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【連載10】戦後の葦津 珍彦/神道防衛の道(4)[昭和20年10月編/神社本廰設立に向かって②]

【写真】連合国軍最高司令官 総司令部(GHQ)

佐久田さくだしげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』
(月刊 沖縄社、昭和54(1979)年)より転載

はじめに

ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道の防衛者として活躍。
戦後の神社界に大きな影響を与えるなどの活動をされ、ペンを武器に昭和動乱期の言論戦を闘い抜いた、昭和期の思想家・葦津あしづ 珍彦うづひこ氏について、神道史視点から卒業論文学士(文学)に基づいて述べているお話です。

今は、昭和20(1945)年・敗戦直後のお話
葦津氏が神社本の設立に向かって携わって行かれるお話。
各月ごとに分けて神社本廰が設立される2月までのお話をいたします。

前回のお話

【説明】卒論では、葦津氏が「神社新報」新聞の記者(神道ジャーナリスト)として活動する前のことを調べていくうちに、こちらの話もまとめる流れとなりました。筆者の専門的研究分野ではなく知識不足なため、把握していない個所は多々ありますが、当連載では拙論に基づいてこちらの連載用に執筆。卒論執筆中は時間等に余裕がなかったため資料不足や、あとで見直してみると誤っている個所があるため、改めて少しく調べ直して資料も増やしながら加筆投稿しております。

本年は、葦津氏 帰幽きゆう(歿)後30年の節目を迎える年となり、
令和4(2022)年5月30日付「神社新報」新聞の論説にて、
葦津氏にまつわるお話がなされました。 

出典:『神社新報社』ウェブサイトより

初見の方へ

葦津あしづ 珍彦うづひこ氏は
(明治42(1909)年7月17日~平成4(1992)年6月10日)
福岡市に鎮座する八幡宮に代々奉仕する神職の一家系(社家)出身。
神職を務めた後に事業家として活動していた
葦津 耕次郎氏の長男として福岡で生まれ、10歳の時に東京へ転居。

祖父・伯父君は宮司を務められ、父君は神職として約10年奉仕後、
御社殿等の修復や境内を発展させる為に事業家として活動。神道信仰を根底に独自の考えも踏まえた言論活動もされておりました。これらの活動をする中で、当時の陸海軍の将軍、大臣・行政府の長官など多く方々と親交されておりました。珍彦氏は父君が神社の職を退いた後に誕生されました。

読書家で中学生時に独創的な思想家になる事を志して独学。
種々の主義思想を比較研究をしている最中、社会主義思想と出会い興味をもったことから約8年間社会主義思想研究に没頭するなど経て、
自身の思想の方向性を固めたのち、昭和7(1932)年より父君の言論活動に助手として協力。父君が経営する社寺工務所を引き継ぎながら、独自の考えを踏まえて政策に関する言論活動をしておりました。

戦前・戦中と政府の政策に対して、物申す活動をされておられた中で、
「ポツダム宣言」に記されている一内容を独自に解釈した結果、連合国軍によって、神道・神社がまっさつされていくことを先読みされ、神社を護るための活動に専念する決意をされました。

昭和20(1945)年8月15日正午、天皇陛下による停戦の大号令の玉音の御放送がなされたあと、神社の鳥居だけでも残したいとの目標を設定して、単独行動を開始。

玉音の御放送については
拙論「当時のラジオ放送」と「玉音放送」をご参照ください。

葦津氏は8月17日に再入閣された、以前より親交がある 緒方 竹虎 国務大臣 兼 内閣書記官長 兼 情報局総裁大臣のもとを訪ね、

「ポツダム宣言」受諾じゅだく後でも、条件について交渉の余地はまだあることを踏まえ、「ポツダム宣言」にある「宗教・思想の自由」は、神社を自由の障害としていると理解することができるので、この宣言に条件をつけずに承諾しょうだくすれば、日本の国柄は必ず変更され、憲法の改正もしてくるので、神社の存続も危機に立たされるであろう。」というような、自身のの解釈による危惧きぐを伝えます。

同意した緒方大臣は動いてくれますが、諮問しもんした憲法学者や内務省サイドは「そんなことはない」と緒方大臣の意見を受け入れることはなかったことを聞き、これ以上政府に頼っていては間に合わなくなると判断され、即刻そっこく、親戚と祖父・父君の代より交際のある、神社関係・民間三団体の基柱人物のもとを訪ね、協力を得ます。

今回は、このお話の続きからとなります。

葦津 珍彦氏の話

10月の葦津氏たちの動き

9月中は、占領してきた米国軍の様子を伺いながら、
財団法人・大日本神祇会だいにほんじんぎかい(元全国神職会)
財団法人・神宮じんぐう奉斎会ほうさいかい(元神宮教)、
財団法人・皇典講究所こうてんこうきゅうじょ(のち國學院大學) の
神社関係民間三団体の関係者間で情報交換や対策への意見交換がなされつつ、それぞれで対策準備を整えるための研究がなされて、これらに関する研究を進めました。

三団体の説明については
拙論「主な基柱人物」をご参照ください。

そうして9月の終わり頃から対策協議が進められつつあって、
占領下において国が神社の管理を続けて行くことは不可能に近く、
神社は民間団体になるであろうこと予測。

そうなったとしても、神社は昔から民間の信仰によって維持されてきたものであるから、民間団体となっても存続し得るであろう、という見通しで一致しつつあったようです。

そして、10月に入ります。

GHQは10月4日に
政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)
(資料リンク元『国立公文書館デジタルアーカイブ』)

という、自由を抑圧する制度を廃止するように命じた指令を出します。
(通称「自由または人権の指令」)

神宮奉斎会の宮川 専務理事は、この指令が出た後の国内情勢をみて、
国の神社管理の廃止は確実であると判断して、三団体の協議を促進すいしんするためには、急速に「有志懇談会」を開かなければならないことを痛感します。

【註】
宮川 専務理事は、役人(内務省・文部省)
東京市会議員の経験があることから、
法律に明るく、諸判断が早かったのだろうと推察します。

この指令が出されたのち、東久邇宮ひがしくにのみや内閣は解散。
葦津氏は内閣解散後、GHQからの圧力によって無力化していく政府の状況をみて、政府を頼りにせず独自に動くことを決断します。

そして、宮川・吉田 両専務理事等と協議した結果、
懇談こんだん会」という形で、三団体合同の打ち合わせを行うことを決定されました。


神社関係民間三団体による動き

そうしたなかで10月20日には、三団体内での動きが始まり、
終戦に伴う今後の神祇じんぎ制度や、その他神祇に関する諸問題について
「10月25日に懇談会を行う旨の案内状」を、皇典講究所・理事、大日本神祇会・副会長、神宮奉斎会・会長の代表者の連名で、関係者方面に向けて発送しました。
 
葦津氏は、この間に以前より神社問題対策協議のための連絡用として、
宮川 専務理事から許可を得て入手していた「全国主要神職名簿」を用いて全国の神社関係者に向けて、神社問題対策に関する私案
『神社制度改革に対する私見』を「神道青年連盟」の名で発送します。


神社関係 民間三団体 有志による初回 合同懇談会

そして予定通りの10月25日、東京都麹町(千代田区)富士見町にある
神宮奉斎会本院にて、初回の三団体合同懇談会が行なわれました。
 
この時の出席者は約30名高山 昇 長老が座長をつとめられました。
葦津氏は「※神道青年懇話会」の主宰者として有志と共に出席します。

【註】( )内はほぼ筆者註
※神道青年懇話会とは
卒論研究当時、葦津 泰國氏にこの会についてメール経由にてご質問したことがあり、ご返信頂いた文章をそのまま保存しておりますので、泰國氏にご説明いただこうと思います。(以下はメール文コピペ)

葦津 泰國氏による御説明
占領という空気の中で、神社の主張を訴えることは至難の状況でした。
国鉄の駅前の広場や主要な盛り場などでは、占領により力を得た連中が我が物顔で街頭演説やビラ配り、宣伝活動を展開し、これからの時代は、こんな声の身に従って動いていく気配でした。
 
葦津のところにはあしかびりょうの下に葦津が指導していた学生や青年たちが集まっていました。当時まだ、國學院や帝国大学の学生だった者、卒業して神職や教員を目指したもの、応召して戦争が終わって復員した者、様々なものがいましたが、彼らはこの占領の体制で日本が米国やそのグループの指導のもとに、とんでもない方向に流れていくことに危機感を持っていました。というのも、彼らが属していた葦芽寮の卒業生や先輩、彼らと常に優しく接してくれた連中には多くの戦争による死亡者がいる、また、葦津の下には自分が戦時中は下士官で、この戦争で部下たちを多く失ったり、特攻隊の隊員だったのに、戦地で仲間が戦死したのに自分が生き残った。

