見出し画像

『マイ・アントニーア』/本・海外文学

内容(「BOOK」データベースより)
舞台は19世紀後半のアメリカ中西部。ネブラスカの大平原でともに子供時代を過ごしたこの物語の語り手「ぼく」と、ボヘミアから移住してきた少女アントニーア。「ぼく」はやがて大学へ進学し、アントニーアは女ひとり、娘を育てながら農婦として大地に根差した生き方を選ぶ。開拓時代の暮しや西部の壮大な自然をいきいきと描きながら、「女らしさ」の枠組みを超えて自立した生き方を見出していくアントニーアの姿を活写し、今なお読む者に強い印象を残す。著者のウィラ・キャザーは20世紀前半の米文学を代表する作家のひとりであり、その作風は後進のフィッツジェラルドなどに影響を与えた。アメリカで国民的文学として長く読み継がれてきた名作を親しみやすい新訳で贈る。

 このところ連続してそうですが、『文学効能事典』から見つけた本で、「めまいがするとき」で紹介されてて読みました。ハイハイ、またそういうやつ! 
 いつもそんな効能感じないね……って感想になるけど、今回はなんとなくわかるかも。家、故郷、大地、特別な誰かといった、自分を形作るものを確認することでしっかりと立つみたいなことね。
 うーん、言い方が軽い。

・久しぶりに話の筋のある小説を読んだような気がする。すっごいバカみたいな言い方だけど、純文学ってジャンル小説(SFとかファンタジーとかミステリーとか)より、ストーリーの流れというか話の筋としてはあんまりたいしたことが起きない傾向があるじゃないですかー。最近久しぶりに文学っぺえ本を読んでて、ふだんはジャンル小説ばかり読むもんだから、動きが少ないねえ、なんてどうしても思ったりしてね。
 その点、本書は結構大きな流れで時間も進むし、展開をわかりやすく感じられてボンクラおじさんにも読みやすかったです。いやあ、楽に感想を書くってこういうことだなあ! ハッハッハ!

・マジでモノを知らずに適当に言うと(いつもそう!)、本作はアメリカ農場ノスタルジア文学ジャンルに属すると思うんだけど、舞台の描写とそれに対する主人公の感性がとにかく美しい。
 両親をなくしてネブラスカ州の祖父母のもとで暮らすことになった主人公ジム。汽車で行くんだけど「ネブラスカについて特筆すべきことといえば、一日たってもまだネブラスカだったということだ」(p.5)という、関東圏に住んでる人だと静岡を思い出させる長い旅を経て、祖父母の農場に着く。
(ついでに、こういうのを読んで思うけど、日本国内ですら描写される土地勘がなくてふんわりと想像することが多いけど、アメリカのどこどこ州とか言われて、アメリカの読者は「ああ、はいはい、こういうイメージのこういう場所ね」みたいなのがあるだろうし、読み落としているそういう共通感覚みたいなのってたくさんあるんでしょうね)
 祖父母の家に着いた翌日、祖母の菜園に連れて行かれて、もう少し1人でここに残りたいと菜園の真ん中に腰を下ろして、太陽で暖まった黄色いカボチャに寄りかかる。

 土手に囲まれた谷底にある菜園では、風はそれほど強くなかったが、平地では風が歌い、草が波打っていた。座っている大地は暖かく、土くれを指でほぐすと暖かかった。(中略)ぼくは、できるだけじっとしていた。何も起こらなかった。何かが起こることを期待してもいなかった。ぼくは、カボチャと同じように、太陽の下にころがってそれを感じているのだった。それ以上のものになりたいとは思わなかった。ぼくは完全に幸せだった。おそらく、人間が死んで、太陽や空気、あるいは善や知識といった何か完全なものの一部になったとき、このように感じるのではないだろうか。とにかく、何か完全で偉大なものの中に溶け込むこと、それは幸福そのものだ。

