。
この私案は、
「伊勢神宮をはじめとする勅祭社と、皇室と縁故の深い官国幣社は宮内省の所管に移し、その他の神社は各自独立する民間の法人組織として、これらの神社は合体して全国神社連盟を組織して運営する」という、神社制度変革に対する具体的な方法が述べられている内容となっています。
【以下 全文】
引用文献は 旧仮名遣い・送り仮名カタカナで書かれていますが、
読みやすさを考慮して現代文で書きました。
(スマホで見ると微妙な改行となっています。これはPCで書体を整えた為 )
この日は、この葦津氏私案の意見を中心にして議論がなされ、
葦津氏は力説します。
話を聞いて、宮川 専務理事は、葦津氏の意見に賛成。
吉田 専務理事は賛成ですが、決定については宮川 専務理事に任せる立場をとります。
このとき出席していた、民社の神職方の反応は
「われわれには関係のない話だ。」と冷淡だったそうで、
葦津氏は「これは民社・官社の問題ではない」と力説せねばならなかったと『神社新報五十年史(上)』にて述べられております。
葦津氏は懸命に説明につとめますが結論が出ることはなく、
最終的には座長の高山 長老が「この対策は皇典講究所、神宮奉斎会、神職会の三団体で緊急に即時決議せよ」と発言したことによって、三団体によって対応方針を決定することが決まり、それぞれが対処する案を立てて今後も協議を重ねることを申し合わせました。
そして、高山 長老を委員長とする研究小委員会をつくり、
葦津私案「神社制度改革に対する私見」を原案として、ただちに研究をはじめることとなり、皇典講究所・大日本神祇会(全国神職会)でも
「国の神社管理廃止」を前提として、今後、全国神社を結合する新団体を結成する準備を行うため、11月7日に三団体関係者による相談会を開くことを決定して懇談会を終えました。
終了後、葦津氏は高山 長老から
「難しいことはよくわからぬが、君の説明で事情がよくわかった。何としても君の力でまとめて欲しい」など励ましのお言葉を賜り、
そして「今日は博多帯を締めて来た。」と申されたとのことでした。
当時36歳であった葦津氏にとって、神社界で影響力のある高山 長老の支持を得たことは大きな励みとなり、今後この問題についてこれ以上譲歩しないでまとめる決意をすると同時に、新団体設立に向けて自信をもって発言していかれることとなります。
そして10月25日以降におこなわれた会合では、
宮川・吉田 両氏や一連の関係者等に十分な説明をして、背後で見かねた時だけ発言して会議を進めていかれます。
私案を一読してわかるように、葦津氏には神社界の今後の方向性について明確なビジョンがあり、自身の意見の発言をしていくなどされていたことから、神社本庁の設立に向けての参謀役としてつとめられていた様子が伺えます。
今回の葦津氏のお話は以上となります。
10月の国内の情勢の話
総司令部(GHQ)東京に設置・発足
葦津氏たちが、以上のような活動をしているなか、
9月17日より横浜から東京に移転を開始していたマッカーサー元帥たちは、
10月2日には、占領政策を遂行するための中央機関として、
東京・日比谷にある「第一生命ビル」(地図リンク)にて
「連合国軍 最高司令官 総司令部(以後GHQ)」設置。
発足して執務を開始します。
【資料1】当時の写真
【参照 組織図】
そしてGHQは占領後、都内の様々な建物・施設を接収。
9月15日には、明治神宮外苑野球場などが接収されていきました。
【参照 一資料】
GHQによる政策開始
占領後より米国軍による日本国内の情報統制が始まったことにより、
「日本政府の検閲による情報統制」から
「米国軍による検閲からの情報統制」へと転換しました。
このことにより、日本政府が治安維持のために禁止していた思想や言葉の表現等が解放されていきますので、国内情勢の逆転現象がおきていきます。
そして、これより昭和中期の動乱がはじまっていくこととなります。
こうした中で日本政府側は、
9月28日に天皇陛下とマッカーサー元帥が並んだお写真の掲載がなされた「朝日新聞」「毎日新聞」「読売報知新聞」の3紙の発禁処分を下したことに対して、GHQは翌29日に会見写真を掲載した新聞に対する、政府の発禁処分の取消を指示します。