靖国神社がつぶされそうだと聞いて、命懸けでも神社を守りたいなどと飛び込んできた若者もいました。こんな連中が集まって、葦津の指導下にいたのです。いまのゼミナールのようなものですか。

葦芽寮は葦津珍彦が昭和10年代に様々な事情があって、葦津も納得して、
父に代わって社寺公務所を引き受けた時に、ちょうどいま、渋谷ヒカリエになっているあの敷地の左側(地下鉄側)に設けた社寺公務所の建物を利用して、國學院大學を中心にその他の帝大や日大などの学生を集めて寄宿させる寮として運営させました。

頭山満、今泉さだすけかわつらぼん、その他 はたかけまさ(宗像大社・筥崎宮の宮司を務められた)、九州神職会の人々などの影響を強く受けた神職子弟を中心にした寮で、葦津の妹の夫でもある
幡掛せいこう(のちに伊勢神宮・少宮司を務められます)が指導役でした。

※神職子弟(筆者説明)
こちらのお話では、代々神職の家系出身の國學院大學生で、これから神職として神社奉仕するため神職資格取得に向けて勉強修行中の方々のこと。


そのため葦芽寮の出身である卒業生はいまでも、九州を中心にかなりの数になっています。また、葦芽寮での葦津・幡掛の講義などはその友人たちにも広がって、かなりの範囲にまで人脈は広がっています。

その連中が葦津の話を聞き、街頭に繰り出して神社の立場から街頭演説をしたり、当時始まったばかりのNHK(ラジオ放送)の街頭録音に出て行って懸命に主張したり、葦津の指導のもとに非合法出版で「光栄※2」(論集)を印刷して配布したりしました。

これが現在の神社本庁の神道青年会※3の前身です。
もうその頃のメンバーは多くは残っていませんが、事務局は神社本庁(神社新報社)にあり、いまはもう引退されていますが、神社本庁の渋川謙一さん(故人)が葦津の助手としてまとめていました。当初は組織図で本庁組織とつながっていたものではありませんでしたが、精神的には葦津を通して本庁とも強いつながりを持っていました。

※3 神道青年会
現在の「神道青年全国協議会」の前身となる会。昭和24(1949)年に結成されました。


そんな連中はやがて神社本庁の正式な指定団体として神道青年会ができ、
やがてその指導のもとに氏子青年会※4ができて、公認の正規な活動を始めるようになると、徐々に青年会から離れて、当時他にも彼らは葦津の指導で、各方面にいた葦津の人縁のものや自分らの持つ縁を使って、葦津の指導で情報を集め、将来の問題に準備する神社新報の政教研究室のメンバーになり、その後の神社界の活動の基本を支える組織として動くようになりました。

※4 氏子青年会
昭和31(1956)年頃に結成され、同38(1963)年に「全国氏子青年協議会」が結成されました。

葦津 泰國氏から頂いたメールより

【註2】※2 非合法出版「光栄」論集
以下の写真は卒論研究当時、泰國氏より提供して頂いた資料をコピーしたもの。提供して頂いたのは第四号まで。第三号にのみ
「昭和26(1951)年5月1日発行/発行責任者 石田圭介」と書かれています。
こちらは全て手書きで作成。葦津氏が「矢嶋三郎」のペンネームで執筆された論文が掲載されています。ご本人が清書されたのかどうかは不明ですが、全論文の筆跡は ほぼ同じに見受けるので、同一人物が清書されていると思われます。

葦津氏の論文
中には、歌人で法学者の井上 孚麿(たかまろ)氏の和歌も。
葦津氏は論文を執筆する上で、井上氏より法に関する論理的指導を賜っていました。

懇談会の主な会談内容は
「神社は近いうちに、国の管理を廃止する指令が正式に出されるので、その場合、神社はどのような対応をしていくべきか」を主問題として意見交換がなされます。


葦津私案「神社制度変革に対する私見」の話

この時に葦津氏は私案「神社制度変革に関する私見」を配布。

「民間の神社連盟を組織し、それによって神社を維持するべきである」との意見を述べられました。
 
 この私案は、
「伊勢神宮をはじめとするちょくさいしゃと、皇室と縁故の深いかんこくへいしゃは宮内省の所管に移し、その他の神社は各自独立する民間の法人組織として、これらの神社は合体して全国神社連盟を組織して運営する」という、神社制度変革に対する具体的な方法が述べられている内容となっています。


【以下 全文】
引用文献は 旧仮名遣い・送り仮名カタカナで書かれていますが、
読みやすさを考慮して現代文で書きました。
(スマホで見ると微妙な改行となっています。これはPCで書体を整えた為 )

神社制度変革に対する私見
(1)
 連合国軍の対日政策は、日本の神社制度に対し、根本的変革をするものと予想せられる、変革要求の主旨とする所は、国家と神社との制度的分離絶縁であり、之を具体的にすれば、(1) 官国幣社制度の改変、(2) 神社に対する供進金制度の禁絶、(3) 政府による神職任免制度の廃棄、(4) 氏子制度の禁止等であると考えられる。神社はかかる変革に際して如何なる対策を講ずべきであろうか。これに対する私見を簡単に要領の摘記してみる。

     (1)  神宮を始めとして従来の勅祭社は固より、官国幣社中特に皇室との
   御縁故深き神社(天皇及び皇族の御先祖を祭神とする神社等) 数十社を     
   選び、之を宮内省の所管に移す。従って右数十社の勅祭社のみは、
   行政的には総て宮内省の所管に属する。但各神社の旧氏子、或は崇敬
   者を以て御神徳発揚、神社の経済的維持等を目的とする各神社所属の
   奉賛会を組織せしむることは、是非とも必要であると考えられる。 
   (奉賛会は民間的財団法人組織とする)

    (2)   右宮内省所属の神社以外に対しても、宮内省よりのしんせんへいはく供進の
   御慣例は、可及的御保存相願い度いと考えている。

    (3)   前述数十社の宮内省所管の神社以外の十万余の全国神社は、
   各自独立せる民間の財団法人組織としてその祭祀を保存する。
   これ等の神社は相集いて、全国神社連盟を組織し、下記の目的の
   達成を図る。
  (一) 神社信仰の正しき伝統の保存並びに発揚
  (二) 神社神職の指導監督
  (三) 神職志望者の教育育成
  (四) 各神社の経済的其他の相互扶助
  (五) 全国に散在する崇敬者の集中協力
 
(2)
 然らばこの神社連盟とは如何なる性格のものであるべきか。ここまでは
まず連盟の構成から述べる。

   (1) 各神社は相集いて各神社関係者(神職崇敬者) によりて選出せられたる 
   会長、副会長各一名、理事若干名の役員を置く。理事会は崇敬者
   選出、神職選出の理事を以て構成する。

      (2) 各府県の神社連盟より適当に代表者を選出して、中央連盟評議会を
   構成し、評議会に於いて会長を選任する。中央評議会は連盟の最高決
   議機関であるが、その定時総会は年一度(会期約十日間) とし、総会に
   於て評議会特別委員を選出して、総会に代りて常時重要問題の処理を
   委任する。

      (3) 会長はその任期中連盟を主宰し、中央本部の人事機構、日常事務一切
   は会長の権限に一任せられる。ただ特に重要なる事項に就いては、
   特別委員会の同意を求めなければならない。

      (4) 中央連盟の会長は前述の様に、全国神社関係者によりて選挙せられた  
   役員であるが、連盟は会長の上に総裁を拝戴する。
   連盟所属神社の内、一定有資格の数万神社の例祭(又は三大祭) には、  
   特に総裁より神饌幣帛供進使を差遣するの制度を設ける。

      (5) 各神社の神職の任免は、その首席神職(宮司、社司) にありては、
   崇敬者の選挙によりて決定することを原則とし、中央連盟又は
   府県連盟会長の承認を求める事とする。その他一般神職の任免は、
   原則的には首席神職の権限に属せしめる。万一崇敬者選出の神職にし   
   て、連盟会長が承認を拒否した場合あ、両者の協議によりて決定する
   こととし、協議一致せざるときは、中央に於ては特別委員会、地方に 
   於ては理事会に移し、その決定を以て最終の決定とする。
   (以下写真図参照)

出典:神社新報社編『神道指令と戦後の神道』
付録「神道指令問題」関連資料 251ページより抜粋

(3)
 なお 本案の趣旨とする所に就き、いささか補足的に
説明を加えたいと思う。

 天皇陛下が神宮を始めとし、皇国に於ける尊貴なる神社の祭祀をつかさどたまうことは、陛下のそうより継承し給い、こうえいにのこし給う所の重大なる御権限であり、つ又御責任であるとはいせられる。これ一定の神社の宮内省所管を提唱せる所以である。然し日本の神社は あくまでも君民一体の実を失ってはならぬ。国民の奉賛を無視して神社の意義はない。これ所謂いわゆる 奉賛会設立の意とする所である。

