空白・喪失期(燃え尽き)を超えて、次のあり方を考える
この記事はなに?
私は、数年前に、キャパオーバーと忙しさの中で、仕事へのモチベーションや取り組みの意義が消えてしまった空白期間を経験しました。
(その名残りは未だありますがw)
そこから少しずつ、自分を取り戻しつつあるように感じたのでその経験を書いてみようと思っています。
例によって徒然なる書きぶりでやっていきます。
燃え尽きの経緯などはこちらに書いていますので参考までにご参照いただけたら幸いです。
徐々にやってきた空白期
管理職になり少し経過した頃に遡ります。
着任当初構想していたことが一定達成されてはいたのですが自分の個力に依存していることも同時に感じていたため、
(結局自分でやりきってしまった面が大きい)
メンバーの視座を引き上げつつ強みを生かした強いチームにしていこうと考えていました。
この時はメンバーの視野と私の視野が乖離していることがわかったため、それらを統合して方向性を打ち出すことを諦め、まずはメンバーの思いを優先した方向性でミッションなどを調整していきました。
が、
内心は「なんでそんな近視眼的な小さいものを掲げるのだろう」と不満というか悲しみに近い諦めも持っていました。
(この時は、自分の考えは正しいのだ、という暗黙の思い込みがあり、皆それぞれの気持ちを汲んだコミュニケーションが出来ていません)
自分の正しさ・有用性の証明がしたかったんだと思います。
自分の思う業務クオリティであれば、任せるけど、そうでない場合はマイクロ管理になっていき、
自分のチェックが都度入る→メンバーが依存的になる→自分がより忙しくなる、ストレスが溜まる、
というスパイラルに陥ります。
そういった状況に加え、突発のトラブル対応等によるタスク増のキャパオーバーもあり、ある時から、
・朝仕事に向かうのがしんどい
・今日一日とにかく早く終えたい
・意欲が湧いてこない
状態になり、急に仕事の目的とか、中長期の展望も考えられなくなってしまいました。
発疹などの身体的ダメージも表出し、初めて上司に「もうできないです、、、」という言葉を伝え、周囲に助けを求めたことを今でも鮮明に思い出します。
自分のコントロール可能な状況を超えたため、任せざるを得ない状況になったわけです。
私の仕事観
私は、証券営業からスタートし、ITベンチャー→IT系の新規事業のマーケ/事業企画/CSなどを経験し今に至っています。
※キャリアについての記事はこちら
証券営業は結果がすべての世界、
ITベンチャーは、急成長を支えるために変化に適合してかざるを得ない競争環境激しい世界、と割とハードモードを経験し、その時の上司や会社の社風の影響を多分に受けてきました。
・自分が努力し、有用性を証明しないと、存在してはいけないのではないか?
・常に磨き続けないと陳腐化してしまうのではないか?
という恐怖が根底にあり、その恐怖に駆動させられるように働いていきたと思っています。
そしてそれは、あくまで”個(プレイヤー)”としての仕事観であり、その前提でマネジメントを行ってしまうと、「生き残れるヒトしか生き残れないチーム」になってしまい仕事が人生のすべて!といった価値観の人たちのみのオラオラ系の同質化したムラ社会になってしまう、、、
今までの「自力解決し自走するのがプロ」という脳筋スタイルを周囲にまで求めるあり方を変えていかねばならないフェーズに来たということなんだと思います。
本当はただただ、楽しく創造的にワクワクしながら仕事したいだけなのに、、、
有用性だけではもう頑張れない
有用性で生きるということはある種、外部の価値観に自分を合わせていくことです。つまり他責・他人軸の世界で生きること。
そのために、自分の気持ちを感じないように、無視し続けてきたことが積もり積もって一気に表出しブレーキを発動した、そういう状況にあると今は自覚的に思っています。
・モチベーションとか言っているうちはプロじゃない
・仕事に感情はいらない、ファクトと論理でコトに向き合え
厳しい言葉を言い聞かせ、駆動させ、追い込むような自分を演じることはもう難しいんだなと。
当時は、何が起きたのか理解できず、空白状態でやる気もなく、没頭もできない冷めた自分がずっとあり、その違和感に焦りが募り続けていました。
自分を大切にする
身体や気持ちの異変から、初めて自分に目を向けるようになりました。
・鍼に通って身体の自律神経を整えたり
・自分の身体の疲れを感じたら、無理させず仕事を切り上げたり
・イラっとしたり感情が動いたら事後でもそのときの状況を振り返えったり
・コーチングを通し、今までの自分を内省をしたり
自分の身体と心に向き合いながら、気持ち悪い空白状態に居続けること数年、、、
何者にならねばならない焦りは常にありますが、その焦りは少しずつ手放されていったように思います。
何者かになんてならなくても良い
やりたいことが見つからない状態が数年続き、周囲は、やりたいことを見つけて独立・起業していく人たちを見ながら、羨ましい目で見ていました。
(今でもそういう気持ちはやはり多少はあります)
何者にならねばならない、XXXしなければならない、
こういった思い込みで自分自身を監視し、縛り、不自由に追い込んでいたのは自分自身であることにだんだん気づきます。
そのこだわりで生きてきて、楽しかった?
そのこだわりは、なんのために?
そのこだわりは、これからも自分を楽しくさせてくれる?
たぶんこれからは、いらないし、違うし、気にならなくなってきたよ。
まとめ
企業社会に適合するために、有用性という御旗のもと駆動させられるように自分のスキルを磨き、限界を迎えました。
無視し続けてきた自分に気づき、自分を取り戻す過渡期こそ、空白状態であると思っています。
人間の心は、段階を経て発達していくという考え方があります。
(成人発達理論という学問があります)
まさにその階段を登ってきたのでしょうか。
時間の経過の中で、今思う自分なりの答えは以下です。
・やりたいことは、見つけなくてもいい。
・ちょっとこれ、楽しそうかも?と思ったらそれをやってみる。
・自分の気持ちを大切に、楽しいと思える状態で在れる、その時間をなるべく長く保つ。
・大切なのはその状態であり、何やっているかに拘る必要はない。
そして、自分の思いを率直に伝えてものごとを動かしていく、
こういう状態のほうが、実は客観的でありながら、興味をもって人と接することが出来る自分がいることを実感し始めています。
その状態を、どんなときでも保ち続けることができるか?
それが今後のチャレンジなのかなー、と思っています!
なんかとてもエモい記事になってしまったように思いますw
毎度最後尻切れトンボですが、今日はここで終わりたいと思います。
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