遠い記憶
買い物をすませ店から出ると、太陽はすでに山へ姿を隠し東の空からは闇が迫っていた。西の空にはまだ明るさが残っている。小さな雲が時間なんか関係ないといった風にぽかんと空に浮かび、西陽の当たる側を茜色に染まらせていた。雲はあくまで白いけれどさすがに陽光の届かない東側は色を失いかけていて、そのせいで茜色が一層燃え立つように明々としていた。沈む太陽が名残りを惜しんで空に放った残り火のようだった。
自分の帰る方向が闇迫る方ではなくその茜色の方だと思うと、ムウの足取りは軽かった。 大通りから1本に路地に入りのんびりと歩く。日が暮れたのとちょうど同じか僅かに多いくらいの灯りが人家からこぼれ路地を照らしている。日曜の午後の楽しげな活気がまだそこら辺に充満していた。それでも歩いているうちに徐々に影の方が濃さを増していった。それに連れ路地も静かになっていった。
ムウは思い出したように大きく息を吸い込んだ。春の訪れの頃の柔らかな夕方の香りが鼻いっぱいに広がった。うっとりしてムウはもう一度その香りを吸い込んだ。体の隅々まで自分をその香りで満たしてしまいたかった。そうしながらムウは、ある特殊な感情に猛烈に襲われ始めていることにふと気が付いた。けどそれが一体どういう感情なのか、言い表しようもなく、分からなかった。その感情は熱烈にムウに到来した。訳もなく甘い懐かしさのようなものがムウの胸を突き体全体を包み込んでしまった。と同時にムウはワッと泣いてしまいたくなった。ちっとも辛くも悲しくもなく、胸にはほんのりとした甘ささえ広がっているというのに。ムウはこの唐突な到来に困惑したが、泣き出しそうになるのをこらえ、じっと全身でそれを感じてみた。
どうやらそれは自分の中からやって来ているらしかった。いや、中よりも奥と言った方がいいだろう。とんでもなく遠い遠いところから湧いている、そんな気がした。そしてそう思うやいなや、ムウは路地を歩きながらどこか遠い彼方を歩いている感覚に捉われた。確かに地面を歩いているはずなのに、ふわふわとしてどこを歩いているか定かでなく、斜め上の方を歩いているような、異次元の軸を歩いているような、そんな感じがした。
そしてふと、それが本当に遠い彼方なんだと理解した。確かにそこにあったたくさんの人々の記憶という過去と私の今が交錯したようだ。歩いているうちにどれかの一歩が過去の入口を踏んだのかもしれない。あるいは、私が吸い込んだ春にあらゆる春の記憶が織り込まれていたせいかもしれない。風が気まぐれに運んできたのだろうか、それとも、ニンフの悪戯だろうか? それはあまりに素敵な記憶だった。幾千万の年月の中で人々が待ちわび訪れを祝った春の記憶だ。幾千万の春の喜びが一陣の風になり吹き渡っている。あるいはそれは春そのものだったのかもしれない。その甘美な福音を、無数の花びらがひらひらと祝福していた。ムウはできるだけ長くそれに浸っていたかった。歩みを止めると消えてしまいそうな気がして、遠いところを歩いている感覚に集中した。やがてそれは薄らいでどこかに行ってしまった。ふわふわとした感覚だけが麻痺したように残った。
ムウは路地から海岸へと降りた。海岸に沿って歩けばもう家も近い。歩きだした途端、砂に足をとられて靴が砂に埋まってしまった。靴を脱いで逆さまにすると、ざぁと砂が溢れ落ちた。今日、靴の中から砂を追い出すのは何度目だろう? 私は人生であと何回、こうして靴を脱ぎ履きするのだろう? そんなことをぼんやり思いながらムウは水平線の方に目をやった。
海は穏やかに波音をたてていた。海面のすぐ上をもやのように雲がとろとろと広がり、海とつながる山に沈んだ太陽が今際の炎でその雲を燃やしている。淡く燃えた海と雲とが、山の稜線を雄大な藍色のシルエットに炙り出していた。
ムウは何度もそれを振り向きながら歩いていった。
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