 次に神社連盟は民間の自由なる信仰者(崇敬者と神職) の団体である。
国家と制度的に分離せる後に於ては、崇敬者の自発的、積極的なる意志によりてのみ、神社祭祀の維持は可能である。特に崇敬者の地位について考慮すべきであると考える。

 連盟の会長は全く下からの選出によりて決せられる。けれども選出せられたる会長は、就任期間中に於ては、相当に強力なる権限をせられ、統制力を発揮する。官僚主義を排すると共に、所謂 公式的民主主義制度の陥り易き無秩序と混乱を防止すべき意図を有するものである。なお一部神社の所管を内務省より宮内省に移すことを提案したのに対して、その様な事では意味がないではないか、到底連合国の諒解する所となるまいという疑問を持つ人もある様子なので一言する。

 宗教と国家との分離という事は、近代民主主義、立憲制度の共通原則である。然し民主主義の徹底したる英国の例を見ても、王室の立場は極めて伝統的である。即ち国王は新教(英国教会) の首長であり、戴冠式には特に新教の保護を誓わされ、同教会の重要なる人事任免権を保有せられている。王は王自身教徒たるのみでなく、王が万一 カソリック教を信じ、又はカソリック教徒と結婚せられたるときは、王位を退かねばならない。これは英国の憲法的規律である。近代民主主義国家に於ても、王室の無宗教性を規定せねばならぬ理由はない。
 
 帝国政府(内務省) と宮内省との区別というようなことは、むしろ外人側には極めて理解の容易な事であろうと、私は考えている。

出典:神社新報社編『神道指令と戦後の神道』
(神社新報社、平成18(2006)年9月、4版)
付録「神道指令問題」関連資料
249~252ページより引用

この日は、この葦津氏私案の意見を中心にして議論がなされ、
葦津氏は力説します。

話を聞いて、宮川 専務理事は、葦津氏の意見に賛成。
吉田 専務理事は賛成ですが、決定については宮川 専務理事に任せる立場をとります。

このとき出席していた、民社の神職方の反応は
「われわれには関係のない話だ。」と冷淡だったそうで、
葦津氏は「これは民社・官社の問題ではない」と力説せねばならなかったと『神社新報五十年史(上)』にて述べられております。

【註】
当時、民社の待遇はあまりよろしくなかったので、民社神職方はこのような反応であったのだろうと推察します。
【民社とは】
日本の長い歴史の中で各時代の流れにあわせて神社の格式(ランク/等級)付けの制度が設けられ体系化されていった中で、明治4(1871)年に定められた社格制度では、府県社・ごう社・そん社の各地域の神社を「民社」と申しておりました。いまでも多くは神社の鳥居前に建立されております「社号碑 (社号ひょうとも)」に、旧各社格が記されていたりします。

このランク付けについてわかりやすく申し上げますと、当時は国の管理下でありました各神社の例祭の際に、
皇室(宮内省)・国庫(国家)・府県各郡市町村のどちらから
しんせん幣帛(へいはく) のお供えがなされるのかの分類で、社格のない無格社もありました。
この社格制度は、この後GHQの指令によって廃止されます。

葦津氏は懸命に説明につとめますが結論が出ることはなく、
最終的には座長の高山 長老が「この対策は皇典講究所、神宮奉斎会、神職会の三団体で緊急に即時決議せよ」と発言したことによって、三団体によって対応方針を決定することが決まり、それぞれが対処する案を立てて今後も協議を重ねることを申し合わせました。
 
そして、高山 長老を委員長とする研究小委員会をつくり、
葦津私案「神社制度改革に対する私見」を原案として、ただちに研究をはじめることとなり、皇典講究所・大日本神祇会(全国神職会)でも
「国の神社管理廃止」を前提として、今後、全国神社を結合する新団体を結成する準備を行うため、11月7日に三団体関係者による相談会を開くことを決定して懇談会を終えました。
 
終了後、葦津氏は高山 長老から
「難しいことはよくわからぬが、君の説明で事情がよくわかった。何としても君の力でまとめて欲しい」など励ましのお言葉を賜り、
そして「今日は博多帯を締めて来た。」と申されたとのことでした。

【註】
このときのお話についても泰國氏からお伺いしておりますので、ご説明いただこうと思います。

葦津 泰國氏による御説明

高山おうの話です。高山翁は全国の土着の神社のボスでした。
明治維新の後に、日本には官僚が作ったのではなく、民間の神職たちが自発的に神職会を作りました。私の曽祖父・珍彦の祖父である葦津磯夫が九州の神職を束ねて西海神職会を作りましたが、この葦津の呼びかけに応じて関東の神職をまとめ上げたのが高山昇です。

二人は年齢こそ高く高山は少し若かったが、無類の信仰を続けました。
この人縁が珍彦にまで伝わっています。高山翁はあの会合で格別の議論も発言もしなかった。ただ、珍彦をかばう姿勢が強く感ぜられた。
高山は「よし」と一言言っただけです。ただそれは萬座をまとめてしまう威圧があった。

会が終わって後、高山翁は父に言ったそうです。
「磯夫じいさんから頂いた博多帯を、わしは決断する時は締めていくが、今日もその帯を締めてきた」

【筆者補足】
その後、珍彦氏の妹君が高山家に嫁いだことから親戚関係となりました。

ご説明賜りありがとうございました。拝

当時36歳であった葦津氏にとって、神社界で影響力のある高山 長老の支持を得たことは大きな励みとなり、今後この問題についてこれ以上譲歩しないでまとめる決意をすると同時に、新団体設立に向けて自信をもって発言していかれることとなります。

そして10月25日以降におこなわれた会合では、
宮川・吉田 両氏や一連の関係者等に十分な説明をして、背後で見かねた時だけ発言して会議を進めていかれます。

私案を一読してわかるように、葦津氏には神社界の今後の方向性について明確なビジョンがあり、自身の意見の発言をしていくなどされていたことから、神社本庁の設立に向けての参謀役としてつとめられていた様子が伺えます。

今回の葦津氏のお話は以上となります。


10月の国内の情勢の話

総司令部(GHQ)東京に設置・発足

葦津氏たちが、以上のような活動をしているなか、
9月17日より横浜から東京に移転を開始していたマッカーサー元帥たちは、
10月2日には、占領政策を遂行すいこうするための中央機関として、
東京・日比谷にある「第一生命ビル」(地図リンク)にて
連合国軍 最高司令官 総司令部(以後GHQ)」設置。
発足して執務を開始します。
 

写真:連合国軍 最高司令官 総司令部
佐久田さくだしげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』
(月刊 沖縄社、昭和54(1979)年)より転載

※GHQ(ジーエイチキュー)とは
General《ジェネラル》 Headquartersヘッドクオーターズの略。
連合国側では「Supremeシュプリーム Commanderコマンダー forフォー the Alliedアライド Powersパワーズ」と称されていて「SCAP」と略されています。
【正式名称】
Generalジェネラル Headquartersヘッドクオーターズ ofオブ the Supremeシュプリーム Commanderコマンダー forフォー the Alliedアライド Powersパワーズ
【日本名称】
連合国最高司令官総司令部れんごうこくさいこうしれいかんそうしれいぶ (または 連合国軍最高司令官総司令部)
通称・進駐しんちゅう軍 (占領軍)

【資料1】当時の写真

出典:『写真でわかる事典 日本占領史』より
GHQ(第一生命ビル)から見た
国会議事堂
(昭和20年9/24日撮影)
出典:『米軍が見た東京 1945秋』より
マッカーサー司令官と幕僚たち
資料説明文によると
マッカーサー元帥が顔を合わせるのは
特別な来客以外
ほぼ此処にいるメンバーに限られていたとのこと。
出典:『写真でわかる事典 日本占領史』より

【参照 組織図】

出典:佐久田 しげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』より

そしてGHQは占領後、都内の様々な建物・施設を接収。
9月15日には、明治神宮外苑野球場などが接収されていきました。

【参照 一資料】

写真:江戸東京博物館(現在休館中)
撮影:筆者

【註】
上掲写真資料説明文によると、連合国軍の占領により、都内のさまざまな施設が専用施設として転用。これらの施設へは、日本人は立ち入ることができなかったと述べられています。

GHQによる政策開始

占領後より米国軍による日本国内の情報統制が始まったことにより、
「日本政府の検閲による情報統制」から
「米国軍による検閲からの情報統制」へと転換しました。

このことにより、日本政府が治安維持のために禁止していた思想や言葉の表現等が解放されていきますので、国内情勢の逆転現象がおきていきます。

そして、これより昭和中期の動乱がはじまっていくこととなります。


こうした中で日本政府側は、
9月28日に天皇陛下とマッカーサー元帥が並んだお写真の掲載がなされた「朝日新聞」「毎日新聞」「読売報知新聞」の3紙の発禁処分を下したことに対して、GHQは翌29日に会見写真を掲載した新聞に対する、政府の発禁処分の取消を指示します。