10/4「自由または人権の指令」覚書を発表
10月3日には、岩田 宙造法務大臣と山崎 巌内務大臣が外国人記者との会見にて「特別高等警察(特高)・治安維持法の廃止を否定し、治安維持法に基づく共産主義者の検挙継続」の発言をします。
これを受けてGHQは10月4日に
これまで反体制的思想や言論に対して厳しく取り締まっていた日本政府に対して、自由を抑圧する制度を廃止させるべく
【資料2】「自由または人権の指令」
「日本管理政策」にもとづいた
「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(資料リンク元『国立公文書館』) 通称「自由または人権の指令」の覚書を発表します。
その主文の一部は以下
この内容は、日本国内におけるこれまでの治安維持法、宗教団体法の廃止を意味しているもので、ポツダム宣言にある「思想、信仰の自由」が命じられている内容となっております。
思想の自由は共産主義等の社会主義の自由と解放をも含むものであったため、この発表を受けて、
山崎 内務大臣は「共産主義運動は部分的に認めるが、国柄の変更や不敬罪を構成する動きは厳重に取り締まる」等の所信を同日付の朝日新聞にて表明しました。
この話については、
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』より引用します。
また、マッカーサー元帥は10月4日に近衛 文麿 国務大臣に憲法改正の必要を示唆。11日には、のちの幣原首相にも同様の見解を示します。
こうした中で、米国務省から派遣された
ジョージ・アチソン最高司令官 政治顧問は、4日に米国務省へ憲法改正問題に関する指示要請の打電します。
指令発表後の日本政府の対応
そして日本政府は、この「自由または人権の指令」を受けて、
治安維持法をはじめ15の法律と関連法令を廃止し、特高警察の解体を命じ、山崎 内務大臣、内務省警保局長、警視総監・警察関係首脳部、
都道府県警察部特高課・全課員 約5,000名を罷免・解雇がなされました。
この指令は、日本政府に対して事前の連絡なしでGHQは公表しましたので、ことにより政府の間接統治下であるとはいえ「直接軍政」の事態が起こりうることが示され、当時の吉田 茂 外務大臣は、占領政策が「共産主義者による革命(赤色革命)」を奨励するものとして、米軍の軍政下に在るかの如き感を覚えたとのことで、この指令に強い衝撃を受けられたそうです。
【資料3】昭和20(1945)年10月5日付
「朝日新聞」記事
こうして翌5日には、当時反抗者として治安維持法で起訴投獄されて牢獄にいた共産党員をはじめ、反体制のリーダー約3000人全員の釈放手続きがなされ、6日には、特高警察の廃止がなされます。
【資料4】昭和20(1945)年10月6日付
「朝日新聞」記事
【資料5】昭和20(1945)年10月7日付
「朝日新聞」記事
以下、上掲記事一部抜粋
( )内は筆者註
【註2】
ネット検索していた際に
「国立国会図書館デジタルコレクション」ウェブサイト内にある、
赤坂一郎著『無産党を動かす人々』という昭和11(1936)年に出版された書籍を偶然発見しました。
今のところ確信するまでには至っていないのですが、
葦津 珍彦氏が使用していたペンネームのひとつであることから気になったので、ざっと流し読みしてみたのですが、語調が葦津氏に酷似しているように思いますので、ご紹介いたします。
赤坂一郎著『無産党を動かす人々 「人民戰線」とは何か?』
(岡部書店、昭和11(1936)年8月)
このことを受けて外務省は5日に
「国体及び共産主義に関する米国の方針」という、米国が神社神道に対して厳しい対応をする恐れがある、との特別報告をして政府内部に警告をしました。
