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9月は窓をあける(ぼぶ)

9.7②
文フリに出るため(川でピクニックじゃなくて、友達とのユニットで別のブースで出店していた)、子どもを義姉の家で預かってもらうことになった。
偶然なのだが、外国からHくんのいとこが一時帰国するので、彼とHくんのきょうだいたちが義姉の家に集まって晩ごはんを食べて泊まる、という会が文フリ前日に開催された。それで、Hくんと子どもと私の三人で夕方ごろ義姉の家に行き、ごはんを食べて私だけ帰り、Hくんと子どもは泊まり、Hくんは翌日の早朝に仕事に行くため帰り、子どもだけ残って丸一日預かってもらい、私が文フリから帰宅するころに車で送ってきてもらう…という大変ありがたいスケジュール。

文フリの前日(もちろん準備は終わっていない)だったし、よく知らん(というわけではないけど、友達ってわけではない)人々と(しかも人の家で)大勢で集まってワイワイするのが、にがて!!!なので、その集まりに行くのは少し気が重かった。
半休をとったHくんが子どもを連れていってくれるので、私だけ残ることもできたけれど、ちらっとHくんに言ってみると、「でもせっかく兄ちゃんが帰ってきてるし、ぼぶちゃんにも会ってほしい」といわれた。たしかに、私も前から会ってみたいと思っていたから、わざわざ機会を逃すのもな…と思って、やっぱり行くことにした。

いとこのお兄ちゃんという人は、おもしろい人だった。音楽家でギタリストで指揮者で、大活躍している。最近は自分の学校をつくったらしい!
仕事や生活についてとても興味があったけど、あまり色々なことは聞けなかった。たまにしか会えない、昔から仲良くしているいとこやその子どもたちとたくさん話したいだろうし、親戚の〇〇さんがどうしている、というような話で盛り上がっていたので、割って入れる感じでもなかったし。
でも、そういう身内っぽい話が全然いやではなく、むしろけっこうおもしろかった。そのことが、自分でものすごく意外で、びっくりした。
〇〇は■■の子どもの頃にすごく似ているとか、あのころ自分は何歳で、〇〇は何歳で、〇〇のお父さんがよくこんなことをしていて…とか、そういう、親戚あるあるみたいな話。誰か知らん人の名前とか、私にはわからない話がいっぱい出てくるし、誰と誰が似ているかに別に興味もないのだが、どうでもいいとは不思議と思わなかった。ここにずっといたいとも思わないけど、居心地が悪くはなかった。

メンバーは皆、性質的に気を遣わずにいられる人々なのだが、いとこのお兄ちゃんがいたことで、いつも以上になんとなくまるい空気がつくられていたような気がする。
外国というのはスペインで、コロナ禍のことや、いろいろな面で日本と違う話も少し聞けて、おもしろかった。話してみたいことはたくさんあったけど、またの機会があるだろうな、と思う。

夜、それほど遅くない時間に家に帰って、文フリの荷造りをした。
文フリのことはまた書きたいかもしれない。

9.7
先日ラジオで子育てにまつわるトークを聞いていて、全体的にうーん…ふーん…うーん…とモヤモヤしながらあまり楽しめず、でもこのラジオを楽しめなかったという話を友達としたいな、と思って最後まで聞いた。そして最後の方に繰り出された「4歳の女はもう女ですから」に、うわー!!出たーー!!嫌すぎる!!みんなこれ笑ったり共感したりしながら聞いてんの???その目線、その言葉のチョイスが面白いとかあるあるとか思われている世界…とうっすら絶望した。
そのあと、ラジオのことはちょっと忘れていたのだが、友達が同じく上記の発言について「嫌だった」と書いているのを読んで、そうだった、この話を友達にしたいと思っていたんだ、と思い出したし、書いてくれていることがとても嬉しかった。

友達の文章は私よりずっと冷静だったので、私も落ち着こうと思った。
何が嫌なのか、どのような違和感があるのか。
どんなふうに捉えて、向き合って、考えたいのか。「嫌だ」や怒り、どう感じたかを大事にしながら、その先とかその底の方へ潜って考えたいし、考えるには、私はやっぱり書いたり人と話したりしたい。