このときのお話についてお知りになりたい方は、
拙書「会見の写真報道」をご参照ください。

10/4「自由または人権の指令」覚書を発表

10月3日には、岩田 ちゅうぞう法務大臣と山崎 いわお内務大臣が外国人記者との会見にて「特別高等警察(特高)・治安維持法の廃止を否定し、治安維持法に基づく共産主義者の検挙継続」の発言をします。

これを受けてGHQは10月4日に
これまで反体制的思想や言論に対して厳しく取り締まっていた日本政府に対して、自由を抑圧する制度を廃止させるべく

【資料2】「自由または人権の指令」

「日本管理政策」にもとづいた
政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書(資料リンク元『国立公文書館』) 通称「自由または人権の指令」の覚書を発表します。

その主文の一部は以下

連合国最高司令部発 日本帝国政府宛 覚書(仮訳)
 (1945年10月4日付) (10月4日18時 接受)
 公民的及び宗教的自由に対する制限除去の件

1. 政治的、社会的、宗教的自由に対する制限並びに種族、国籍、信教乃至ないし 政見を理由とする差別を除去する為 日本帝国政府は

a. 左記(下記)一切のの法律、勅令、命令、条令、規則の一切の条項を廃止しかつ直ちにその適用を停止すべし

(1)思想、宗教、集会及び言論の自由に対する制限を設置し又はこれを維持せんとするもの 天皇国体及び日本帝国政府に関する無制限なる討議を含む

(2) 情報の収集及び弘布こうふに対する制限を設定し又はこれを維持せんとするもの

(3) 其の字句は其の適用に依り種族、国籍、信教乃至政見を理由として何人かの有利または不利に平等なる取扱いをなすもの
 (中略)
(15) 宗教団体法(昭和14年4月8日または同頃公布せられたる昭和14年法律第77号)

(16) 前期法律を改正、補足、執行するための一切の法律、勅令、命令、条例および規則

【以下主な箇所要約的抜粋】
・政治的、社会的、宗教的自由に対する制限並びに種族、国籍、信教に至る政見を理由とする差別を除去する為に、内務大臣等の罷免、思想・言論規制法規の廃止、特高警察の廃止、政治犯の釈放など、法律、勅令、命令、条令、規則一切の条項とその適用を直ちに廃止

・天皇国体及日本帝国政府に関する無制限なる討議を含む
・天皇制批判の自由を含む言論の自由

出典:「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書
『国立公文書館』ウェブサイトより引用

この内容は、日本国内におけるこれまでの治安維持法、宗教団体法の廃止を意味しているもので、ポツダム宣言にある「思想、信仰の自由」が命じられている内容となっております。

思想の自由は共産主義等の社会主義の自由と解放をも含むものであったため、この発表を受けて、
山崎 内務大臣は「共産主義運動は部分的に認めるが、国柄の変更や不敬罪を構成する動きは厳重に取り締まる」等の所信を同日付の朝日新聞にて表明しました。

この話については、
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』より引用します。

敗戦から「自由の指令」まで
この自由の指令と同日付の朝日新聞に、東久邇内閣の山崎内相は「共産党員であるものは拘禁しつづける」と断言、さらに「政府形態の変更、とくに天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考へ、治安維持法によつて逮捕される」と語り、さらに岩田法相も「司法当局としては政治犯人の釈放の如きは今のところ考慮してない。かかる権限は天皇の大権を属し、唯一の具体的方法は陛下の御発意による恩赦以外にない」「共産主義運動は部分的にこれを認めるが、国体の変更や不敬罪を構成する如きは厳重に取締る」との所信を表明して注目された。

しかしこのうな政府の姿勢も、占領権力の前には一たまりもなく、翌五日にはただちに(五日間内に) 大日本帝国の国体および政治体制に対する反抗者として獄に繋がれてゐた共産党員をはじめ、反体制のリーダー三千人全員の釈放手続きがとらされた。釈放された彼らの反体制的活動が、占領軍によつて期待され希望されてゐることを知つて東久邇内閣、体制護持の責任を果しえないと判断して総辞職するにいたつた。

出典:神社新報社編『神道指令と戦後の神道』
8~9ページより引用

また、マッカーサー元帥は10月4日に近衛 文麿 国務大臣に憲法改正の必要を示唆。11日には、のちの幣原首相にも同様の見解を示します。

こうした中で、米国務省から派遣された
ジョージ・アチソン最高司令官 政治顧問は、4日に米国務省へ憲法改正問題に関する指示要請の打電します。

指令発表後の日本政府の対応

そして日本政府は、この「自由または人権の指令」を受けて、
治安維持法をはじめ15の法律と関連法令を廃止し、特高警察の解体を命じ、山崎 内務大臣、内務省警保局長、警視総監・警察関係首脳部、
都道府県警察部特高課・全課員 約5,000名を罷免・解雇がなされました。

この指令は、日本政府に対して事前の連絡なしでGHQは公表しましたので、ことにより政府の間接統治下であるとはいえ「直接軍政」の事態が起こりうることが示され、当時の吉田 茂 外務大臣は、占領政策が「共産主義者による革命(赤色革命)」を奨励するものとして、米軍の軍政下に在るかの如き感を覚えたとのことで、この指令に強い衝撃を受けられたそうです。

【資料3】昭和20(1945)年10月5日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
昭和20(1945)年10月5日付記事より

こうして翌5日には、当時反抗者として治安維持法で起訴投獄されて牢獄にいた共産党員をはじめ、反体制のリーダー約3000人全員の釈放手続きがなされ、6日には、特高警察の廃止がなされます。

【資料4】昭和20(1945)年10月6日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞」昭和20(1945)年10月6日付記事より
一全面記事は【資料4】をご参照ください

【資料5】昭和20(1945)年10月7日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
昭和20(1945)年10月7日付記事より
この辺りからキリスト教関連記事の掲載が増加していきます。
「朝日新聞」昭和20(1945)年10月7日付記事より

以下、上掲記事一部抜粋
( )内は筆者註

特高警察の廃止 昨日全国一斉に
内務省では聯合国最高司令官通牒に基き六日を期し全国一斉に特高警察を廃止することになり、五日全国の地方庁特高課に対しその機能停止を命令した
  
 これにより道、府、県においては特高課、外事課が廃止され、警視庁においては特高部、検閲課が廃止されることになつた

なほこれに伴ひ退職する警察部長各退職部課員の処置に関してはマツクアーサー司令部と打合せの上 後任内相が善処することにならう

德田球一氏ら釈放 日本共産党の十六氏
 府中の東京予防拘禁所に拘禁中の共産党の闘将 徳田球一 、
志賀義雄、西沢隆二、三田村四郎、黒木重徳氏等十六名は
マツクアーサー司令部の政治犯人釈放命令に基き六日当局より釈放を許可された、ただし釈放を許可されたものの差当り 宿舎、衣服、食糧等に困難を感じているので、弁護士栗林敏夫氏等が中心となつて目下これが斡旋をしている、なほ今後の運動方針その他を決定するため取りあへず麹町区富士見町の栗林弁護士宅を仮事務所として同様全国各地より着々釈放される同志の連絡場所とすることとなつた

出獄者を保護
近く釈放される政治犯をおくぶかく迎えるだん体として解放運動犠牲者救援會(会)が六日発足した、神奈川縣小田原市・・・番地内野竹千代氏不明発起人とし事務所を東京丸之内・・・番地二一号館二階 梨木法律事務所に置き廣く全國の家族とも連絡をとり出獄者に寝具、衣料その他の生活必需品をおくるとゝもに 病弱者の病院、医薬品の世話まで行ふ方針である

「朝日新聞」昭和20(1945)年10月7日付記事より引用

血に彩られた”特高”の足跡
文化も人権も蹂躙 言語に絶する拷問も茶飯事
特高警察の歴史は血に彩られた日本社会運動の歴史である、この秘密警察制度は初め社会思想取締りに主眼を置いて全国に網を張りめぐらしたが、
昭和七年六月二十七日従来警視庁総監官房内にあつた外事、特高、労働、内鮮の各課が併合されて特高部として独立するに及んでその網は一層強化された。