p.15

 解説によると、最後の一文「何か完全で偉大なものの中に溶け込むこと、それは幸福そのものだ」。これは著者の墓碑に彫られているらしい。すてきだ。

 一気に青春時代の1シーン。これもシンボリックな美しい場面。

 間もなく、ぼくたちは不思議なものを目撃した。空には雲一つなく、太陽は金色に染められた透明な空に沈んでいった。その赤い円盤の下の端が、地平線上の小高い畑に触れたそのとき、巨大な黒い影が太陽の表面に現れた。ぼくたちは跳び起きて、目をこらしてそれを見た。すぐにそれが何か分かった。どこか高台の農場で、鋤が畑に立ったまま残されていたのだ。太陽はその真後ろに沈もうとしていた。遠くからの水平な光によって拡大され、鋤は太陽を背景にくっきりと浮きだし、その円の中にすっぽりと嵌っていた。柄も、ながえも、鋤歯も──燃えるような赤を背に、黒々としていた。まさに、途方もない大きさで、太陽に絵を描いているのだった。

p.200

 たぶん、この本を読んだ大半の人の脳裏に焼き付くシーン。

 あと青年期にアントニーアと再会して別れるシーンも美しかった。

 畑を越えて家路についたとき、大陽が沈み、大きな金色の球体が低く西の空に掛かっていた。同時に、東の空には月が昇ってきた。車輪のように大きく、淡い銀色に薔薇色の縞模様があり、シャボン玉か幻の月のように儚げだった。五分、おそらく十分の間、二つの発光体は平らな大地を挟み、世界の反対側に位置して対峙していた。
 その不思議な光の中で、小さな木、麦藁の山、向日葵の茎、ハツユキソウの茂みの一つ一つが天に向かって背伸びをしているようで、畑の土くれや畔がくっきりと浮き上がって見えた。ぼくは、大地の魅力を感じた。夜の帳が下りる頃に、畑から立ち上る厳粛な魔力だった。ほくはもう一度幼い少年に戻り、ぼくの人生の道がそこで終わることを願っていた。

p.260-261

 太陽と月がわずかな時間、同じ空に浮かんでいる別れのシーン。とてもいい……。

・しかし思うのは、発刊当時なかったんすかね、「アントニーアかリーナか問題」(こっちはジョーク)とか「なんでジムとアントニーア結婚しないの問題」。とくにアントニーアに対しては、もはや恋愛対象として禁欲的とすら言っていいんじゃないか? 少年時代にアントニーアがあまりにチャーリーの世話を焼くのを嫉妬した描写はあったけど、あれは恋愛というか……。
 ひとつ思うのは、第二部で描かれている、開拓民の中にある国内から来たもの/国外から来たものの断裂のこと。あまり露骨な描写ではなかったけど、この両者の結びつきって思ったより忌避されてて、彼女らと仲の良かったジムも結婚の対象とは考えにくかったのかあ、とか。ただ、たんにそれこそ露骨な描写がなかっただけで、楽しく恋愛していたのをこっちが読めてないだけかもしれない。

 あと、一応さっき引用した別れのシーンで、ジムがこう言ってたりはする。

「ねえ、アントニーア。ぼくはここを出ていってから、この世の誰よりも君のことをよく考えるんだよ。恋人として、妻として、母として、あるいは姉として、男にとって女がなり得る全てのものであって欲しい。君という存在はぼくの心の一部なんだ。気がつかないうちに数えきれないほど、君はぼくの好き嫌いを、ぼくの好みを左右している。君はぼくの一部なんだよ」

p.260

 ちょっと学術的に素振りの練習をしとくと、ラカンやジジェクの男女論から言えることがあるかもしれない。「君はぼくの一部」という言葉と矛盾してしまうが、むしろジムは他人でいっぱいなのではと思うのだ。
 ジムが大学で勉強していたときに、自分が学者になれないだろうということをこんなふうに表現している箇所がある。