この報告を受けて、当時神社の監督官庁であった「※神祇院(元神社局)」では、米国側の誤解をとくために外務省上記報告後から月末にかけて、「終戦連絡事務局」を介して、GHQに「日本には国教たる神道は存在しない。神社は行政上宗教としての取り扱いをしていないので宗教として取り扱われるべきものではなく、国民道徳的存在として存続し維持するものである」とする等の説明案を作成して説明交渉を繰り返していたとのことです。
このことから、10月の時点での神社神道制度に関する対応策は、政府よりも民間の神社関係者による対策の方が速やかに進んでいたことがわかります。
東久邇宮内閣 総辞職へ
そして、東久邇宮内閣は、山崎 内務大臣が罷免されて内相を失ったと同時に、マッカーサー元帥の内閣への不信任と捉えられ、治安維持に当たる体制護持の責任も果たしえないと判断されたため、5日の午前10時から閣議が開かれて総辞職が決定。
首相宮殿下は参内され、陛下に閣僚全員の辞表を奉呈(ほうてい)されました。
このときのお話について、
竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より引用します。
【資料6】昭和20(1945)年10月6日付
「朝日新聞」記事
以下、上掲記事一部抜粋
幣原 喜重郎 内閣 成立
そして8日に幣原 喜重郎 内閣が組閣。
9日に幣原 内閣が成立します。
組閣にあたり、木戸 幸一 内大臣と平沼 騏一郎 枢密院議長は、
アメリカ側に反感を持たれていない、戦犯の疑いがない、外交に通じている方を基準に後継探しをされます。
6日には、外務官僚の経験を経て、大正13(1924)年 外務大臣に初就任以降、
外務大臣を4度経験された幣原氏に組閣の大命を告げられますが、
当時は引退していて御年73歳だった幣原氏は、このときには内政に興味もなかったことから固辞されますが、陛下より強い督励(とくれい)を拝し受諾され、就任に際し「最後の御奉公」と語られました。
マッカーサー元帥は幣原首相の就任に際し、吉田外務大臣に対して
「年寄りだな、英語は話せるのか」と尋ねられたとのことでした。
【資料7】昭和20(1945)年10月9日付
「朝日新聞」記事
そうしたなか、新聞紙等掲載制限令が廃止され
9日よりGHQによる東京の新聞5社(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)への事前検閲が開始されます(大阪は29日から)
神道の特権の廃止
また、米国政府は6日に「神道の特権廃止」の決定を公表。
日本では、8日に新聞で報道されます。
【資料8】昭和20(1945)年10月8日付
「朝日新聞」報道記事
以下、上掲記事抜粋
また、上掲『神道指令と戦後の神道』に、
こちらについて触れられている内容があるので、引用します。
また、同日付の新聞には、徳田・志賀両氏が語った話の記事が掲載されています。
(【資料6】黄色マーキング個所参照)
以下、上掲記事抜粋
( )内は筆者註
特高警察廃止/反抗者として牢獄にいた共産党員をはじめ反体制リーダー約3,000人全員が釈放される
6日には、特高警察は廃止。
10日には、政治犯釈放命令で府中拘置所より
日本共産党の徳田球一氏、志賀義雄氏、朝鮮独立運動の金天海氏ら16人を含む政治犯が出獄。全政治犯 約3,000人が釈放されました。
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』によると、
徳田球一・志賀義雄 両氏はすでに刑期を終えていましたが、
予防拘禁の名目で東京郊外にある府中刑務所に拘禁されていましたが、
戦前に東京特派員だったフランス通信社(AFP通信)のロベール・ギラン記者が彼らを発見。記者は占領後に米将校服を来て府中を訪れ、ひたかくしにしようとしていた看守に対して、9月30日に鉄扉を開けさせたとのことです。
このとき徳田氏は、ギラン記者に対して
「僕はこの刑務所の扉が開くのを18年間待っていた」と述べたそうで、
志賀氏はマッカーサー元帥宛の英字の手紙を託します。
その手紙を読んだ、マッカーサ元帥の政治顧問付補佐官であった
ジョン・エマーソン外交官が、同僚のエドガートン・ハーバート・ノーマン 外交官(カナダ)と協議して「政治犯釈放指令」を書いたと述べられています。