この警察制度の用ひた武器は今次撤廃された治安維持法その他の法令であるが、実際の運営はしばしば法規を越えて行なはれた、取調べにあたる警官は言語に絶する拷問を用ひ、遂に死に至らしめた例も少なくない、警察拘置中たおれた左翼の闘志 岩田よしみち氏の歯を食ひしばつたデスマスクは特高警察の一面を語る姿である、彼等が一度狙ひを定めれば事実の有無を問はず留置され、警察から警察へといはゆるたらいまわしが行なはれた、共産主義者が受刑中歯を治療した費用を支払つた友人までを検挙、裁判が実際常識の範囲を越えて活動していたかを物語るものである

 この特高網が本格的に活動した最初の事件は昭和三年の所謂3・15事件 で、この事件で検挙されたものは徳田球一、渡辺政之輔、山本縣蔵、
佐野文夫氏等をはじめ全国で一千数十名の多きに及んだ、この頃の特高は
財閥と結ぶ官僚を背景とし、その重点は無産党並びにこれと関係をもつ
 
 外郭団体と労働運動におかれた、その直後政府は治安維持法の改正によりその取締りを強化し、翌四年の四・一六事件には三・一五にまさる大検挙が行はれ、鍋山さだちか、三田村四郎、佐野学、市川正一氏等約二千名がこの網にかけられた、この両事件の検挙に当つて
 
 特高警察のふるつた暴力は却つて無産党の武装の誘引となつて、五年二月二十六日の田中せいげん、前納善五郎氏等を中心とする再建無産党、七年八月中旬熱海に起つた風間丈吉 岩田義道、宮本けん氏等の新生無産党事件等に於てはテロ行為を伴つた

 右翼団体をもその背景に組み入れるに及んで範囲は急に拡大し、民主主義的文化団体、学者等殆どあらゆる方面に発展した。昭和十一年十二月の人民戦線派の検挙では労農派の山川ひとし、荒畑寒村、日本無産党の加藤かんじゅう、高津正道、黒田義男氏等のほか大内兵衛、有澤広巳、美濃部亮吉氏等学園にまで及んだ、昭和十五年には研究機関である唯物論研究所に手入れを行ひ、獄死した戸坂潤、岡邦雄氏等が投獄され、昭和十六年には俳壇の進歩的分子にまで及んだ 

 大東亜戦争の戦況悪転によつて一層無軌道になつた検挙の手は政治的意図を含んで近衛勢力の打倒を狙つて昭和塾事件を起し、それは更に雑誌編者の逮捕、中央公論、改造両社の解放をまで強行した、これと前後し検挙の手は遂に国務機関の一部にまで伸び、過日無罪になつた企画院事件が起つたのである津田左右吉そうきち教授の如きは学者としての歴史の非科学性を指摘したとの理由で検挙され、特高警察の歩んだ道は学も、文化も、基本人権も無残にふみにじられているのである

【筆者註】
どの論文内で書かれていたのか失念してしまったのですが、
葦津氏自身も戦中に東条内閣の政策に対して糾弾する言論活動をしていた際、目を付けられて特高に検挙された時は、手錠を掛けられた状態でいきなり殴られたりするなどの訊問を受けて、負けじと戦った時の様子が述べられていた文がありました。

出典:『新聞集成 昭和史の証言 昭和二十年 19巻』
(SBB出版会、平成3年10月 第3刷)より引用

【註2】
ネット検索していた際に
国立国会図書館デジタルコレクション」ウェブサイト内にある、
赤坂一郎著『無産党を動かす人々』という昭和11(1936)年に出版された書籍を偶然発見しました。

今のところ確信するまでには至っていないのですが、
葦津 珍彦氏が使用していたペンネームのひとつであることから気になったので、ざっと流し読みしてみたのですが、語調が葦津氏に酷似しているように思いますので、ご紹介いたします。


赤坂一郎著『無産党を動かす人々 「人民戰線」とは何か?
(岡部書店、昭和11(1936)年8月)


関連研究者の方で葦津氏の著書で間違いないと確信できた方は、
コメント欄にて お知らせくださると幸いです。


このことを受けて外務省は5日に
「国体及び共産主義に関する米国の方針」という、米国が神社神道に対して厳しい対応をする恐れがある、との特別報告をして政府内部に警告をしました。

この報告を受けて、当時神社の監督官庁であった「じんいん(元神社局)」では、米国側の誤解をとくために外務省上記報告後から月末にかけて、「終戦連絡事務局」を介して、GHQに「日本には国教たる神道は存在しない。神社は行政上宗教としての取り扱いをしていないので宗教として取り扱われるべきものではなく、国民道徳的存在として存続し維持するものである」とする等の説明案を作成して説明交渉を繰り返していたとのことです。

このことから、10月の時点での神社神道制度に関する対応策は、政府よりも民間の神社関係者による対策の方が速やかに進んでいたことがわかります。

神祇院(じんぎいん):明治の新政府によって、行政・神社制度の改革がなされまして、神道界に大きな変革があったために諸論争が起こり混乱が生じました。こうしたなかで神社制度の整備をた結果、
昭和15(1940)年11月9日には内務省の外局がいきょく(特殊な事務を行うための組織)、神社の祭祀さいし専管(せんかん)した官庁として「神祇院」の新設がなされ、
昭和21(1946)年1月末に廃止されました。

出典:國學院大學日本文化研究所編
『縮刷版 神道事典』など

東久邇宮内閣 総辞職へ

そして、ひがしにのみや内閣は、山崎 内務大臣が罷免されて内相を失ったと同時に、マッカーサー元帥の内閣への不信任と捉えられ、治安維持に当たる体制護持の責任も果たしえないと判断されたため、5日の午前10時から閣議が開かれて総辞職が決定。
首相宮殿下は参内され、陛下に閣僚全員の辞表を奉呈(ほうてい)されました。

このときのお話について、
竹田 恒泰氏の著書『語られなかった皇族たちの真実』より引用します。

○東久邇宮内閣総辞職
(前略) 内務大臣は即日辞表を提出する。それを受けた東久邇宮首相はその夜のうちに内閣を総辞職する決意を固めた。(中略) マッカーサー元帥との直近の会見で、元帥は大臣を替える必要はないと発言していた。にもかかわらず、今日になって内務大臣の罷免要求を出してくるのは、元帥が内閣を信用していないからであると東久邇宮首相は考えたのだ。宮はこの日の日記にこう記す。

「現在の状況では内閣独自の考えでは何事もすることができない。万事、連合国総司令部の指令にもとづいてしなければならない。敗戦国日本としても止むを得ないこととはいいながら、こんなことでは、今後内閣が続いても何事もなし得ないだろう。今後は英、米をよく知っている人が内閣を組織して、連合国と密接な連絡のもとに政治を行うのが適当であろう。これらの理由で、内閣総辞職するのがよいという結論に達した」(東久邇なるひこ『一皇族の戦争日記』) 

・・・天皇の名で重刑に処せられた人々を、連合国の指名ではなく、
天皇の名で許すことが実現しなかったことは、東久邇宮にとって大きな心残りだった。終戦の翌日に誕生した皇族内閣は、在職期間わずか54日という、我が国の憲政史上類を見ない短命内閣となった・・・東久邇宮内閣は見事にこの大役を成し遂げたのである。宮日記は10月9日の次の一文で終了している。

「本日、内閣総理大臣を依願免官となり、在職五十余日でやっと大任を終ったので、川崎別荘に行き、久振りで休憩し、ぐっすり寝る」 

出典:竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』
183~185ページより引用

【資料6】昭和20(1945)年10月6日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
昭和20(1945)年10月6日付記事より

以下、上掲記事一部抜粋

東久邇宮内閣總辭(総辞)職
マ元帥通牒に對處(対処) 適任の内閣を期待
 きのふ 闕下けっかに辭(辞)表をほうてい


山崎内相の罷免、特高警察の全、政治犯人の釈放、治安維持法の撤廃等の採択し來つた聯合国最高司令官の声明は四日午後
六時過ぎ政府に到達したので、緒方内閣書記官長は同夜八時東久邇首相宮邸に伺候しこう、これが対策について協議申上げた結果、内閣自体の進退について重大な考慮をはらざるを得ない段階に立至つた、よつて政府は五日午後十時半より首相官邸に閣議を開◆◆文字不明首相宮殿下より別項の如く内閣總辭職にかんする重要御はつ言があった、これに対し全閣僚異議なく これを承認、直ちにその場で辞表をとりまとめ、十一時五分閣議は一旦休憩、東久邇宮首相殿下には午後一時十五分参内 天皇陛下にはいえつ仰付おおせつけられ 闕下(けっか) に表をほうていした、一時五十分閣議を再開、首相宮より辞表捧呈の次第を御報告の後 同二時散會した

終戰事務一段落 首相宮御發言
東久邇首相宮殿下は五日の不明頭内閣總辭職について次の如く御發言遊ばされ、終戦時における國内人心不安の中に組閣をし、最大終戦事務たる
一、陸、海軍人の復員  一、聯合軍進駐の二問題は何れも順調にしんちょく、一段落を見、組閣の任務は一おう完了したのでこれを機會に総辞職を決行したいと内閣総辞職の理由を明らかにされた