 知的な興奮は、ぼく自身の何もない故郷の大地とそこに散りばめられた人々へとぼくを大急ぎで連れもどすのだった。クラリック(引用者注:学術上の師)がぼくの目の前に繰り広げる新しい姿を我が物にしたいと渇望しているまさにその最中に、ぼくの心はぼくから飛びだし、ぼく自身のちっぽけな過去の場所や人々のことを考えている自分に気づくのだった。彼らは、あの太陽を背景にした鋤の映像のように、強められ単純化されて立っていた。新しい知的刺激に対応するものとして、ぼくが持っているのは、彼らだけだった。ぼくは、ジェイクやオットー、ロシア人のピーターがぽくの記憶に占めている場所を惜しいと思い、その空間を他のもので埋めたいと思った。しかし、ぼくの意識が活発になると、これら昔の友人たちも活発になり、ある不思議なやり方で、ぼくと連れだって新しい経験をするのだった。この人たちは、ぼくの中でとても生き生きと存在していたので、この人たちがどこかで生きているのか、またどうやって生きているのかなんて、考えたこともないほどだった。

p.212

 これは語り手としての透明さもあると思うけど、それを脇にのけて男女間のことを考えるときにこのようにも思える。

 ジジェクが「女は男の症候である」という定式を述べるときに言っていることは、(中略)もし症候こそが主体の首尾一貫性を維持しているのだとすれば、症候が消滅したが最後、主体はその非一貫性を暴露され、消失してしまうことになる。だから、「女は男の症候である」というテーゼがはっきりしめすのは、女が男に首尾一貫性を付与する限りにおいて、男は存在しているにすぎない、という事実である。つまり男は、その存在を女に依存しているのだ。男の存在は彼自身の外部にある。ジジェクが主張するように、男は「文字通り外-存している」、すなわち「男の存在自体が「そこに」、つまり女のなかにあるのだ」

『スラヴォイ・ジジェク』p.149

 ジジェク的な主体とは空っぽの跡みたいなもので、なんというか考えさせられる。

 そもそも、本文の語り手はジムなんだけど、「序文の語り手=物語内の著者=同郷の古い友人はいったい誰なの問題」にもこのへんは関わるのかもしれない……? ここを読むとこの人は女性らしい。著者自身でもいいし、ジムという語り手も、もうひとりの著者自身と言えるかもしれないし……。
 ただ、このへん、解釈も難しいし、自伝的な書き方とか、創作上の人称のこととか、ついでに著者のウィラ・ギャザーが生涯独身でとおしたこともあって、男女論なんていろいろとややこしいのでここでブツ切れでやめておく! オッケーグーグル、ここですべて終わらせてくれ!

・ちなみに学術ごっこだと以下も。あ、オッケーグーグル、もうちょっとだけ語らせて!
 リーナからジムに対しての言葉。

「あたし、この関係を始めるべきではなかったのでしょうね?」彼女は小声で言った。「あなたに会いにいくべきではなかったのね。でも、あたしはそうしたかったの。あたし、いつもあなたにちょっと惚れていたんだ。そんな気にさせたのは、アントニーアのせいかしら。彼女、あなたに対して、浮わついたことをしては駄目っていつも言っていたから。でも、あたし、随分長い間、あなたに構わなかったでしょ?」

p.238

 これぞまさにザ・欲望! という気がする。「アントニーアのせいかしら」も、「あなたに対して、浮ついたことをしては駄目」も、「随分長い間、あなたに構わなかったでしょ?」も。
 この時のリーナ自身もまた、向かいの部屋のポーランド人とリーナの住居の家主から求愛されていて、不思議な4角関係になっていたりして(このくだりのエピソードも面白かった)。まあ、ジムがリーナに夢中になるのも無理はない気がする。

・まあ、そんな感じで? 美しく、淡い思いと、我が家と故郷の大切さを味わうのにとてもいい本でした。「めまいがするとき」に読むといいよ!
 自分は久しぶりにまとまらない長文(大半が引用文)をどわーっと書いて、まさにいま、めまいがしてるので、とりあえず寝ます!

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集