【資料9】参照写真
釈放された徳田球一・志賀義雄 両氏
10/10 解放された共産主義者たちの活動開始
彼らの出獄時には、雨の中約700名が出迎えたとのことで、
「歓迎出獄革命戦士」「人民共和政府樹立」「朝鮮独立万歳」などのプラカードや赤旗が振りかざされ、刑務所の門前にて、
徳田・志賀・金天海 三氏が天皇制打倒、人民共和政府樹立のため奮闘を誓うと演説を行ない、
午後には、芝区田村町(現在 港区西新橋)にある「飛行館」にて、
人民大会が開かれ、約2000人が集合。デモ行進がなされ、
GHQ総司令部前にて「占領軍万歳!」と叫んで解散しました。
【資料10】日本共産党声明文『人民に訴う』
そして、釈放された徳田氏らは、
天皇制廃止を含む声明書『人民に訴ふ』を発表.します。
以下 全文
これまで非合法で地下活動をしていた「日本共産党」は、
これより合法的に活動できることとなり再建されます。
20日には、昭和10(1935)年より停刊していた、
日本共産党中央機関誌である『赤旗』(現在しんぶん赤旗) が復刊しました。
【資料11】『赤旗』再刊1号の辞
これ以降の話について、
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』にて述べられている内容を引用します。
この活動は現在も継続して行われています。
GHQは、これらの反体制運動が活発になることを期待して、
日本政府に対して厳しい監視の態度を示していきます。
こうしたなかで幣原内閣は組閣しますが、このようになってしまった情勢下の流れもあって、政府は無力化していきます。
11日以降の主な出来事
こうして翌11日には閣議にて、
治安維持法および関連法令の廃止の決定がなされます。
幣原首相は信任挨拶のためGHQを訪問され、マッカーサー元帥と会談。
このときに憲法の自由主義化の示唆および人権確保(民主化に関する) の
「五大改革」の要求がなされます。
【資料12】10/11 幣原首相・マッカーサー元帥 会談記録
13日には、臨時閣議がなされ、憲法改正のための研究開始の決定がなされ、憲法改正の担当者は松本 烝治国務大臣が務められ、
明治22(1889)年2月11日に公布された「大日本帝国憲法」(起草者:井上 毅子爵|リンク元『国立国会図書館』ウェブサイトより)の改正私案である「憲法改正案要綱」(通称:松本試案) の作成がなされて行くこととなります。
また、同日「国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法」など廃止の件が公布されます。
15日には、日本軍部の中枢を担っておりました参謀本部と軍令部が廃止されました。
また「治安維持法・思想犯保護観察法」など廃止の件が公布され、
思想・言論に関する統制はどんどん廃止されていき、文部省は私立学校における宗教教育を認め、キリスト教の教育を容認しました。
16日、マッカーサー元帥は
「今日、日本全国をわたって、日本軍隊の復員は完了して、もはや軍隊としては存在しなくなった・・・約7百万の兵士の投稿という史上に類のない困難かつ危険な仕事は、一発の銃声もひびかせず、1人の連合軍兵士の血も流さずに、ここに完了した」との武装解除完了の言明を出したことにより、
次は民主化に向けての政治的政策へと移行していきます。
神宮 神嘗祭 斎行
こうした中、伊勢の神宮では、恒例祭典の中で最重要のお祭りであります
「神嘗祭」が斎行され、
宮中では17日に天皇陛下御親ら御儀を行わせしめられました。
【資料13】昭和20(1945)年10月17日付
「朝日新聞」記事
以下 上掲記事文
19日以降の主な出来事
19日には、駅名表示が左書きに統一されます。
(当時の横書きは右側から書かれていました)
【資料14】参照写真
22日、 GHQは 「日本教育制度に対する管理政策に関する件」(『文部科学省』HPより) の覚書にて、軍国主義的・国家主義的教育の禁止、教育関係者の審査などを指令。この覚書は、軍国主義的・国家主義的教育を排除して、自由主義的・民主主義的教育体制を樹立するというもので、代議政治・国際平和・基本的人権のための教育を奨励するというような内容となっています。