この内閣組閣時はポツダム宣言受諾の直後にして天皇陛下の御しんねんは申すまでもなく  
人心極度に不安にして同時如何なる事件の勃発せんやも測り知られざる情勢にありたり、しかるに一箇月半最大の終戰事務たる陸、海軍の復員も順調に進捗し。合軍の進駐も開始以來同等の事故なく今日におよび所謂いわゆる終戦事務は一段落を見、組閣の任務は一應完了したり、よつてこの機會に骸骨を乞いたてまつり更により適任なる内閣の出現を希望したいと思

「朝日新聞」昭和20(1945)年10月6日付記事より引用

幣原 喜重郎 内閣 成立

そして8日にしではら 喜重郎 内閣が組閣。
9日に幣原 内閣が成立します。

組閣にあたり、木戸 幸一 内大臣と平沼 一郎 枢密院議長は、
アメリカ側に反感を持たれていない、戦犯の疑いがない、外交に通じている方を基準に後継探しをされます。

6日には、外務官僚の経験を経て、大正13(1924)年 外務大臣に初就任以降、
外務大臣を4度経験された幣原氏に組閣の大命を告げられますが、
当時は引退していて御年73歳だった幣原氏は、このときには内政に興味もなかったことから固辞されますが、陛下より強い督励(とくれい)を拝し受諾され、就任に際し「最後の御奉公」と語られました。

マッカーサー元帥は幣原首相の就任に際し、吉田外務大臣に対して
「年寄りだな、英語は話せるのか」と尋ねられたとのことでした。

【資料7】昭和20(1945)年10月9日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
昭和20(1945)年10月9日付記事より

そうしたなか、新聞紙等掲載制限令が廃止され
9日よりGHQによる東京の新聞5社(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)への事前検閲が開始されます(大阪は29日から)


神道の特権の廃止

また、米国政府は6日に「神道の特権廃止」の決定を公表。
日本では、8日に新聞で報道されます。

【資料8】昭和20(1945)年10月8日付
「朝日新聞」報道記事

「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
昭和20(1945)年10月8日付記事より

以下、上掲記事抜粋

神道の特権廃止 個人の信仰は容認
【ワシントン特電六日発=AP通信特約】
米国政府は今回日本の国教としての神道を廃棄せしめたることに決定した旨正式に発表した、今回の措置は日本を平和国家に改造するうへに最も徹底的な措置の一つであるが、それは個人として日本人が神道を信仰することを妨げないとされている。しかしながら今後日本の神道は政府の支持を失ひ、
国民に対して公に強制するやうなことはできなくなるわけである、右政策は国務省の極東部長ジョン・カーター・ヴィンセント氏によつて六日公表された、ヴィンセント氏及び政策立案者二名はラジオを通じ、日本占領政策に関する諸問題につきこうはんな報告を行つたが、ヴィンセント極東部長は次の諸点を闡明(せんめい)した

一、マツクアーサー元帥と国務省との間には何ら緊迫した関係はない
二、日本占領は復員が終り、武装解除が完了し、自由主義的な改造が円滑に 
  軌道に乗るまで継続される
三、日本人はもし彼等が欲するならば天皇制を維持することが出来る、
  しかしながらそれは根本的に修正されねばならない

ヴィンセント氏は天皇の御身については何等言及しなかつたが、マツクアーサー元帥は如何なる役人でも免官出来る点を強調した左(下)の如く言明した
「日本を支配した旧ギャングは退場しつつある、それは東久邇宮内閣の総辞職を惹起したやうな変化となつて現れている」

「朝日新聞」昭和20(1945)年10月8日付記事より引用

また、上掲『神道指令と戦後の神道』に、
こちらについて触れられている内容があるので、引用します。

十月八日、幣原内閣が組閣された。この前後から、日本国民の精神的な伝統の本質を徹底的に破砕するために、神社と神道に対する強圧の必要を主張する意見が、マスコミなどで公表されるやうになつた。
(上掲新聞記事同引用のため中略)
また、同日(8日)付の在日進駐軍の機関紙スターズ・アンド・ストライプス紙は、次のやうな神道批判をおこなつてゐる。

  神道ー「神の道」ー は愛国的であり、天皇に臣として仕へ、すべての国の掟を遵法するのを旨としてゐる宗教である。百パーセント愛国心に固まってゐる神道主義者は、正直、寛容、正義のあらゆる疑問をねつけて国家にとつて善なるものが正しく、害あるものは悪いのだと確信してゐる。神道についての外国の批判は、これを国家に対して個人を完全に屈従せしめる手段と見、「この宗教は、国民を従順にしておき、支配階級の優越性を維持する恰好の手段である。また神道は、日本人が神の後裔であり、世界を支配する ‶輝かしい運命” を担ってゐると教へて来た。当然、神道は国民に戦争への正義観を植つけてきたことの罪を負はねばならぬ。」と言つてゐる。

 神道は神代に繋がる長い歴史を持つてゐる。しかしあらゆる観点から、それは ‶戦争の生みの子” といふ名札を貼ることができる。神道は真珠湾直前までは、国民の間になんの優越性も支配力も もつてゐなかつた。神道が日本国内に発達した唯一の宗教であるといふ事実にも拘らず、その国の古代及び中世の歴史を通じて、広く一般の間に受け入れられることはできなかつた。
その代わりに、仏教と儒教が日本国民の宗教生活を支配した。

 一八六七年、明治天皇が将軍の権力を剥奪して、皇室の権利をかいふくせられた。時の政府は直ちに神道を一般化する運動を開始した。暫く神道は繁栄したが、しかしこれは竜頭蛇尾に終り、その世紀の終わり頃には再び比較的ぼうぜんとなつてしまつた。
一九四〇年になつて政府は国民の団結と国家主義を支那並に発展させるやうに努めた。この運動に神道の答へたものは、古式による禊を強調して「人体を水によつて浄化する」ことであつた。

 間もなく退役将軍や提督、実業家の他著名人が遠い昔の神の御名を唱へながら清流に身を濯ぐことを始めた。真珠湾攻撃の前後には神道は歴史始まつて以来の地位を占めて、戦中を通じ国民の宗教生活を支配して来た。

このやうな神道攻撃の文章が次々に発表されるのに対して、占領軍はきつと、きびしい神道政策を打出して来るに違ひないと早くも察して、活動をはじめてゐる神社人もゐた。しかるに、このやうな動きに対して政府側は全く時局の判断に暗く、幣原首相をはじめ政府の機関は、全く何の効果的対策をもたてえないでゐた。このやうな政府当局の動きの鈍さが結局、こののち長い間日本を苦しめることになつた。

十月十日付の朝日新聞をみると、首相は外人記者との会見で、「米国務省の出した神道政策に対して、政府はどうするつもりなのか」と詰問されても、「神道をはつきり国教といふことはできぬ。神道が西洋流のいはゆる宗教であるかどうかといふことは前から疑問となつてゐたところだ。私は神道を極端に国家主義的であるとは思はぬが、かういう国家主義的目的のためにこれを利用した者はある。」と、政策のないあいまいな返事をするのみで、全く時局の進展に気がついてゐない風であつた。

出典:神社新報社編『神道指令と戦後の神道』
9~11ページより引用

また、同日付の新聞には、徳田・志賀両氏が語った話の記事が掲載されています。
(【資料6】黄色マーキング個所参照)

昭和20(1945)年10月8日付記事より

以下、上掲記事抜粋
( )内は筆者註

吊るす、なげうつ、蹴る
札附監視が重なる暴力行使 德田、志賀兩氏語る

七日朝 府中刑務所のいちぐうにある白い建物の予防拘禁所では「おやぢさん」の尊称をたてまつられて
徳田球一氏や志賀義雄氏はじめ釈放を許可された往年の日本共産党の闘士
十六名が、十数年振りで晴ればれと秋空を仰いで自炊の味噌汁をすすつていた、

刑務所の食糧一日八銭より一銭高い費用でまかなふ食事である、淡青色 (たんせいしょく) のスフ (ステープルファイバー の略) の囚人服をまとつた闘士連は弾んだ声で感想を語つたが、獄死した三木清氏のことに及ぶと志賀氏は「三木さんは豊多摩刑務所で『まむし』と呼ばれてゐる小澤監視部長に殺されたのだろう」と激しい語調で言ひ切つた、