このごろ、ことばではないものとか、ことば以前のもの、ことばでは言い表せないものが気になるし、大事にしたいなと思っていたところだった。引っかかって立ち止まるより、その向こう側を汲み取ったり、さらっと流すのもいいんだろうなと思う。
でも、そういう感覚のところを研ぎ澄ますことと、ことばを丁寧に扱うことは、どっちもできるんじゃないか、矛盾しないんじゃないかとも思った。もう私はことばを持ってしまっているし、思う存分に使えるようになりたいな。こだわるとか固執するとかじゃなくて、大事に扱う…自分の体の一部や、手入れしている道具みたいに、ことばを使えたらいいなあと思う。
文フリの前の夜、そんなことを考えている。

9.4
よく行く某ショッピングモールのセリアが閉店しており、今度はキャンドゥができるらしい。ガーン…!キャンドゥも好きなんだけど、家の近くにすでにあるので…ダイソーもあるので…セリアが生活圏内からなくなってしまうのはショックだ!(実は百均が充実してるエリアに住んでいたんだな。ありがたい)

というのも、私はセリアの小麦粘土(子どもの遊び用)のファン。バケツ型のかわいいケースの中にたくさん入っているし、原色のみとかパステルカラーのみとか、バリエーションもある。なにより、使ったあともケース(蓋付き)に入れておけば、固くならない!
他の百均でも買ってみたけど、入っている量も少なかったし、すぐに固くなってしまって、長く遊べなかった。だからセリアの小麦粘土を愛用していて、何度も買い足している。

長く遊べるといっても、ある程度経つと固くなるし、ケースに入れず出しっぱなしになっていることもあるし、だんだん色がまざってぐちゃぐちゃのかたまりになっていく。ストックしてある新しい粘土を出すと、子どもはワーイ!と喜んでしばらく遊んでくれるから、重宝しているのだ。

このあいだ甥っ子が来て、すべての粘土を混ぜて迫力ある塊を制作して帰っていったので、新しいのを買っておこうと思っていたのに…

しかたがないから、キャンドゥ(新しい店舗はまだ開店していないので、前からある近くの店舗)で別の小麦粘土を買ってみた。これはまだ使ったことのないやつ。いい感じだったらまた報告します。

9.1
8月30日(金)、保育園のお迎えのとき、あっそういえば!と思って先生に確認してみた。
「プールって今日までですか?」
「そうです!あっというまでしたね〜」
本当に!あっというまだ!7月のあたまにプール開き、そこから2ヶ月、ほぼ毎日、持ち帰ってきた水着を急いで洗って干して次の日の朝にまた持っていく日々だった。(水着を一着で回していた)
夏の終わり…さみしい…
オードリーもラジオで夏を惜しんでいた。なんなら1ヶ月くらい前から惜しんでいた気がする。夏がくるとわくわくすること、過ぎていくのがさみしいことをいつもオードリーが話してくれるのでうれしい。他にも同じように感じている人がいることがうれしい。

夕方、風が吹いて、涼しくて、日差しがほんの少しやわらかくて、もう秋めいた雰囲気だった。(そのことも、やっぱりオードリーも話していた。)
さみしいけれど、暑さが和らぐのはほっとする。惜しむ気持ちはあるけど、こんなに暑い季節が永遠に続くとしたらちょっと無理。
季節が進むのはさみしいのにうれしい、このなんともいえない気持ちはなんなんだろう?

夏が過ぎて秋が来るとほっとして、冬が過ぎて春が来るとほっとする。でもまた暑い夏は来るし、寒い冬も来る。
子どものころ(当時は夏の暑さはそれほどこたえなかったので、ひたすら冬がつらくて)、こんなに寒いつらい季節がこれから一生毎年やってくることに絶望していた。朝ふとんから出るのが苦行の季節。
でも、あれから数十年、日本に暮らし続けてそれなりに毎年冬を越し、そこそこ快適に生きているし、いつのまにか絶望しなくなった。寒い季節もちょっと好きになってきたし。
繰り返し繰り返し季節を越えていると、なんとなく、人間というより生き物っていう感じがして、少し気が楽になる。大事なのはただ生き延びること、だったら十分やれているな、と思う。

子どもが「あざらし!」って言った雲

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