23日には、読売新聞社にて結成された労働組合によって、
第一次読売争議が起こり、組合による生産管理闘争がなされていきます。
24日、国際連合憲章が発効され、国際連合が正式に成立。
25日、政府は憲法問題調査委員会を設置(委員長 松本国務大臣)
また、警視庁が東京の待合、バーなどの営業を許可します。
30日、GHQは「教育及び教育関係官の調査、除外、認可に関する件」(リンク2段目参照) の覚書にて、連合国軍の占領政策に対して明らかに反対意見をもつ軍国主義教育者の追放を指令。この覚書は、軍国主義的思想や過激な国家主義的思想による諸影響を払拭するため、軍事的経験者・軍と密接な関係にある教員・教育関係者を解雇するという内容となっています。
この頃の神社界
この頃の神社界はというと、10月6日以降の各新聞紙上にて、
「日本国民は神道主義を強制されることなく、学校においても神道が説かれることもなくなる。日本政府は神道施設に対する経済的その他の援助を止めることを要求されるであろう」というような内容の報道が発表されたことにより、神社は国の管理を離れることや支援が得られないであろうことが明らかになりはじめ、各神社の当事者たちは、国の行政から離れた神社の維持はどのようにすればよいのかについて対処しようとする動きが高まっていきます。
そして、幣原内閣の前後から、神社と神道に対して、権力などでおさえつけることを必要とする意見がマスコミなどで公表されるようになっていき、
神道を攻撃する文章が次々と発表され、10月22日には学校と神道との分離令が出されたりしていきましたので、これらの報道をうけて占領軍が神道に対して厳しい対応をしてくるであろうこと察して、活動をはじめる神社関係者もおられたとのことです。
今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拜
次のお話は こちら
【参考文献】
(発行年の書き方は書籍による)
岡田米夫編『神社本庁五年史』(神社本庁、昭和26年5月)
神社本庁編『神社本庁十年史』(神社本庁、昭和31年5月)
葦津珍彦『神社新報編集室記録』(神社新報社、昭和31年5月)
神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
神社新報創刊六十周年記念出版委員会編『戦後の神社・神道-歴史と課題-』(神社新報社、平成22年2月}
神社新報政教研究室編『近代神社神道史』(神社新報社、平成元年7月)
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』(神社新報社、平成18年9月四版)
神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』(神社新報社、平成19年6月)
葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集 第三巻』(神社新報社、平成8年11月)
宮川 宗徳大人伝記刊行会編『宮川宗徳』(非売品、昭和39年1月)
竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、2006年1月)
福永 文夫『日本占領史 1945-1952』(中央公論新社、2014年12月)
【写真等参考文献】
佐久田 繁 編『太平洋戦争写真史 東京占領』(月刊沖縄社、昭和54年9月)
佐藤 洋一(文・構成)『米軍が見た 東京1945秋 終わりの風景、はじまりの風景』(洋泉社、2015年12月)
平塚 柾緒『写真でわかる事典 日本占領史 1945年8月-1952年5月』(2019年5月、PHPエディターズ・グループ)
【参考新聞関連】
「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
入江 徳郎 他編『新聞集成 昭和史の証言 昭和二十年 第19巻』
(SBB出版会、平成3年10月第3刷)