徳田氏は二階のきょ室に案内してくれた扉のかぎあなには木がはめ込んである 徳田氏は「これは終戦後大急ぎで詰めたもので、鍵は掛けてなかつたといわけにした木っ端役人の仕様だ」と説明して、看守に『君は出て行きたまへ』と軽くいひ渡す
「当局の弾圧で殺されたものは実際何人あるか知れませんよ」と氏は言葉を継いだ「私も網走の刑務所で焼き入れられて右腕を動かされなくされました、同志のこくりょう伍一郎は さかい刑務所で獄死しました、巣鴨刑務所の小越監視部長も非常な男で、吊るす、打つ、蹴る、彼のために同志が何人殺されたでせう」

 わかりやすいように、両氏が語る言葉に「」を付けました。

特高警察廃止/反抗者として牢獄にいた共産党員をはじめ反体制リーダー約3,000人全員が釈放される


6日には、特高警察は廃止

10日には、政治犯釈放命令で府中拘置所より
日本共産党の徳田球一氏、志賀義雄氏、朝鮮独立運動の金天海氏ら16人を含む政治犯が出獄。全政治犯 約3,000人が釈放されました。

佐久田 しげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』によると、
徳田球一・志賀義雄 両氏はすでに刑期を終えていましたが、
予防拘禁の名目で東京郊外にある府中刑務所に拘禁されていましたが、
戦前に東京特派員だったフランス通信社(AFP通信)のロベール・ギラン記者が彼らを発見。記者は占領後に米将校服を来て府中を訪れ、ひたかくしにしようとしていた看守に対して、9月30日に鉄扉を開けさせたとのことです。

このとき徳田氏は、ギラン記者に対して
「僕はこの刑務所の扉が開くのを18年間待っていた」と述べたそうで、
志賀氏はマッカーサー元帥宛の英字の手紙を託します。

その手紙を読んだ、マッカーサ元帥の政治顧問付補佐官であった
ジョン・エマーソン外交官が、同僚のエドガートン・ハーバート・ノーマン 外交官(カナダ)と協議して「政治犯釈放指令」を書いたと述べられています。

【資料9】参照写真

釈放された徳田球一・志賀義雄 両氏

左・徳田氏  右・志賀氏
出典:上掲『太平洋戦争写真史 東京占領』より

10/10 解放された共産主義者たちの活動開始

彼らの出獄時には、雨の中約700名が出迎えたとのことで、
「歓迎出獄革命戦士」「人民共和政府樹立」「朝鮮独立万歳」などのプラカードや赤旗が振りかざされ、刑務所の門前にて、
徳田・志賀・金天海 三氏が天皇制打倒、人民共和政府樹立のため奮闘を誓うと演説を行ない、
午後には、芝区田村町(現在 港区西新橋)にある「飛行館」にて、
人民大会が開かれ、約2000人が集合。デモ行進がなされ、
GHQ総司令部前にて「占領軍万歳!」と叫んで解散しました。


【資料10】日本共産党声明文『人民に訴う』

そして、釈放された徳田氏らは、
天皇制廃止を含む声明書『人民にうた』を発表.します。

以下 全文

人民に訴ふ 
 日本共産党出獄同志 徳田 球一 志賀義雄 外一同
一、ファシズム及び軍国主義からの世界解放のための聯合国軍隊の日本進駐
  によつて日本に於ける民主々義革命のたんしょ
  開かれたことに対して我々は深甚(しんじん) の感謝の意を表する。

二、米英及聯合諸国の平和政策に対しては我々は積極的に之を支持する。

三、我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基く人民共和政府の樹立
  にある。

   永い間の封建的イデオロギーに基く暴悪な軍事警察的圧制、人民を
  家畜以下に取扱ふ残虐な政治、殴打拷問、牢獄、虐殺を伴ふ植民地的
  搾取こそ軍国主義的侵略、中国、比島(フィリピン) 其他に於ける侵略に伴ふ
  暴虐、そして世界天皇への妄想と内的に緊密にむすび|合《あ
  わ》せるものであつて、これこそ実に天皇制の本質である。彼等の実家
  広告的文句はかえりて彼等の欺瞞性を暴露せるものである。

   かかる天皇制、即ち天皇とその宮廷、軍事、行政、僚、
  貴族、寄生的土地所有者及独占資本家の結合体を根本的に一掃すること
  なしには、人民は民主々義的に解放せられず、世界平和は確立せられる
  ものではない。即ちポツダム宣言は遂行せられるものではない。

四、飢えと寒さと家なき死線へのきゅうはく状態は、
  かかるあくぎゃくな天皇制を維持して軍国主義の復活
  に備へることに熱中する天皇の宮廷、軍事行政官僚と独占資本家との
  総合による現政府によつては、いささかも改善せられることなきのみ 
  か、現に刻々悪化しつつある。軍国主義と警察政治の一掃に日本民族の
  死滅からの解放と世界平和の確立の前提条件である。この任務は人民政
  府によつてのみ遂行せられる。

五、寄生的土地並に山林原野を主とする遊休土地の無償没収と其の農民への
  無償分配、労働組合の自由、団体交渉権の確立、失業保険、八時間労働
  制を含む労働者、勤務者の生活改善、信教の自由、軍閣官僚と独占資本
  の為の統制の廃除と労働者、農民勤務者 其他の抑制された一切の人民
  の為の統制、十八歳以上の男女の選挙権による国民議会の建設、刑法中
  の皇室に対する罪、治安維持法、治安警察法等悪虐法の撤廃なしには
  刻下の急務は遂行せられず、ポツダム宣言による民主々義の樹立と完成
  も世界平和の確立もすいほうに帰すであらう。

六、かかる任務は封建的圧制の下に天皇制の権力と妥協しつづけて発展した
  ニセ自由主義、ニセ社会主義である天皇支持者達の指導によつて果され
  るものではない。彼等は天皇制と共に欺瞞を自己保存の武器とした為に
  人民大衆の信頼を失つている。又国際的にも信頼せらるべき何等の事蹟
  をも有せぬ。

七、今ここに解放された真に民主々義的な我々政治犯人こそ此の重大任務を
  人民大衆と共に負ふ特異の存在である。我々はこの目標を共にする一切
  の団体及勢力と統一戦線を作り、人民共和政府も又かかる基盤の上に
  樹立されるであろう。
   
  我々は何等むくいらるることを期待することなき献身を以て
  この責任を果すことにまいしんするであろう。

                   一九四五年十月十日

出典:『新聞集成 昭和史の証言 昭和二十年 第19巻』
(SBB出版会、平成3年10月、3刷)
393~394ページより引用

これまで非合法で地下活動をしていた「日本共産党」は、
これより合法的に活動できることとなり再建されます。

20日には、昭和10(1935)年より停刊していた、
日本共産党中央機関誌である『赤旗』(現在しんぶんあかはた) が復刊しました。

出典:『新聞集成 昭和史の証言 昭和二十年 第19巻』より

【註】
のちの昭和25(1950)年7月18日、マッカーサー元帥により「アカハタ」(翌年に改題) の無期限発行停止を命令されますが、
同27(1952)年に サンフランシスコ講和条約が発効されたことにより再刊されて現在に至ります。


【資料11】『赤旗』再刊1号の辞

再刊の辞[10月20日 赤旗]
日本の労働者、農民、勤務者及び一切一切の人民大衆諸君!
 諸君の先頭に立つて多年に亘る闘争をつづけた日本共産党の機関紙(組織者)アカハタがここに再刊される。

 われわれの多年の敵だつた天皇制は聯合諸国民とその武力、国内におけるわれわれの反対によつて今や急速にその暴威をうしないつつある。しかも彼らは依然として政府の地位を独占して、ただ自己の利益を守ることだけにあくせくするばかりで、さしせまる人民の飢餓と死滅を防ぐためには少しも有効な手段を実行しない。

 われわれ日本人民は、もはや彼らが何かしてくれるであらうといふ空しい期待の中にぢつとしていてはならない。われわれは労働組合、農民委員会
(はたらく農民のすべてを含む各地の戦闘的組織) その他の組織を持ち、
その力をもつて、人民の生活を自ら救ふ以外にみちはない。

 急激に発展して行く現代日本の諸情勢は諸君自らおどろくほどであらうが、一切の新聞はこれを指導する能力をうしなつて ただ、ごまかしとおっかけでまごまごするばかりだ。

 アカハタはこの時勢のほんりゅうの中に、すべての人民のたたかひの旗印となるものである。それはただ宣伝せんどうのためではなくて、組織者として人民のあらゆる層の中に入りこむものだ。

 諸君、このアカハタはかつて諸君の熱烈にして献身的な協力によつて、あの暴圧の下でも刊行をつづけた。今やその暴圧はなくなつたとはいへ、諸君の同情と支援なくしてはアカハタ再刊の任務は達成されぬ。

 諸君よ、ともにアカハタを偉大なたたかひの旗印たらしめるために努力しやうではないか。

 終りに、諸君があらゆる努力をもつて本誌を敵側に渡さぬやう注意せられんことをおねがひする。

出典:上掲『新聞集成 昭和史の証言 昭和二十年 第19巻』
393ページより引用

これ以降の話について、
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』にて述べられている内容を引用します。

米占領軍の管理がはじまつて一ヶ月間、占領政策の進展に対して不安の空気はただよながら、ともかくも政治の面では大した混乱現象を呈することなくすぎてきた日本の状況は、ここにきて激しい嵐の中にまきこまれるにいたつた。獄中から出て来た反体制のリーダーたちは、ラヂオや出版物、マスコミなどを利用して、過激な天皇制の批判をはじめた。いままで日本人が聞いたこともなかつたやうな激しい言論が猛然と起り、激烈な主張をもつた激しい集会やデモがおこなはれ、状況は全く一変してきた。

出典:神社新報社編『神道指令と戦後の神道』9ページより引用

この活動は現在も継続して行われています。


GHQは、これらの反体制運動が活発になることを期待して、
日本政府に対して厳しい監視の態度を示していきます。
こうしたなかで幣原内閣は組閣しますが、このようになってしまった情勢下の流れもあって、政府は無力化していきます。

11日以降の主な出来事

こうして翌11日には閣議にて、
治安維持法および関連法令の廃止の決定がなされます。

幣原首相は信任挨拶のためGHQを訪問され、マッカーサー元帥と会談。

このときに憲法の自由主義化の示唆および人権確保(民主化に関する) の
「五大改革」の要求がなされます。   

【註】
五大改革
(婦人解放・労働組合結成奨励・学校教育民主化・秘密審問司法制度撤廃・経済機構民主化)
憲法改正ならびに人権確保のための
①婦人の解放 ②労働組合の助長 ③学校教育の自由主義化
④秘密警察制度の廃止 ⑤日本経済の民主化

【資料12】10/11 幣原首相・マッカーサー元帥 会談記録

【参照資料】
幣原首相・マッカーサー会談 記録

出典:『国立国会図書館』ウェブサイト
「日本国憲法の誕生/資料と解説」1ー20より
外務省による外交記録

13日には、臨時閣議がなされ、憲法改正のための研究開始の決定がなされ、憲法改正の担当者は松本 じょう国務大臣が務められ、
明治22(1889)年2月11日に公布された「大日本帝国憲法」(起草者:井上 こわし子爵|リンク元『国立国会図書館』ウェブサイトより)の改正私案である「憲法改正案要綱」(通称:松本試案) の作成がなされて行くこととなります。

また、同日「国防保安法・軍機保護法・言論出版集会結社等臨時取締法」など廃止の件が公布されます。

15日には、日本軍部の中枢を担っておりました参謀本部と軍令部が廃止されました。
また「治安維持法・思想犯保護観察法」など廃止の件が公布され、
思想・言論に関する統制はどんどん廃止されていき、文部省は私立学校における宗教教育を認め、キリスト教の教育を容認しました。

16日、マッカーサー元帥は
「今日、日本全国をわたって、日本軍隊の復員は完了して、もはや軍隊としては存在しなくなった・・・中略約7百万の兵士の投稿という史上に類のない困難かつ危険な仕事は、一発の銃声もひびかせず、1人の連合軍兵士の血も流さずに、ここに完了した」との武装解除完了の言明を出したことにより、
次は民主化に向けての政治的政策へと移行していきます。


神宮 神嘗祭 斎行

こうした中、伊勢の神宮では、恒例祭典の中で最重要のお祭りであります
かんなめさい」が斎行され、
宮中では17日に天皇陛下おんみずかおんを行わせしめられました。

【資料13】昭和20(1945)年10月17日付
「朝日新聞」記事

「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
昭和20(1945)年10月17日付記事より

以下 上掲記事文

けふ神嘗祭 宮中で御儀
神嘗祭の十七日、天皇陛下には午前十時しん殿でん南庭の御座にしゅつぎょ、神宮を御ようはいののちかしこどころおおまえに進ませられてしんぱいつげぶみそうせられてにゅうぎょ、ついで皇太后陛下の御代拜をせいかん寺 事務官が奉仕、御参列の秩父宮妃、高松宮、三笠宮、宮、竹田宮、
李王各殿下はいれい、職員の拜禮が行はれる

 なほ同日神宮へは勅使として九條しょうてんさんこう ほうべいせしめられる

伊勢の神宮の正式名称は「じんぐう」と申します。

19日以降の主な出来事

19日には、駅名表示が左書きに統一されます。
(当時の横書きは右側から書かれていました)

【資料14】参照写真

昭和20(1945)年10月6日に米軍が撮影した
東京 有楽町駅・日比谷口

出典:佐藤 洋一『米軍が見た 東京1945秋 終わりの風景、はじまりの風景』より

22日、 GHQは 「日本教育制度に対する管理政策に関する件」(『文部科学省』HPより) の覚書にて、軍国主義的・国家主義的教育の禁止、教育関係者の審査などを指令。この覚書は、軍国主義的・国家主義的教育を排除して、自由主義的・民主主義的教育体制を樹立するというもので、代議政治・国際平和・基本的人権のための教育を奨励するというような内容となっています。

23日には、読売新聞社にて結成された労働組合によって、
第一次読売争議が起こり、組合による生産管理闘争がなされていきます。

24日、国際連合憲章が発効され、国際連合が正式に成立。
25日、政府は憲法問題調査委員会を設置(委員長 松本国務大臣)
また、警視庁が東京の待合、バーなどの営業を許可します。

30日、GHQは「教育及び教育関係官の調査、除外、認可に関する件」(リンク2段目参照) の覚書にて、連合国軍の占領政策に対して明らかに反対意見をもつ軍国主義教育者の追放を指令。この覚書は、軍国主義的思想や過激な国家主義的思想による諸影響を払拭するため、軍事的経験者・軍と密接な関係にある教員・教育関係者を解雇するという内容となっています。

この頃の神社界

この頃の神社界はというと、10月6日以降の各新聞紙上にて、
「日本国民は神道主義を強制されることなく、学校においても神道が説かれることもなくなる。日本政府は神道施設に対する経済的その他の援助を止めることを要求されるであろう」というような内容の報道が発表されたことにより、神社は国の管理を離れることや支援が得られないであろうことが明らかになりはじめ、各神社の当事者たちは、国の行政から離れた神社の維持はどのようにすればよいのかについて対処しようとする動きが高まっていきます。

そして、幣原内閣の前後から、神社と神道に対して、権力などでおさえつけることを必要とする意見がマスコミなどで公表されるようになっていき、
神道を攻撃する文章が次々と発表され、10月22日には学校と神道との分離令が出されたりしていきましたので、これらの報道をうけて占領軍が神道に対して厳しい対応をしてくるであろうこと察して、活動をはじめる神社関係者もおられたとのことです。


今回のお話は以上となります。
ご拝読ありがとうございました。拜


次のお話は こちら


【参考文献】

(発行年の書き方は書籍による)
岡田米夫編『神社本庁五年史』(神社本庁、昭和26年5月)
神社本庁編『神社本庁十年史』(神社本庁、昭和31年5月)
葦津珍彦『神社新報編集室記録』(神社新報社、昭和31年5月)
神社新報企画・葦津事務所編『神社新報五十年史(上)』(神社新報社、平成8年7月)
神社新報創刊六十周年記念出版委員会編『戦後の神社・神道-歴史と課題-』(神社新報社、平成22年2月}
神社新報政教研究室編『近代神社神道史』(神社新報社、平成元年7月)
神社新報社編『神道指令と戦後の神道』(神社新報社、平成18年9月四版)
神社本庁研修所編『わかりやすい神道の歴史』(神社新報社、平成19年6月)
葦津珍彦選集編集委員会編『葦津珍彦選集 第三巻』(神社新報社、平成8年11月)
宮川 むねのり大人うし伝記刊行会編『宮川宗徳』(非売品、昭和39年1月)
竹田 恒泰『語られなかった皇族たちの真実』(小学館、2006年1月)
福永 文夫『日本占領史 1945-1952』(中央公論新社、2014年12月)

【写真等参考文献】
佐久田 しげる 編『太平洋戦争写真史 東京占領』(月刊沖縄社、昭和54年9月)
佐藤 洋一(文・構成)『米軍が見た 東京1945秋 終わりの風景、はじまりの風景』(洋泉社、2015年12月)
平塚 柾緒まさお『写真でわかる事典 日本占領史 1945年8月-1952年5月』(2019年5月、PHPエディターズ・グループ)

【参考新聞関連】
「朝日新聞縮刷版 [復刻版] (昭和20年下半期)」
入江 徳郎 他編『新聞集成 昭和史の証言 昭和二十年 第19巻』
(SBB出版会、平成3年10月第3刷)